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2026年3月

2026/03/22 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『律法によれば、この人は死に当り』 ヨハネの福音書 19章1~16節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせて、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様。万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私はあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ。この人だ。」
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」
8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるの。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストを訴えるユダヤ人に対して裁判をする総督ピラトは、キリストにはローマの法律に触れる罪が何も見当たらず、困惑した。
しかし、ユダヤ人が彼らの律法によりキリストが「自分を神の子(神と同一視)」としたことが死に当たると訴えたのは、「神の子」だと偽ったことが神への冒涜であると思ったからである。
 しかし、それが偽りなき事実であることを知るキリスト自身にとって、律法が明らかにするすべての人の罪を背負い、十字架で死ぬことが、神の子(救い主キリスト)の役目であると知っていた。
 律法(聖書)が目指すのはキリストであり、心に罪を意識したすべての人の終着点は、この十字架の贖い(罪の赦し)にある。


<ブログ管理人のひとりごと>
  聖書的に罪とは?と問えば、罪について考える時、人にはみな原罪があり、そしてその罪は肉の働きであると述べられている。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」(ガラテヤ第5章19~21節)とある。耳が痛くもある。今どきそんな~と思われもする。しかし、真理だと思う。罪は意識上にも無意識の内にも、誰の心にも内在し、何らかのきっかけがあれば吹き出る溶岩のようにその姿をあらわし留める術がないかだ。神は実にそのことをようく知っておられる。キリストの贖いがどれほどに人間に必要であることか。神はそれを知っておられる。すべてを白日に晒すように神は見ておられる。
  罪に対する情状酌量といったものがあるのかないのか、あるとしたらその詳細はどうであるのか、私は知らない。ただ、そのことは、神が愛であること、愛そのものであられることに望みを置いていいかと考えてもいる。たとえばお腹を空かせた子どものために母親が盗みをしてしまったとか。こうして挙げて行くと、凡そ通常では考えられないこと、いったい誰がそれを責めることができるだろうといったことも多くあるだろう。何れ罪の種類がどうであれ、贖罪の血が既にある。備えられている。嗤う者には愚かであっても、これこそまことの命に通じる門であると私は信じる。
 
 今日も平凡な一日。近くに住んでらっしゃる教会の姉妹にちょっとお会いして、帰りに日用品、牛乳を買って、まずまず順調に自転車をこぎ、途中でクロッカス、あれは梅の花だろうか、それにしてはピンクが強すぎるように思ったが、きれいに咲いていた。
 今7時のニュース。戦地に行くことを強いられ、いやが応にも罪を犯すことを強いられる兵士たちに胸が痛む。戦争の犠牲者。訴える悲しみ苦しみはどこに届いていますか、神さま!

 

 

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⏰17時31分更新。19時8分再更新。

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2026/03/015 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『父がわたしに下さった杯を』 ヨハネの福音書 18章1~11節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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1
これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。
2 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らはあとずさりし、地に倒れた。
7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
8 イエスは答えられた。「それはわたしだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」
9 これは、「あなたが下さった者のうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。
10 シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
11 イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、飲まずにいられるだろうか。」

 

神谷牧師による説教の要約
  キリストの言う「父がわたしに下さった杯」とは、これから向かう十字架の苦しみを意味しており、それゆえキリストは、人から受ける苦しみを、私たちの罪の解決のために、父なる神が用意されたこととして、理不尽な扱いを受け入れ、それらを耐え忍ばれた。
  私たちもまた、今、自分が経験していることをそのように受け止めるとき、今後を神に期待して、置かれた状況を前向きに考えることができる。


<ブログ管理人のひとりごと>
 「父がわたしに下さった杯」、これを自らに重ねるとき、背筋に何か金属めいた冷たさに似た緊張が走る。そして顔をあげないまでも、はるか前方に、しかしすぐ眼前に脅迫的でもない、威圧的でもない、まして強制的でもない、十字架が示される。私の隅々、心をも隈なく知りたもう十字架、イエスさまのおすがただ。そして私は時の間、逡巡し、右往左往することがあても、この差し出された杯を飲み干す道が私の道であることを幾つかの経験からすでに知らされた者としてその前に立っている。この日は聖餐式があった。私は神妙な想いでパンと葡萄液に与った。琴線が何ものかに触れ、涙が伝った。神さまの聖きに与るとき、拘り、棘が解かされ溶け落ち、間隙に静かな納得が満ちる。
  この日は若いS兄がパンと葡萄液をもって皆さまを回ってくださった。
 お花はS姉。お花の後ろの方に聖餐式に使うパンと葡萄液を入れる漆塗りの器が見えますが、これは故人となられたT兄が製作してくださったものです。

 

 

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⏰21時30分更新

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2026/03/08 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしはぶどうの木』 ヨハネの福音書 15章1~11節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみなすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように。あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。



 

神谷牧師による説教の要約
 キリストがぶどうの木で、わたしたちが枝であると言われた時、そのぶどうの実とは、わたしたちがキリストに似た者として生きることを意味している。
 また、わたしたちがぶどうの木であるキリストにつながる時、目に見えないキリストのいのちである真理の御霊が、私たちのうちに働かれ、自分がそれまで大切にしてきたことから、キリストへの思いに、より心の焦点が合わせられ、それが見える形に現れてくるのである。
 信仰によって日々キリストにつながる時、このお方のいのちに生かされて歩むことができる。


<ブログ管理人のひとりごと>
 この日は神谷美津子先生のお証しがありました。美津子先生は鹿児島県出身。それがなぜに遠いこの岩手に?と思いきや、先ず東京に出られ大手電機会社の経理の仕事に携わられ、次第に教会へと導かれたようです。先生の信仰のお証しを是非お聞きください。
 皆様方と共にいつものように礼拝をまもり、そして昼のお食事。A兄姉が作ってくださったカレーを感謝しながら楽しくいただきました。何とK姉もサラダを作ってくださいました。KはKでも、この方はlarge・Kさん,、私はsmall・Kの方です。
詩篇133・1、3「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。…主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
 
 30分でも毎日歩いたほうがいいということで、久しぶりに盛岡地方気象台に上がってきました。いつの間にかクロッカス、フクジュソウ、オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウが咲いていました。フキノトウも。遠くから見ていたときにはまったく気づきませんでしたが、道端には多くの草花たちがそれぞれの色彩、形状でいのちを輝かせておりました。 

 

 

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⏰19時50分更新

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3・11

 今朝のクラシック倶楽部、釜石市出身のピアニスト小井土文哉さんがスクリャービンを弾いてくださった。番組視聴の最中に、「小井戸さんがTVに出ている」と教えてくださった方がある。「ついでに今朝の月もいいから見てください」と。半月が美しく磨かれた貝殻の光沢を帯びて、直に明けようとする空にくっきりとかかっている。なかなか。
 公開収録があると知って行きたかったのだがそれは家人にも言わないでおいた。番組に映っていた観客席の方々、これはもう釜石の方々ばかりではなく、遠くから近くから駆け付けた方々もいらっしゃるのだろう。
 釜石新生教会の柳谷雄介牧師、3・11以降、どれほどのご苦労を担って来られたことか。直接に面識はないが、お元気なお姿を拝見できたことは嬉しかった。小井土さんは子どもの頃、どうもこの辺りで遊んでいたものらしい。
 スクリャービン、小井土さんの釜石の3・11の想い出に親和性をもって鳴り響くのがこの曲なのかもしれない。最後の「星めぐりの歌」はスクリャービン風というか、スクリャービン調。小井土さんの編曲だった。
 演奏を聴きながら、15年前のあの凄まじい写真の数々、福島の原発事故を知った時、「日本はもう終わりだ!」と恐怖したことがまざまざとよみがえった。
 
 
 

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2026/03/01 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしがあなたを洗わなければ』 ヨハネの福音書 13章1~15節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後でわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなけでばなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

 

神谷牧師による説教の要約
 十字架を前にした最後の晩餐の席で、キリストが自分たちの足を洗い始めたことが理解できない弟子たちに向かって「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」と語られたことは「この中で誰が一番偉いか」を言い争う弟子たちが、自分が何者であるかを知り、彼らへのキリストの愛を知ることが意味されていた。
 また、キリストがペテロに向かって「わたしがあなたを洗わなければ、あなたは私と関係ない」と言われたのは、どうしようもない自分が主に愛されたことを知っているかが、その関係のカギであることを示している。
 私たちが「互いに足を洗い合い~愛し合うため」に必要なのは、聖霊を通して、キリストによって自分が罪洗われ、愛されたことが分かることである。


<ブログ管理人のひとりごと>
 このメッセージを聞きながら、私はついわらってしまった。この説教を聞くまでもなく、教会の方々がみな自分よりは偉い方々だという納得した思いがある。私の中ではそれはもう至極あたりまえのこと、そんな意識である。やはりそれは、自分は罪人であり、今に至っても欠けがある。けれども、キリストが私に代わって十字架に架かってくださり、そこで流された血を信じることで、自分は赦されて今ここにあるという自覚が基となっている。イエスさまは「確かにお前は不完全であるが、私の十字架の贖いの力を信じているのでお前を赦す」、そう言っておられる、そう思うのだ。私を訴える人々、あげつらう人々は少なからずあるだろう、しかし神は断言してくださる「主文 被告人は無罪!」。悔い改めイエス・キリストを信じる者には「被告人は無罪!」こう言ってくださる。
 今週は現実的に奥歯3本の治療、そしてこれとはまた別に、免疫力が低下したかで、花粉症がけっこう重い。ちょっと対応が遅れてしまったからだ。花粉情報に「多い」と見た時点で即座に対応すればよいものを、あれこれしている間に遅れてしまった。
 そして今朝見た夢もちょっと滑稽だった。クルマでどこかの講演か何かに来ているのだが、それが終わって駐車場を捜したが、どこにもクルマがなかったという夢。自分はいったいどこにクルマを置いたのだろう。今来ているこの場所さえどこなのかわからない。さてどこからどうやって調べ探したらよいものやら、思いあぐねるうちに、私は夢の中で、むむ、これは夢じゃないのか、これが夢ならクルマはある。この家の駐車場に。心配ない。ここで目が覚めたのだった。そして私は思った。必ず身分証明書、そしてクルマの車種、ナンバーぐらいは書いた手帳を持ち歩いた方がいいかな。万一クルマが行方不明になっても、これなら警察に探してもらえるかも、などなど。な~んだ、これは認知症になったときの対策じゃないの。
 そんなこんなの一週間であった。失敗しようと、何が何だかわけがわからなくなっても「主文 被告人は無罪」に感謝しつつ、やがてさしかかるであろう孤独のトンネルをも主と共に潜り、生き抜いていけるならと思う。


 ほんとうは1日に秋田から神谷牧師夫妻がいらっしゃる予定だったのが、事情で8日に変更になった。それで明日が楽しみ! 明日はM兄の信仰の体験談や、礼拝後にはA兄姉が皆様のためにカレーを準備してくださる。
 今日の写真はS姉のフラワーアレンジメントです。

 

 

インマヌエル秋田キリスト教会  https://localplace.jp/t100303888/
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⏰21時40分更新

 

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