きょうのことば『主が召される人ならだれにでも』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー
このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教をおつなぎしております。
2025年6月8日(日)
説教題 『主が召される人ならだれにでも』(←クリック)
聖書朗読 使徒の働き2章22~42節
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
25 ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
26 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
27 あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
28 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に着かせると、神が誓われたことを知っていました。
31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
34 ダビデは天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人々ならだれにでも、与えられているのです。」
40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
42彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
【神谷師による説教の要約】
五旬節(ペンテコステ)は、イスラエル人にとって三大祭の一つである。奴隷となっていたエジプトを出たことを記念する過越しの祭りが、罪からの解放である十字架を意味するとすれば、約束の聖霊が与えられた五旬節は、シナイ山で律法を与えられ、奴隷であった彼らが、神の約束(契約)の民となったことを表している。それは教会にとっては聖霊による誕生を意味し、そこから共に集って祈り、礼拝をすることが始まった。
また、キリストを他の人に知らせる証人となるために聖霊は私たちをキリストに似た者と造り変えてくださる。
生まれつきの自分から目を移し、このお方に期待して歩みたい。
―ブログ管理人のひとりごとー
睡眠の調整に失敗。4時ごろにもうすこし睡眠をとった方がいいなと横になったところが、つい寝過ごしてしまい、7時に15分前の起床。今日ばかりは15分で朝食の準備。食事を終えて8時になろうとする今、パソコンの前に着いている。
トランプの軍事パレード関連ニュースに、北朝鮮やロシアのそれがダブる。「この道はいつか来た道」、繰り返され繰り返されるこの道なのだ。聖書の山上の垂訓「9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。平和をつくり出すべき人、つくり出そうとする人が日々曖昧に。微力なりとも、無力なりとも平和のために祈りたい。
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