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2026年4月

2026/04/19聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『次のように書いてあります』 ルカの福音書 24章36~53節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
38そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 それで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」エルサレムから開始して、
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

神谷牧師による説教の要約
 キリストが聖書の中に「書いてある」と言われた時に意味していたのは、聖書に書かれていることは必ず実現するということである。
それはキリストの苦難により、私たちに神との間にある罪が除かれることで、神と共に歩む人生をもたらすということである。
 弟子たちがキリストから十字架と復活の証人になると言われた時、必要なことは、自分の側にある何かを頼りにするのではなくて、父なる神が約束された上からの力(聖霊)を待ち望むことである。
 自分が手にしている、見えるものによってではなく、信仰(みことばの約束)によって歩みたい。

<ブログ管理人のひとりごと>
 きょうは主人と16時半に息子のところに行き、孫たちと過ごして20時頃に帰宅。熱いお茶でひとやすみ。
まだ幼い子らと遊びながら、世の中が平和であってほしいと願う。
 近頃はさまざまな思い巡らしに、考えが際限もなく堂々巡りしていることがある。はやく主を見上げればいいものを。この日の説教でまたまた思い返す「自分が手にしている見えるものによってではなく信仰によって」、夾雑物が除かれてすっきりとした心境になった。 

 

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⏰22時07分更新

 

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2026/04/12聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『これらの出来事すべてについて話し合って』 ルカの福音書 24章13~35節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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13
ところで、 ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エオマという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることがわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがご存じないのですか。」
19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずではなかったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いております」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
33二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
35そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。



神谷牧師による説教の要約
 キリストの墓に来た女の人たちに、まばゆい衣を着た二人の人が語った「主がお話しになったこと」とは、キリストが十字架につけられて三日目によみがえることである。
 よみがえったキリストは、どこでも自由に出入りできるのに、わざわざその墓の入り口の石が転がされていたのは、そのよみがえりの証拠を誰もが確かめられるようにされたからである。
 また、よみがえったキリストが、以前のように弟子たちといつも一緒にいるようにしないのは、これからは見えるかたちではなく、キリストの語った約束の言葉により頼むためであった。
 聖書を通して語られる約束に心を留めるとき、よみがえりの主は、時空を超えて、今もなお信ずる者のうちに働かれるのである。

 

<ブログ管理人のひとりごと>
 復活のエネルギー、それは靈に届く、靈を強めるエネルギーであると後で分かったところがある。確かにそのエネルギーを知覚して元気になってどんどん動きすぎた結果、やはり肉体的な疲労が来てしまい、先週などは意識的に休息をしなければならなかった。張り切ることはいいけれど、自らの今の年代の体力に相応しい働きを注意深くこなすことの方を、神さまは安心して見ておられるのでは。霊的な共感、感動はこの土の器に溜め満ちたところで、臨機応変に注意深く慎重にその力に与るのが良いと思われる。


 道々に咲いているスイセンやアネモネ。よく咲いてくれたね、ありがとう、よく咲いてくれたね、ありがとうと言いながらのぞきこむ。コンクリートの隙間に覗くハコベに目がとまった。よくよく見ると小粒のマーガレットのような花が笑っていると書くのはあまりに稚拙で単純かもしれない。にんまりとしているようでもあり、微笑んでいるようでもある。のほほんとしているようでもありしっかりと緻密な視線を送って来るようでもある。ああ、そうだね、おおきな色鮮やかな花よりも、人に踏まれたこともあるだろう、蔑まれたこともあるだろう。価値ないもののようにあっさりと引き抜かれた打ち捨てられたこともあるだろう。だけど、だからこそ、たぶん、おまえには、おまえにこそ、虐げられているものの気持ちがわかるだろう。力で踏みにじられ、締め付けられるってどんなことかを知っている。一人が踏めば二人目が踏む。そして踏みなれた足が幾度も蹴散らす。何人もがあたりまえのように蹴散らす。弱いと見れば蹴散らす。強い者にはその強さにあやかりたいものが加担する。
 ハコベがいいな。高慢ちきじゃない。人の痛みを知っている。力に屈することもない。権威に追随することもない。ハコベはハコベのまま。ほら、神さまの目がおまえに注がれている。

 

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⏰20時26分更新

 

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2026/04/05 聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

 

『主がお話しになったことを思い出し』 ルカの福音書 24章1~12節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
4 そのため途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 この話はたわごとのように思われたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストの墓に来た女の人たちに、まばゆい衣を着た二人の人が語った「主がお話しになったこと」とは、キリストが十字架につけられて三日目によみがえることである。
 よみがえったキリストは、どこでも自由に出入りできるのに、わざわざその墓の入り口の石が転がされていたのは、そのよみがえりの証拠を誰もが確かめられるようにされたからである。
また、よみがえったキリストが、以前のように弟子たちといつも一緒にいるようにしないのは、これからは見えるようなかたちではなく、キリストの語った約束の言葉により頼むためであった。
 聖書を通して語られる約束に心を留めるとき、よみがえりの主は、時空を超えて、今もなお信ずる者のうちに働かれるのである。

<ブログ管理人のひとりごと>
 この日5日はイースター礼拝でした。ちょっと私の不手際で只今動画を掲載しかねております。
 朝はやくから週報を印刷くださったり、玄関前を整えたり、受付に立ってくださったり、また愛餐会のカレーを作って下さった方、添える野菜料理をお持ちくださった方々がいらっしゃいました。ズームで参加し近況を報告いただいたり。何よりも神谷先生方がいらしてくださり、直接に説教をいただいて心が刷新されました。また午後にはこの教会から昇天された方々のお墓参りも皆さまとご一緒にしてくださいました。
 これからのいのちが長くとも短くとも、主にお任せです。明日なら明日でもいいかなと思いもします。でもまだやりのこしていることもあると思うと、主よ、あともうすこし、今暫くご猶予ください。復活の力を着せてくださる主よ、感謝します。あなたのお力で今を歩ませてください。
 お花の写真も、ほんとうはお墓の写真も今しがたまで手間取っていたのですが、無理はしません。ゆとりをもってできる範囲で更新といたします。


 

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⏰20時23分更新

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2026/03/29 聖日礼拝 第81次教団年会合同礼拝説教 岩上祝仁代表

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『わたしに従いなさい』マタイの福音書16章24~28節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 

 

ブログ管理人のひとりごとー
  さて、去年の年会の合同礼拝説教のときには、いったい自分は何を書いていたかしらんとググると、以下(黒い文字部分)のように書き留めていた。う~ん、ことしもこのとおりの心境だなと思う。どこも変更したいところはない。80年を81年と改めるだけ。
 そしてこの、ことしの合同礼拝説教「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい。」、受難週に入ってから、ずっとイエスさまのお苦しみに思いを寄せてきた。さまざまなケースを浮かべるうちに、はたと気づくと、それが自己愛から発したものであることもあった。イエスさまならではの純然たるお苦しみは自分には分かりようがないという気もする。なぜなら自分は、自分のありようを悔い改めることが日常で、人様の犯した罪を引き受けるゆとりや場面はまったくなく、そういった経験はしていないからだ。まっとうな市民として生きた方が冤罪を着せられたまま刑が執行される苦しみがどれほどのものであるか。そのような例が主のお苦しみに近いかと考えたり。
 イエスさまは「自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい」と。「自分の十字架」、この時点に立って、この状況にあって、「自分の十字架」が何かを問われている。


昨年書いたことをそのまま今年またここに転載しておきます。
 この30日は、イムマヌエル綜合伝道団の第80次年会の礼拝でした。盛岡教会から上京した方々もいらっしゃいましたが、私は盛岡教会で盛岡教会の皆さまがたとともに配信を受け礼拝をまもりました。長い間、自分がこの教団に連なる者であるという意識は、私の場合決して高くはなかったといえます。盛岡教会にあってイエスさまを信じる一信徒という感覚でした。しかしこの教団、80年。この教団の創設者初代の蔦田二雄先生のテープにのこされたメッセージを今思い出しています。摩耗したSPレコードのように聞き取るのに苦心しましたが、しかし、その中には「義の火」が耀いている。今そのことに気づきました。戦争で、災害で、ウィルスで、犯罪で、事故で、あまりに無造作にひとのいのちが奪われ、厳しくなる経済、暮らしのしめつけで、人の価値観、在りようががらりと豹変するのではないかという危惧の只中、また目には隠されているけれども、そのようなあり方が水面下にじわじわと〝市民権〟を獲得しつつある今に、この「義の火」はこの世に、この社会に掲げられていなければならない。何か、なぜか、あの蔦田二雄先生の説教にある神の義、義の松明は掲げられ続けなければならないと、この教団のいわば末端にいる凡そ社会的な名誉、権勢からは遠いこの小さき者の眼からも涙が落ちるのです。
 教団を担われる多くの牧師先生方、これまで担われて来られた多くの牧師先生方、多くの真実な信徒の方々に、その自覚が乏しかった時期があったことを、心からお詫びし、このインマヌエルの義の火が、神の義が高く掲げられ続けることを心から祈るのもです。

 明日4月5日はイースターですが、きょう午前中にイースタ―エッグづくりをしました。これにカードを添えラッピングして完成、明日教会でみなさまにお配りします。

 

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⏰午後0時15 分更新

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