2025年10月26日の神谷光一牧師の日曜礼拝説教 教団創立記念礼拝
『主イエスの恵みによって救われ』使徒の働き15章1~21節
説教題をクリックしてお聞きください。
1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を協議するために集まった。
7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。
13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。
15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。
16 『その後、わたしは
倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。
その廃墟を建て直し、
それを堅く建てる。
17 それは、人々のうちの残りの者と
わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、
主を求めるようになるためだ。
18 —昔か知らされていたこと、
それを行う主のことば。』
19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
21モーセの律法は、 昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸教会で読まれているからです。」
【神谷牧師による説教の要約】
異邦人に向かって「割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」と、エルサレム教会の人々が言ったのは、異邦人も自分たちユダヤ人と同じようになることが正しいと考えていたからである。
その討議の中で、パウロと言い争っていた人たちが沈黙し、静かになったのは、自らもまたキリストの十字架によって救われたことの大切さに気付かされたからだといえる。
そこで人々が理解したのは、キリストの十字架の前に立つとき、それぞれ違いを持つ人同士でも、神の前には平等だということである。
互いの違いが大きく見えるとき、共に大きな恵みの中に生かされていることを思い起こし、違いを創造の豊かさとして理解したい。
<ブログ管理人のひとりごと>
前にも書いたかと思うけれども、私の場合には教団の中の一個人という意識はそれほどつよくはない。こういった教団記念礼拝と明記されて礼拝に与るときには、教団の初代蔦田二雄先生を思い起こし、「聖宣」を貫かんとイエスさまを見上げ続けた諸先生方、私に洗礼を授けてくださった河村襄牧師、そして50年間、牧会を通して導いてくださった國光勝美・ひろ子牧師、そして現在お世話になっている神谷光一・美津子牧師への感謝の念を新たにしたことである。諭し、導いてくださった存在は大きい。教団への帰属意識はそれほど強くはないと言ってはみたものの、お世話になった先生方はどの方もみな初代の蔦田先生の薫陶を直接、間接的に受けた先生方であってみれば、やはりその影響下にあるといえるだろう。それ以上に大きいのは、私が神に不従順であったときに、神がどのように私に関わってくださったか。このことを思い出す時に、今自分があるのはただイエスさまの十字架の赦しによる、ただそれだけである。となれば、きょうの説教にもあった「違い」によって人を区別したり、疎んだりする資格はないのだ。私は人をばかにしたことはない。当たり前のことだけれども。そして、これまで相対した方々みなさまが、自分よりは優れていると思っている。ただ在りようの違いに対しては、自分の分限をこえた対応、思いやりに欠けた在りようで応対してしまっていたという苦い思いがある。今から誤ることが出来る方もあれば、今となっては何ともなしようがない方もいらっしゃる。そして最後には、イエスさまのご忍耐ととんでもないご愛に深甚させられる。それを自覚すればするほど、大したことのない自分が見えて来、そこにこそ十字架の御血潮を注いでいただく必要を覚え祈っている自分がある。
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⏰19時55分更新
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