日曜日のおはなし『主イエスの御名ー2』
おはようございます。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会のメセージをおつたえします。
聖書引証 使徒の働き3:1~26
1ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。
18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。
21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
:23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』
24 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。
25 あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。
26 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」
《國光牧師のおはなし》
この朝は聖霊のお働きがどのように教会に祝福をもたらしていったのか。そのことに焦点を合わせ、使徒の働きに意識を向けたいと思います。使徒の働き2章にペンテコステの出来事が記されております。きょうはそれに続く教会がどのようにそれに関わっていくことになったかをお話しします。
当時のユダヤの人たちの大切な祈りの時間は、午前9、12、午後3時です。日本人の習慣からは、午後3時の祈りの時間といってもピンときません。
たった一度だけ海外に行きました。乗った飛行機がエル・アル・イスラエル航空というイスラムの飛行機でした。時々ですが、方位磁石が出てきます。メッカの方向を示しています。イスラムの方々の祈りの時間にどちらに向かって祈るかを示します。このような配慮を新鮮に覚えたことでした。
ペテロとヨハネが午後の3時の祈りに、というのは、それほどにユダヤの人たちにとっては生活に根付いている習慣だった。そしてこの美しの門に至る。美しの門からは異邦人や婦人たちは美しの門の前に、生まれつき足のなえた人が運ばれてきて、宮に入る人たちから施しを求めていた。彼は自分でこの場所に来ることはできません。自分を助けてくれる近しい者たちがいる。彼が癒されたあとの出来事を見ると実にセンセーショナルです。いつも美しの門の前で施しを求めていたあの男が、と誰もがこの奇跡的な出来事に驚嘆することになるのです。その意味で彼は有名人になっている。
美しの門までは、彼はかつがれて連れてきてもらっていた。美しの門の奥には本来なら彼は一生入ることができなかった。自分とは関わりのない場所であったのです。
3節にペテロとヨハネが、宮に入ろうとするのを見て施しを求めた。おそらくペテロとヨハネは恵まれた雰囲気を持っていたでしょう。世の中の人たちとはどこか違う。それを彼が見抜いて施しを求める。ほんとうに彼は期待したのです。ところが4節以降にあります。
4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
彼は宮に入っていったのです。彼にとって、宮に入るということが何を意味していたのか。生涯自分とは関わりのない祝福、みんなが入っていくあの祝福に、自分も今ようやく入ることができた。
私はこれで、あることを思い出します。国際飢餓対策機構、何とか飢餓で苦しんでいる人たちを助けましょうというクリスチャンの人たちのはなしです。
「ほんとうに救いを与えようと思ったら、求めている人に魚を1匹恵む、これはその人にとっては助けになります。しかしそれは1日で終わってしまう。しかし、私たちが願っているのは、魚をあげるのではなく、釣り竿を与えて、釣り方を教える、それが私たちの使命です。釣り竿を与え、釣り方を教えるなら、こんどは、彼はそれを用いて、これから自分で食物を得ることができる。」
どうでしょう、4から6節、この男は金銀を求めたのです。しかし、ペテロとヨハネは言いました。金銀は私にはない。私にあるもの、それはナザレのイエス・キリストなのです。キリスト、これによって歩きなさい。足なえの人は、どれほど自分で歩きたかったことでしょう。しかし生まれながら足がなえている。彼は歩いたことがない。彼の右手をもって、ペテロとヨハネは、さあ立ちなさい。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなった。躍り上がってまっすぐに立った。歩き出した。歩いたり跳ねたりした。よろよろじゃないんです。すっくと立った。神様の奇跡、憐みというものはこういうところにある。これはまさに人のわざではない、神様のみわざ以外の何物でもないということがよくわかったのです。
ナチスの強制収容所に入れられたコーリー・テン・ブームの証があります。お父さんはまもなく収容所で亡くなり、お姉さんと一緒にいる。あの地獄のような中で、イエス様がともにいてくださることを知っている彼女にとっては、天国の前味わいであったという証もあります。お姉さんはなくなりましたが、何かの手違いがあって、彼女はその収容所から出ることができた。なぜ彼女は自分が生きながらえることができたのか、それはイエス様を証しする使命が自分には与えられているからだと気づき、彼女はその後、世界中の国々に出かけて証しをしました。ドイツにも行きました。そのとき、一人の男性が握手を求めてきた。はっとしたのは、その人は、収容所にいたとき、いちばん辛くあたった憎んでも憎みきれない看守であった。彼女は、これはキリストの証のためにも看守の手を握りたくない、しかし握らなければならない。しかし彼女は手を握ろうとした、その時に、彼女の意思とともに心も大きな奇跡をいただいて、その瞬間、彼女の手からその人に向かってなんともいえない大きな力が加わり心からゆるすことができたというのです。これはひとのわざではない。内にあるお方、ここでいうとイエス・キリストの御名なのですが、わたしのうちにあるもの、それをもって人の思いをはるかに超えた神様の栄光が現された。これは決して彼女が偉いのではない、彼女のうちにあるお方がそうさせてくださった。ペテロとヨハネに心を向けますと、彼らは、つい二か月ほど前、イエスさまを十字架に追いやった人々、こんど自分にも迫害の手が伸びてくるだろうと恐れ惑っていたところにとどまっていた臆病な只者なのです。弟子とはいえそうなのです。しかし、そのものに聖霊が与えられたとき、彼らが変わった。そして、その経験をもったペテロ、ヨハネは、男に憐みをもって、まさしくはらわたがよじれるような神の憐みのごとくの同情をもって男に対する。この人も彼らに目をあげた。
「私にあるものを与える」。ペテロとヨハネはイエス・キリストの御名によって彼らを立たせたのです。ただふつうの人、むしろ弱いペテロとヨハネが、御霊に満たされたところで、キリストの御名によって足なえの男を立たせることができた。内にあるお方があふれ出てこのゆなことをさせてくださった。これは私たちにも可能ではないでしょうか。
私たちは何か優れているものではない。しかしほんとうにイエス・キリストの十字架の恵みと愛を知って聖霊に満たされるとき、私にあるもの、それを自覚することができる。
7節彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
この後で弟子のイエス・キリストの証しが始まっています。
そしてまた足なえだった男が、どれほどすばらしいキリストの証し人になったことでしょうか。彼は変貌したのです。
ここに根本的な解決がああります。私たち自身が内にあるお方をにより変貌せられていること、これは可能なことです。これを大きな励ましとして捉えさせていただきたいと思っております。
※講壇の生け花はひろ子牧師、コンサートの案内のデザインはご息女A姉です。
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