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2025年4月

きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025
年4月20日(日)
説教題 『聖書を、まだ理解していなかった』イースター講壇
(←クリック)
聖書朗読
 ヨハネの福音書 20章1~18節

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1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓にやって来て、そして、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子とのところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、身をかがめるとてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7 イエスの頭を包んでいた布は、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に丸めてあった。
8 そのとき、先に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

【神谷師による説教の要約】
マリアがキリストの墓に行ったのは埋葬されているキリストの亡骸に防腐剤としての薬を塗るためであった。
しかしそこで、墓石が取りのけられ、中は空になっている様子を見たマリアや弟子たちが「だれかが墓から主を取って~」と言ったのは、主のよみがえりについて語っている聖書をまだ理解していなかったからである。
墓の前で悲しみに暮れるマリアは復活のキリストを見て喜んだ。そのマリアに向かってキリストが「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのは、これ以後、キリストが昇天の後に遣わす助け主なる聖霊によって、弟子たちが主の十字架と復活の証人となるからで、これにより福音は、時代を超えて私たちにまで届いたのである。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 20日のイースタ―礼拝をまもり、そして、火曜日からは主人と松田順子先生と上京、私の上京は実に十数年ぶりかで、甥の結婚式で上京して以来のことです。豊洲シビックホールでの中館耕蔵氏に因んだコンサート(指揮中館伸一氏)に行きました。そのときはあまり分かっておりませんでしたが、その後の成り行きから、この一連の旅が私自身の復活、神の備えたもう復活であることに気づきました。
 甥が年末には蕎麦打ちをするのですが、叔父叔母が来るというので、手ずからの蕎麦でもてなしてくれました。
以下、訪問先の一部写真です。心から神さまに感謝いたしました。
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上野奏楽堂。出版物で知っていることと実際に目で見ることとの落差を思いつつ。階段を下りてゆくのは息子と主人。
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昔の国立駅。切符売り場に映っているのは、右が姉、左が甥の妻。大喜びで国立の案内を務めてくれました。



 

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きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

イースター、おめでとうございます!


「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通してきたのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」
(コリント第一15章20~22節)

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          ☆   ☆   ☆

このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。ですので、イースターメッセージは来週となります。
2025
年4月13日(日)
説教題 『わたしとともにパラダイスに』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 23章33~46節

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33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

【神谷師による説教の要約】
 キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、私たちの罪を代わりに背負って、神に見捨てられるさばきの苦しみを味わわれたのである。
 また、キリストの隣で十字架にかけられていた犯罪人が、キリストのことを「ユダヤ人の王」だとわかったのは、自分たちと同じ苦しみを味わっていながら、その態度が違うことから、十字架につけられていた罪状書きの通り「ユダヤ人の王」が本当だと信じた、と言える。
 また、キリストが犯罪人に「あなたは~わたしとともにパラダイス(天国)にいます」と約束されたとき、その犯罪人は、キリストが死の間際に祈られた「わたしの霊をあなたの御手に~」という、神のみこころと一つとされ、キリストと同じく平安な心を頂いて人生を終えることができた。
 今も、キリストを自らの救い主と信じる者は、誰もがこの心を頂くことができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 13日は伝道礼拝の日。秋田教会のM兄が、極度の疲労と結核がきっかけで宗教に向かい、イエス様を信じた体験談を聞くことができます。

 きのう19日イースターエッグをゆでたりラップがけをしたり、カードと小袋に詰めながら、このしごともいつまでできるかしらと思いました。できるところまで、です。ある作家がイエス伝を書くときに、キリストが葬られたところまでは書いてくれましたが、復活から先は書いてはおられませんでした。この先はそれぞれの信仰によるということだったでしょう。しかし、罪の贖罪である十字架、そしてこの復活こそがイエス様がこの世においでになった理由であり、この地上のご生涯33年の意味でもあることを、今年の聖書の通読からこれまでになく深く知らされました。キリストの復活はほんとうだとわたしは信じています。それが曖昧なうちは信仰者としての自分もほんとうの神のいのちを生きてはいない、どこか死んでいる。そしてそれはほんとうに死んでいる。だからこそ死と癒着しやすくなる。そうわかるのです。神のみ子イエスさまに癒着することによってこそ生きる、生き返ることができる、そう知らされました。

 

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⏰6時26分更新

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室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」

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4月22日(火)、東京の豊洲シビックセンターホールで室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」18時半開場、19時開演
 中館耕蔵は遠野市出身の日本初の音楽マネージャーであり、国立音楽大学の創立者です。
 音楽マネージャーというと興行師的に捕らえられる側面もありますが、大正という西洋音楽の黎明期における中館耕蔵の音楽マネージメントは、関東大震災で焼失を免れた資料を見ると、現代に一般的に語られる内容とはかなり違っています。
 当時の地方と中央との、日本と西洋との音楽較差を行く先々で説き、さらに上を目指し学ぶべきであることを勧め、啓蒙の役目を果たしています。また私費をもって、或いは支援の音楽会を全国的に展開して中央に出ての学び、或いは海外留学を支援しました。また演奏できる楽団の少なさを嘆き、自らが楽壇の結成の為に奔走し楽壇の創立に漕ぎつけました。音楽普及を果たしながら、教育目的のため、学校運営資金獲得のため、医療分野の支援のため、孤児院のため、社会主義団体のため、殊にもクリスチャンからの依頼であった白十字会のマネージメントには力を注ぎました。
 書き出してなお書き落してはいないかと危ぶみますが、そう、関東大震災の時には、日夜分かたずに、演奏先とそれまでマネージメントしてきた楽団を全国各地に結び、復興支援を果たしました。そして多くの慈善目的の音楽会は、それまで西洋音楽は主に上流社会のものでしたが、中館の企画によって、そのすそ野が一気に一般の人々にも広がったのです。
 書き落しがまだありました。中館は、ロシア革命、第一世界大戦を逃れ亡命してきた音楽家たちをステージに招き、無国籍で仕事に就くことが難しかった音楽家たちを窮乏から救う一助となりました。
 まだありますけれども。
 マネージメントのそもそもの初発も、音楽家の活動が経済的にも何とか保障されなければならないとの思いからであったことを、資料から読み取ることができます。
 そしてこの音楽マネージャー時代に築いた音楽界、政界、財界、教育界の人脈が、関東大震災で多くの学校が壊滅した後、東京高等音楽学院 (現・国立音楽大学)の創立に生かされていくのです。

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きょうのことば『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025
年4月6日(日)
説教題 『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 22章31~34節

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31 シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストが、サタンの試みの中で信仰がなくならないようにと祈られたペテロに向かって、後にキリストを知らないと三度言う、と言われた時、ペテロは、絶対にそんなことはしないと宣言するが、その後、捕らえられて裁判にかけられるキリストの前で、事実その通りのことが起きた。ペテロがキリストに見つめられた時、外に出て泣いたのは、ふがいない自らであることへの申し訳ない思いと共に、そんな自分のためにと祈られたキリストへの感謝があったといえる。そのような経験をしたペテロだからこそ、失敗をしても必ず立ち直れることを知って、人を励まし力づけることができるようになった。人は失敗しても、そこでキリストにより頼む信仰さえ失うことがなければ、より深みを増した信仰をもって立ち直ることができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 ネットには盛岡の桜の開花予想日は4月12日、満開予想日は4月16日と出ていたことで、まだ間があると思い道歩くときも、家々の軒先にある水仙や路肩にある姫踊子草の小さな小さな薄紫の花を喜んでいた。どんな球根が、草花がと足元ばかりを視線で探っていたところ、昨日午前中、バルコニーから見ると、何と写真のように2本の樹木に花が咲いていた。そういえば土曜日に孫の手を引いて散歩したときに、レンギョウがちらほらと咲いていたなと思い出す。屈んでヒメオドリコソウを指さすと興味深げに見ていた。1本折って手に持たせた。あとで草とはいえ折るところを見せてよかったのかどうか、折り取って許される花、許されない花の区別はまだつかないだろうな、などと、自分のしたことに自信が持てなかった。
 それはともかく、いつの間にかこんなに花が咲いていたのに意表を衝かれ驚きと喜びにしばし浸った。人様の庭の木でもあり、写真に写り込んだ3軒の屋根を切り取ったところが、花が委縮してしまったように見えるのが残念なのだけれども。

 この日の説教からの思い巡らしは、人が躓くのは欲か恐れであることが多い。この二つに打ち勝つことは人間の力ではなかなか難しい。しかし、それ以上に、キリストを裏切ることはもっと難しい。だから多くはその入り口で踵を返す。踵を返せなかった痛みは生涯ついて回るだろう。しかし、神は人がどういうものであるか、ほんとうによくご存じなのだ。ペテロが躓きキリストを知らないといったとき、ペテロを見つめたキリストの御目。その目に恐らく非難の色はなかったろう。残念だ、無念だという目ではない。憤怒の色は無い。「わかっているよペテロ」。私にはそう思われる。慈愛に満ちた、赦しを湛えたイエスの御目。このイエスの目に逆らい続けられる者はいないだろう。〝この目〟を知ってしまった、見てしまった者は、もはやキリストに抗うことはできないだろう。〝この目〟こそはむしろ自らの罪、咎に深く思い到らせ、悔い改め、悔い改めた者に勇気を賦与する。「勇気を出しなさい!」とイエスは言われた。強くとも弱くとも、富んでいようと貧しかろうと、健やかであろうと病にあろうと、目に見える事態が苛酷であろう平坦であろうと、イエスさまはこう言われる「勇気を出しなさい!」。

 

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きょうのことば『わたしの恵みは十分である』ーイムマヌエル綜合伝道団 岩上祝仁 代表の説教ー

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2025
年3月30 日(日)
第80次年会礼拝

説教題 『わたしの恵みは十分である』
聖書朗読 コリント人への手紙 第二 12章1~10節

1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この方は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外のことは誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、誰かが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
7その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9 しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 この30日は、イムマヌエル綜合伝道団の第80次年会の礼拝でした。盛岡教会から上京した方々もいらっしゃいましたが、私は盛岡教会で盛岡教会の皆さまがたとともに配信を受け礼拝をまもりました。長い間、自分がこの教団に連なる者であるという意識は、私の場合決して高くはなかったといえます。盛岡教会にあってイエスさまを信じる一信徒という感覚でした。しかしこの教団、80年。この教団の創設者初代の蔦田二雄先生のテープにのこされたメッセージを今思い出しています。摩耗したSPレコードのように聞き取るのに苦心しましたが、しかし、その中には「義の火」が耀いている。今そのことに気づきました。戦争で、災害で、ウィルスで、犯罪で、事故で、あまりに無造作にひとのいのちが奪われ、厳しくなる経済、暮らしのしめつけで、人の価値観、在りようががらりと豹変するのではないかという危惧の只中、また目には隠されているけれども、そのようなあり方が水面下にじわじわと〝市民権〟を獲得しつつある今に、この「義の火」はこの世に、この社会に掲げられていなければならない。何か、なぜか、あの蔦田二雄先生の説教にある神の義、義の松明は掲げられ続けなければならないと、この教団のいわば末端にいる凡そ社会的な名誉、権勢からは遠いこの小さき者の眼からも涙が落ちるのです。
 教団を担われる多くの牧師先生方、これまで担われて来られた多くの牧師先生方、多くの真実な信徒の方々に、その自覚が乏しかった時期があったことを、心からお詫びし、このインマヌエルの義の火が、神の義が高く掲げられ続けることを心から祈るのもです。

 

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⏰6時48分更新

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