証言

齊藤直次さんの旧満州、吉林における終戦体験 その3

 齊藤直次さんの旧満州吉林における終戦体験の「その1」は、2012/12/12に、「その2」は2012/12/15書いてございますので、ご覧ください。

【その3】

 試運転はピーヤが折損し、完全に失敗しました。川底に投げ出された工務区長は重傷、中国人の操車員と機関士のうち一人が死亡、大変な事故となりました。手にした乾杯のためのパイチュウは川原の砂に流し込み、あこがれの白米のおにぎりは灰を噛む思い、心の中は一様に暗く閉ざされてしまいました。夕暮れになってから隊列をつくって久しぶりに厚生会館への道を急ぎましたが、すでに大事故を知った中国人の小孩(子供)たちが、「サーレン」(人殺し)と口々に叫びながら、石を投げつけてきました。

 悪夢のような日が去り、ようやく平静を取り戻しましたが、鉄橋を復旧せざる限りは日本人の送還はさせずーという国府軍当局の訓令に奮い立ち、無為に終わった日から10日ほどして、再び松花江岸に集まり、今までより一層張り切って杭打ち作業に精をだしました。

 余談になりますが、鉄橋事故の復旧工事は、敗戦前、旧関東軍が戦時目的のため、現鉄橋より更に下流に、低いピーヤを打ちかけていたのがあり、その追加工事のような形で急ピッチで建設を進め、内地への帰り間際には列車が通るようになっていました。

 鉄橋工事の話しなど、引き揚げとは何ら関係ないようですが、吉林の人たちにとっては、この二つは切っても切り離せない因果関係にあったことがおわかり戴けたと思います。

 話しを第11遣送団の出発のときに戻します。実は、私たち塾の独身者も、の頃、満鉄の第一次遣送に予定されていて、命令のくるのを一日千秋の思いで待っていました。ところが間際になって、独身者に待ったがかかりました。理由は判りませんが、どうも国府軍に協力することらしい、という話が伝わってきました。その時の言うに言われぬ不安な、困惑した気持ちは今でも忘れません。このまま軍隊と行動を共にして、内地に帰れないのではないか、という心配でした。

 先にふれたように、生田、今村の両家族は、満鉄組の先端を切って帰りましたが、私は、どうもこの皆さんをどんなふうに送ったか、全く覚えていません。短い期間ながら、戦後の苦しみを一緒に味わってきた仲間ですから、知らん顔をしているはずがないのです。しかし、梅村さんたちを吉林駅で見送った光景は、40数年経った今でも脳裡にこびりついています。

 

 

 

 

 

 

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齊藤直次さんの旧満州「吉林における終戦体験 その2

吉林を占領した国府軍は、八路軍の反攻を極度に恐れ、吉林を取り囲む山や河や野などいたる所にトーチカ陣地や砲台の建設を始めました。人夫は勿論日本人の使役です。いちばん辛いのは山上の陣地構築で、重い砂やセメント、砂利、それに水をt運ぶのに大変な苦労を重ねました。
 トーチカ陣地の構築に並行して、八路軍に破壊された松花江の鉄橋の修復工事が日本人に下命されました。八路を進撃するためには、この鉄橋の修復は絶対に必要なのです。6月鉄橋工事が開始され、私も陸軍兵舎の生田、今村家族に別れを告げて、厚生会館の塾に戻り、松花江の工事現場に向かいました。
 鉄橋工事は3工区に分かれ、満鉄グループ、市内一般グループ、対岸の化学工場グループがそれぞれ工区を受け持ちました。応急処置ですから、材木のピーヤを何本も打って枕木を並べるわけですが、私らはいわゆる土方で、ヨイトマケの綱引きを昼夜兼業でやりました。河岸に引き込まれた貨車の中が宿泊場です。満鉄組は私ら若者を中心に200名が動員されました。日本人が大勢でエカ(クーリー・土方)をやっているというので、中国人が次つぎと見物に来ました。それを当て込んで物売りが声をはりあげ、賑やかな盛り場に一変しました。
 やがて、新京から持ち帰った鉄道局幹部の情報によると、吉林日本人の帰還事務開始近しとの朗報に、工事現場の一同は雀躍して喜びあいました。この工事が終われば、日本に帰れるという大きな期待が確実になりつつあるので、夜を日につぐ突貫工事も順調に進捗し、予定通り試運転を迎えたのが7月3日のことでした。
 その日の喜びは二重でした。苦労したかいのあった鉄道の貫通と、内地引き揚げがほぼ現実となったことです。河原の炊事場では、当番がこの日の為に取っておいた白米のおにぎりと、豚肉の御馳走を準備しています。もう夕方に近かったのですが、国府軍の偉い将校も列席し、私たちは茶飲み茶碗にパイチュウをなみなみと注いで、今や遅しと、試運転機関車の通過を見上げておりました。めでたく試運転を終えて、すばらしい美酒の乾杯をと考えた塾長の粋なはからいだったのです。
 やがて蒸気をふかしながら待機していた機関車の先頭に赤と青の手旗をもった操車員が乗り、その脇に日本人の工務区長が現場責任者として乗りました。機関士も助手も中国人です。ひときわ高い汽笛を鳴らして試運転車は静かに動き始め、満鉄班の工区を通りました。メリメリメリ…と枕木がきしむような音がしましたが、そばにいた工務区線路班の男が、木のピーヤだからああいうめり込む音がするのだと云ったので、少し安心しました。しかし、悲劇はその直後にやってきたのです。
 満鉄工区を過ぎ、市内班工区にさしかかったとたん、機関車は轟音と共にまっさかさまに水の中に落ち込んでしまいました。         -つづくー 

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齊藤直次さんの旧満州「吉林における終戦体験 その1

 こんど発行される予定の、いわての文芸誌『天気図』に、『槿花の露ー吉林のある音楽活動』と題し、齊藤直次氏の証言を基に多くを書かせていただきましたが、音楽の側面からの取り上げが主でしたので、取材するも、書き込めなかった事項が多くございました。戦争体験は他にも著書、ネット上に多くございますが、その体験はお一人お一人異なる重大な証言ですので、これを独断で無駄にすることは許されることではないと考え、このブログ上に記しおく次第です。以下は齊藤直次氏の証言です。

 親しくしていた梅村さんたちは、昭和21年8月17日、満鉄関係の第2陣、吉林第11遣送団として吉林を離れ南下した。私は独身者全員の留用命令に引っかかり、その約1カ月遅れで吉林を出発した。
 満鉄の第一陣は、陸軍兵舎にいた生田さんや今村さんたちで、第10遣送団に組み入れられ、8月14日に約2000人が吉林駅に集結し乗車した。
 吉林市の遣送が始まって、第一遣送団が出発したのは、7月21日です。開拓団など難民の人たちや、街の人たちが先に帰りました。
 八路軍が吉林を支配していた間は、内地引き揚げの話を聞くことはなかったが、5月下旬、国府軍(国民政府軍)が吉林に入城してから、こんどこそは帰れると大きな希望を持ち、日常の生活にも明るさが出てきた。
 八路共産軍と国民党軍の戦い、いわゆる国共内戦は、八路軍の吉林支配とともに顕著になり、吉林郊外の戦場から傷病兵が間断なく送られてきました。私らは軍夫として八路傷病兵を病院に運び、ときには阿鼻叫喚の戦場にタンカを持って出向き、夜陰に乗じて死傷兵を収用して貨車に運ぶなど、大変辛い思いをしました。しかしこの戦いは八路の負けであることがありありと見えたので、心の中では快哉を叫んでいました。
 新京方面の山々から、ドスーンという大砲の音が昼夜の別なく響いてきました。たったいま、駅から病院に運んだばかりの傷兵を、直ぐ駅に戻せという命令で、再びタンカを担いで大馬路を逆戻りしました。病院から医療器具を満載した大車(ターチョ・荷馬車)が大急ぎで駅に向かって走っていく。国府軍の大砲の音がすぐ近くに聞こえ、大馬路は、敗走する八路将兵と大車でごった返し、吉林の街はしばし混乱が続きました。
 記録では5月27日となっていますが、敗退する八路軍は、敵の進路を阻むために、松花江に架かった吉林大橋と、その下流にある鉄橋を爆破して逃げていきました。大砲の音と違うその爆破音に、不安と戸惑いを生じるばかりでした。この両方の橋の大掛かりな爆破作業はすべて日本人の使役にやらせたのです。この日梅村のおじいさん(梅村保)も遠方の使役に駆り出されていたらしく、爆破を目撃したのかどうかわかりませんが、吉林大橋が爆破されたと、その凄さ、怖ろしさを私に語ってくれたのをはっきりと記憶しております。
 こうして待ちに待った国府軍が、青天白日旗をへんぽんと翻しながら、吉林市に進駐してきたのだった。当然のことながら、吉林省政府と軍管区師団長の連名による布告が出されました。ソ連軍が撤退し、八路軍が後釜にすわって僅か1ヶ月半経ったばかりのことでした。
                                -つづくー

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