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2026年5月

2026/05/24五旬節礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『召される人ならだれにでも』 使徒の働き2章22~42節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それはあなたがた自身がご承知のことです。
23神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
25 ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
26 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
27 あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
28 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

34
ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。
35あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人々ならだれにでも、与えられているのです。」
40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

神谷牧師による説教の要約
 預言者ヨエルが語った「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」とは、神の霊が注がれ、神さまのみ思いを知り、神さまが見ておられるものを見ることができるようにされることである。
 また、聖霊を与えられた弟子たちが他の人が見ても、それがわかるようなかたちで、外国語で神のことばを語り出したのは、ユダヤ人の持つ律法や割礼の儀式に縛られることなく、ただ信仰によって異邦人も救われることが、誰の目にもわかるようになるためである。
 今の私たちにとって、キリストの証人となる、とは、御霊の働きによってキリストに似る者とされることである。無力な自分の真の姿を知らされた上で、それに失望することなく、かえって全面的に聖霊にゆだね、このお方によって、キリストのごとく造り変えられてゆくことを期待しつつ、進み行きたい。


<ブログ管理人のひとりごと>
 聖霊降臨を記念する礼拝のこの日、すこし健康に不安があり、もう致し方ない、今日は教会に行くのは休んだ方がいいかなという思いに傾いていた。しかし、さまざま考えて、ここはすこし頑張ってみようと、出発時間には思い直し、いつもご一緒する方に行きますと連絡。彼女はもう一人で行くつもりで家を出るところだった。すんでのところで間に合った。これでよし!
 教会に着くと、駐車場の傍らに若いI姉が植えてくれた苺が幾つも美しく実っていた。雑草も勢いがついてきているが、公園に隣接する側はK姉、教会には何人かのK姉がいらっしゃるが、控えめで真実なK姉がいつの間にか草取りをしてくださっていたのだった。申し訳ないと思いつつ、中に入りいつもの席に着く。すこしすると玄関に来会者の気配。振り返ると何と関東圏に住む弟夫婦が現れたのだった。所用で来ており、日曜にかかったので礼拝に来たのだ。私にとっては、これは思いがけない神さまからのプレゼントだった。休まずに来てよかったと思った。スマホに入っている写真を見せながら久しぶりに語り合うことができた。礼拝が終わって、しばらくT兄とはなしていたが、教会前で見送った。「元気でいてね」。クルマで来たらしい。今からまたそちこち用を足してあるくのだろう。
 人生の要所要所であった聖霊の諭し。それは神さまが何等かを通して自分に顕れてくださった瞬間だったと思う。愚かなときにはそれを忘れていたり軽んじたりもする。しかし今はわかる。たいしたこともないこの自分にも神さまは聖霊さまを介し、これまで導きつづけてくださった、これが神さまのご愛。なぜにわたしに、なぜにわたしが、これが神さまのご愛であることを、今しみじみと思い返させられている。
 

 

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2026/05/17聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしを通って入るなら』 ヨハネの福音書10章1~18節
 (説教題をクリックしてお聞きください)
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1
「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
2 しかし、門から入るのは、羊たちの牧者です。
3 門番は牧者のために門を開き、羊はその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれの名で呼んで連れ出します。
4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

神谷牧師による説教の要約
 キリストが門であるとは、私たちが神の国に入り、救われるために、この方がただひとつの入り口だということである。
 また、この門である方を通して救われるとは、このからだのいのちではなく、永遠の神とともに生きるいのち、神と歩む生涯を豊かに持つことを指している。
 そのためにキリストがしたことは、いのちを自分から捨てて、十字架にかかって死ぬことであった。それは神と人の間にある罪の妨げを取り除き、キリストと同じ性質のいのちをもたらした。
 誰であっても信じるなら、この門を通って救われることができる。
 

<ブログ管理人のひとりごと>
 先週は寒暖差についていきかねてか熱を出し、コロナ・インフルの検査を二度も。どちらにも罹ってはいなかったが、要注意。極力外出を控えた。ゆるくゆるく家の中で過ごしている。
 思えば、教会の日曜礼拝に説教がお休みだった日はなかった。先代の、また現在お世話になっている先生も、日曜礼拝を欠かしたことはなかった。体調が思わしくないこともあったかと思う。それでも日曜の礼拝は守られてきている。どんな状況下にも主を見あげることなのだ。

 写真はKさんが掲げてくださったみことば「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」

 

 

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2026/05/10聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『はたしてそのとおりかどうか』 使徒の働き17章1~12節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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1
パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。
2 パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。
3 そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。

4 彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。
5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。
6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。
7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」
8 これを聞いた群集と町の役人たちは動揺した。

9 役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。
11 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
12 それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。

神谷牧師による説教の要約
 ベレアの町の人々が、パウロの語るみことばが果たしてその通りかどうかを調べたとは、キリストの十字架と復活が、本当に聖書に書かれている預言であるかどうかを確かめたといえる。
 そのように、パウロがキリストを伝えた時、それを信じた人と信じない人の違いは聖書を読んだ結果、自ら正しくあるために努力するか、自分が持つ罪の事実を悟って救いを求め、それをキリストに任せてゆくかの違いである。
 聖書を読み進むとき、神が私たちに願っていることは、私たちの罪が赦されるために、十字架にかかってよみがえったキリストを信じることである。

<ブログ管理人のひとりごと>
 11日、葛巻まで行ってきました。凡そ40年前に盛岡市の日赤病院産科病棟の一室で、私の隣のベッドに入院していたTさんに会いに。是非葛巻高原を見に来てくださいと招いてくださったのだ。息子たちが中学校当時のいわばママ友であるIさんを8時に拾い、一路4号線を281号線を駆けること1時間半、Tさんの待つ小屋瀨中学校に到着。それ以上の運転は自信がないという私の健康を気遣ってくれ、途中まで迎えに出てくださった。そこからTさんのクルマに乗せてもらい、袖山高原に。途中の白樺林の新緑はすばらしく、白樺の樹下には一面に二輪草の白い群落、ところどころに紫の花が点在。何の花かは後で調べよう、そう思い写真を撮らずに来たところが、花の名はいまだ特定しかねている。樹間には躑躅の堅い蕾、ややに開きかけた蕾が開花に向けて待機。瑞々しく清々しい景観の連続でした。Tさんとは数十年ぶりの面会。北上山系開発の入植者として、50年の人生をこの岩手につぎ込まれた方だ。女性ながら巖のように不屈で堅い意志が刻まれた日に焼けた面差しに、私は深い感慨と感動を覚えていた。
 北上山系開発というのは、国土開発が北上山地にブルドーザーを入れ高原に牧場を切り開き、住居、搾乳機械、バルククーラー、サイロ、牧草地等などの設備をワンセットに入植者の方々を募った。これは農水省の事業として行われたが、当時の私には国土開発と農水省のやりとりまでには考えが及んではいなかった。この事業は確かに農水省の夢だったのだ。夢の酪農団地。結果的にこの事業で儲けたのは誰か、損をしたのは誰々かにまでには考えが及んではいなかった。しかし、のちの乳価の暴落が夢を打ち砕いた。借金は酪農家の方々の肩にのっちりとのしかかり、県への陳情での回答は、利子の一定期間の先延ばしがせいぜいであったと思う。資料はしまい込んでしまいまた取り出すには時間を食うので、曖昧な書き方になっている。どこぞの指摘があるやもしれない。何れ元金そのものの肩代わりは一切一円たりともなかったはずだ。入植者の方々の死に物狂いの戦いがそこから始まる。その一連を知っていただかないと、Tさんに数十年ぶりに会った瞬間の感情は理解してはいただけないかと思う。もしかすれば彼女に会う最後の機会であったかもしれない。
 日赤病院で隣だったTさん。私はもう一つの聖書のことばを話していたらしい。何も彼女の助けになることが出来ない、その力もない、私にあるのは聖書のことばだけと思われた。「神さまにゆだねなさい」と私はいったらしいが。お子さんの心配、お子さんのことは神さまにおゆだねすれば、とたぶん言ったかもしれない。それを聞いた時、思い煩いから救われたとTさんが語ってくれた。神のことばである聖書には確かにそういう力があるのだ。私自身が縋り付く思いで言ったのに違いなかった。そしてそれから50年、不屈の努力で借金は返濟なさったと聞いている。これは世の中に公にされていることでもあり、書いても差し支えないかと思う。何よりもT夫妻が過去に病気や怪我を潜られはしたが今はお元気で働かれている。そして二人のお嬢さまが今お幸せでいらっしゃることが嬉しかった。

 実はその翌々日、珍しく夜中に7度7分の熱。ちょっと疲れが出たのだろう。それでも翌朝には6度3分に。コロナやインフルではなさそう。木曜日の祈祷会のYouTubeで元気をもらって、この週のクラシック倶楽部が何とバッハの古楽器演奏。カンタータ125番「安らぎと喜びをもって私は行く」、そして1番ではキリストのすばらしさ。金星、明けの明星よ、「輝く暁の星の麗しさよ」。2台のナチュラルホルンの自然に透っていくような高らかな響きが心地よかった。その翌日だったか、やはり古楽器。チェンバロとフルートトラヴェルソ。バッハの「アンダンテによるファンタジア」、今朝の演奏者であるロマニウクとトラヴェルソの柴田さんの編曲、これが華やぎを感じさせてくれた。
 この頃は、バッハが流れてくると無条件にほっとする自分がいる。毎週礼拝に間に合わせて作曲をしていたバッハ。何か神の霊感がスピリチャルさが安心をくれるのだ。

 そして水曜日の祈祷会のYouTubeで元気をもらい、この土曜日に何とか滑り込んでいる。

 

 

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2026/05/03聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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伝道礼拝説教
『そのすべてのことばを聞いたとき』 エレミヤ 36章9~26節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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9 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、主の前での断食が布告された。
10 そのときバルクは、主の宮で民全体に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ。そこは、主の宮の、新しい門の入り口付近の上庭にあった、書記シャファンの子ゲマルヤの部屋であった。
11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての主のことばを聞き、
12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記のエリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。
13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。
14 すべての首長たちは、クシの子シャレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻き物を手に持って彼らのところに入って来た。
15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。
16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」
17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」
18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私が墨でこの書物に記しました。」
19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」
20 彼らは巻き物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべての事を報告した。
21 王はユディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
23ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。
24これらのすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。
25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。
26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じた。しかし、主は二人を隠された。


【神谷牧師による説教の要約】
 ここで首長たちが恐れおののいた、預言者エレミヤが巻物に書いた預言、神のことばとは、神が下すわざわいで、バビロンの王が来てこの国を滅ぼすということである。
 そのことを聞いた王さまが、預言の書かれた巻物を焼いてしまったのは、エレミヤが語る神のことばより、今、自分が仕えているエジプトの王とその力を頼りにしたからといえる。
 聖書がすべての人にはっきりと語っていることは、すべての人が死後、いわゆる「天国と地獄」の分かれ目となる神の裁きを受けることと、そこで永遠の滅びに定められる人の代わりに、キリストが十字架にかかられたということである。
 信じる者がその裁きを免れるという、これこそ聖書がすべての人に伝えている福音(良き知らせ)である。

 

<ブログ管理人のひとりごと>
 緑のグラデーション耀くこの節季、さす光に瑞々しく静かな生命力を曙光のごとくに投げかけてくれる。すばらしい光景です。写真は5日朝に自宅バルコニーからの景色です。カメラの性能上そのすばらしい輝きを十分に映り込ませることができず残念です。それにしても遠くまでクルマを走らせずとも、このような生命力あふれる景色を一望にできる。盛岡市に住む幸いを覚えます。
 そういえば、この日の説教のYouTubeには、愛知県犬山市出身の方が縁あって盛岡市に移住。この教会の会員となられ、信仰の体験談を語ってくださいました。これがこの日の説教のYouTubeの冒頭に収録されています。何しろこの方には一方ならぬお世話になっている我が家です。一昔前は私のPCトラブルは主人が解決、しかし現在、昔のようにというわけにもいかず、主人が自らこの方にSOSを発信。そのたびに駆け付け解決いただいております。この方がスマホにchatGTPを入れてくださって以降、その頻度は減りましたが、また一件出てきたという主人のはなしです。
 このことばかりではなく、教会の管理、運営に関して、牧師先生方、また会員の方々の創意、工夫の出し合いには、私はいつも感嘆、感動しています。些末なことかと思われるかもしれない、さっさと買い替えればいいじゃないか、すぐに業者さんを呼べばといった考え方、方策もあるでしょうが、たとえば鍵ひとつのことでも、監視カメラを設置するかどうかに関しても、その他諸々、一つとして蔑ろにせずに真剣に考えてくださっていることに頭が下がります。みな無報酬です。社会的な仕事のため、なかなか奉仕に参加しかねる方でも、日々聖書を読み、祈るというデボーションを励行されています。
 勿論、何十年という長い間には、この教会を去られた方もいらっしゃいます。しかし、私は、この教会側の事情、たとえば遠隔地に移転するなどで私がこの教会から去らなければならないとしたらそれは致し方がない、しかし自分側の屁理屈や欲のためにこの教会を去ろうと考えることがあるとしたら、自分という人間はおしまいだろうな、そう思っています。


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2026/04/26聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『同じ有様で、またおいでに』 使徒の働き1章3~14節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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3
イエスは苦しみを受けた後、数多くの証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 

神谷牧師による説教の要約
  よみがえられたキリストが天に上って行き、雲に包まれた時、それを見上げる弟子たちに残されたものは、キリストが再び来られるという約束であった。またキリストが弟子たちに最後に語った、聖霊が与えられるという約束は、彼らが属するイスラエルの国のことだけでなく、世界を視野に収める神の思い、見方が与えられるようになることを意味していた。
  その思いに生きるとき、私たちがこの地上での最後を迎え、このからだのいのちは終わる時も、やがての日のよみがえりを期待することができる。


<ブログ管理人のひとりごと>
  このページに掲載の説教は、4月最後の聖日礼拝分ですが、はや五月。若葉に光がさすときの輝きには全身が洗われる。生気が漲るというよりも生気に浸されまさしくよみがえらされるといった思いがする。
  酪農をしている葛巻の友人が、ことしは新緑の白樺林を案内してくださる事になっている。この方、熊本から葛巻に嫁ぎ、一生涯を酪農につぎ込まれた何とも豪快な女性、豪快といわれることを歓迎している方なのだ。二人のお嬢さんも良き伴侶者に恵まれお幸せ。彼女ならまた一仕事二仕事やってしまいそうな勢いである。この方は、私が日赤で長男を出産した時に隣のベッドだった。ちょうどグリコ・森永事件が連日報道されていた頃のことだ。息子と同じ頃に生まれたお嬢さんに、ちょっと心配な症状があり、彼女は「働き過ぎた」と、気丈な方なので人に涙は見せないが涙してらした。その時に彼女を支えたのが「神は耐えられない試練には遭わせない」という聖書のことばだった。第一コリント10章13節「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」にある。彼女はそれを今でも私に語ってくれる。其の後お嬢さまは立派に成長し、今では良き家庭を築かれ幸せに暮らしている。ほんとうに感謝なことです。嬉しいです。
 

 

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