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2025年5月

きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教をおつなぎしております。
2025
年5月11日(日)伝道礼拝
説教題 どうぞ披露宴においでください』(←クリック)
聖書朗読
 マタイの福音書 22章1~14節

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1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください』と。」
5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
9 だから大通りに行って、出会った人をみな宴会に招きなさい。』
10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストは天国についてたとえで語られた。最初に披露宴(結婚式のお祝い)に招かれた人々が来なかったことは、イスラエルの人々が救い主として来られたキリストを拒むことを指しており、そのために神の招きは全人類に広げられ、さらに「悪い人でも良い人でも」披露宴に来ることができたのは、受付で渡される「礼服」を着ることがその条件だからである。
 また、その礼服が意味するキリストを「着る」とはキリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを信じることで披露宴である、天国に入るための資格を得ることを意味している。

―ブログ管理人のひとりごとー
 この日は伝道礼拝ということで、K姉の信仰の体験談をお聴きしました。K姉は教会に行くときには毎週ご一緒させていただいている方です。クリスチャンだから人生の困難を特別に免れられるのかというと、そうではない場合、そうである場合があり、それはひととおりではない。しかしその根底にイエスさまの存在があるかないか、その違いである、お聞きしてそう思われました。
 この日の説教、キリストを「着る」。どのような礼服にも勝って威儀をただせる着衣であると思いました。
5月に上京したとき、上野の奏楽堂へ行きました。この日まる一日付き合ってくれた息子が、主人と私を豊洲から上野に連れていってくれました。案内人がいると、どこをどう歩いたか確かめもしません。ただついて歩くだけ。小雨が降っていました。傘をさしました。帽子でしのぐには雨量があります。道端の縁石に、じっと地面に目を落として座っている人がいました。くたびれた身なり。この雨に帽子もかぶっていません。なぜか今鮮やかに思い出しました。ホームレスの方です。誰も気にとめていないかのように、いつもそこに人が流れているかに人が通り過ぎていきます。よし心が痛んだとしても、通り過ぎては忘れています。あの光景を思い起し、ああ、キリストのくださる着物があるものを、そう思いました。キリストの披露宴に招かれることができる〝礼服〟が備えられてあるものを。

 

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きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会  松尾献牧師の説教ー

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2025
年5月4日(日)「 ビルド」(全国青年大会)にオンライン参加
説教題 『福音を一緒に届ける同動労者として』
木山キリスト教会 松尾献牧師説教
聖書朗読
 ヨハネの福音書 6章1~14節

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとちが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。また、魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

※ビルド20255 2025.5.3 [Sat] – 5.5 [Mon] Guest: 松尾献師(本山キリスト教会牧師/元KGK九州地区主事) Title: MY WAY 主の道を歩む私たち』 主催:イムマヌエル綜合伝道団青年課ビルド委員会 会場:イムマヌエル聖宣神学院教会

―ブログ管理人のひとりごとー
 今回はインマヌエル聖宣神学院で行われたビルドの日曜礼拝に、盛岡教会の皆様方とともにオンラインで参加いたしました。動画掲載はありませんが、若い方々の賛美、そして若いメッセンジャーによる説教をお聞きしました。未来を担われる方々のために祈りました。
 昨日は、老人施設を訪問。親戚筋に当たるご夫妻と歓談。実はお二人ともに認知症でらっしゃるのですが、一生をクリスチャンとして真実に全う。明るさと眼の輝きは失われてはおらず、それが何よりうれしく、30分の面会も短く感じられたことです。奥さんが口を耳に近づけてご主人に「何歳?」と話しかけられると「96歳」と答えておりました。

 

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きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年4月27日(日)
説教題 『イエスは手と脇腹を彼らに示され』
聖書朗読 ヨハネの福音書 20章19~31節
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19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

【神谷師による説教の要約】
 よみがえりのキリストが、弟子たちのいる鍵のかかった部屋に現れたことは、その体をもってどこにでも自由に行ける存在になったことを意味する。
 また、キリストが弟子たちに手足を見せられたのは、ご自分がほんとうに十字架にかかられた当人であることを示し、さらにそのままのからだで生きて、もう死ぬことがないことを示すためといえる。
 それはわたしたちもまた、キリストと同じようになることができ、死を恐れる必要はなくなったことの宣言であり、確かな希望がそこにある。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 桜のつぼみはほらもう枝先にびっしりついて青空をこぞり仰いでいる。つぼみがふくらみ薄いピンクがつぼみの先にのぞいている、もうすぐもうすぐ。おお、いつのまにこんなに一気に花ひらいていたのか。どれもどれもまるで笑いをこらえきれないようにたわわにゆたかに咲ききそっている。そしてカメラを向けるゆとりもないうちに桜は散りゆき、いのち芳しい新緑が清冽な息をしている。
 イエスさま、おはようございます。イースターの記念の日は過ぎましたけれども、よみがえられたばかりの主が、今朝もここにおわし、そこにおわし、病めるものにも健やかなものにも、貧しきものにも富めるものにも、逆境にあるものにも順境にあるものにも、「平安があなたがたにあるように」とサイレントでしかしそれが澄明な響きを伴って聞こえるのです。どうぞ今日という一日を共に歩んでください。イエスさま、もしあなたがいらっしゃらなければ、この世の暗闇はどんなに深いことでしょう。人は人の力で灯りをともすことができません。どうかきょうの道筋を先立ち照らしてくださるようにお願いいたします。

 

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