芥川龍之介と盛岡
昨夜、BS朝日で「黒柳徹子コドモノクニ作家島田雅彦がたどる芥川龍之介と太宰治」が放送された。この中で芥川が改造社から出た現代日本文学全集の宣伝旅行で北海道、東北を回ったことに触れていたが、盛岡にも来ている。私が太田カルテットを調べるために昔の新聞を当たっているうちに、この記事に出会った、モニター画面に出てきたときには、ほんとうに出会ったと思い感激した。もう30年近く宮古在住の頃のことだ。中ぶんな著『光炎に響く』(新風舎刊)の芥川の場面は、みなこの資料を基に書いています。一枚目の見出しの余白にあるメモは私が入れたのですが、岩手日報新聞昭和2年5月17日第2面ということです。
この記事の末尾に、「佐々木休次郎、館澤半次郎(正しくは繁次郎です)君に見送られて出盛した」とあります。この佐々木休次郎、館澤繁次郎が太田カルテットのメンバーです。ですから、『光炎に響く』の芥川の場面は、強引に太田カルテットを結びつけて単なる想像で書いたものではなく、史実通り、またはこれに基づく類推から書いています。
次は、芥川が宣伝旅行から帰ってから寄稿した『改造』からの抜粋です。
5月に盛岡に来た芥川は、7月には自殺。
上の記事と同じ面の掲載記事ですが、わかりにくいかもしれませんが、これは芥川自殺後の記事。写真は盛岡駅で、芥川が青森に向けて汽車に乗る直前に佐々木休次郎が撮っている。非常に不鮮明ですが、新聞には「左から里見氏、中央芥川氏」と書かれていますが、右隣は、館澤繁次郎であったと思われます。
またこれも宮古時代のことに遡りますが、主人に同行してもらい、太田カルテットのメンバー赤澤長五郎のご子息赤澤和夫さんのもとに資料をお借りしに行ったことがあります。ダンボール一つ分の中には、芥川龍之介の名刺がありました。
親しかったかどうかはわかりませんが、太田カルテットのメンバーたちは、東京でも盛岡でも機会あるごとに接触があったものと思われます。
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