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2025年3月

きょうのことば『この戦いは主の戦いだ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025年3月23 日(日)
説教題 『自分を愛するほどにダビデを愛し』
聖書朗読
 サムエル記 第一 20章5~17節
(←クリック)
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5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。
6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。「ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです」と。
7 もし父上が「よし」とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。
8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」
9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」
10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」
11 ヨナタンはダビデに言った。「野原に出ましょう。」それで、二人は野に出た。
12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。
13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。
14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。
15しかし、 あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断たれるときにも。」
16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」
17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

【神谷師による説教の要約】
 ペリシテの兵士ゴリアテを倒したダビデのことを、王子であるヨナタンが愛したのは、かつて神に信頼して敵と戦った自分と相通じるものをダビデのうちに見出したからである。
 また、主にある勝利をもたらしたことで、父サウルに妬まれ、命を狙われているダビデに向かって、ヨナタンが「もし私がこれ以上生きるべきではないのなら~私が死ぬことのないようにする必要はありません」と語ったのは、本当に王となるべきはサウルの子である自分ではなく、ダビデの方であると見通していたからといえる。
 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛したことで、父サウルのもとからダビデを逃がし、自分ではなくダビデが王となるために力を尽くした。それは同時に父と共にサウルの家に属する自分たちこそが失われゆくのを知ってのものであった。
 私たちを通して次のひとりが生かされてゆくために、これまで受けてきた愛を注ぐ者でありたい。


―ブログ管理人のひとりごとー
 14節のヨナタンのことばには心揺さぶられる。ヨナタンは親友のダビデに、自分を見捨てていいのだと言っているのだ。父が王である限り自分は王子として、あわよくば次の王として君臨できるのだとそれにしがみつく思惑は微塵もない。このような場合、親友ならばわが一族のために何とかしてくれと土下座し泣きつくこともあり得るところ、ヨナタンはまことに潔い。ヨナタンは、ダビデこそが自分の父に優る王となることを得心し、あるいはこの若さでイスラエル民族に繁栄をもたらすことのできる者こそが王座につくべきであり、それがダビデであることを霊的にも納得していたのだろう。大義の為に自らを捨てる、死にゆくともの覚悟で自らを処するこのすがたに落涙。


 

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⏰5時32分更新

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音楽雑感 これそれ あれこれ

 クラシック倶楽部、とにかく目覚めると「今日は何だったかな」。
 けさは大西宇宙、うちゅうさんと勝手によんでるけれども、たかおき氏なのだ。バリトン。自分に合っていないというか、やりにくいというか、苦手な役柄というのもあるらしいけれども、オペラアリア、どれもありありと歌い上げてくれる。見慣れないホール、これはどこだっけと逡巡。すみだトリフォニーホールだった。この番組で映し出してくれるホールの特徴を見るのもまた楽しみ。
 して、昨日は。これが何とスイッチ・オンで吸い込まれる。ベルリンRIASU室内合唱団。しゃわーっと浄められた響きが。後半の「イエスはわが喜び」。「ヨハン・セバスティアン・バッハの曲。死の直前にある人を死のおそれから解放する」この解説に、今その準備の段階にあられる姉妹が浮かんだ。喜び、感謝のうちにおられると聞いている。ジャスティン・ドイルの指揮。
 遡って、アンドレイ・コロベイ二コフのピアノ。ラフマニノフの「鐘」で綴られた人生。朗読されたエドガー・アラン・ポーの詩が心にのこる。番組と同じ訳ではないけれども後で自分が読み直すためにつないでみた。「楽興の時 第6番」の華麗さ、重厚さ。ラフマニノフの耳に残り、通り抜けていった人生さまざまの「鐘」に共鳴。
 パリ、シャンゼリゼ劇場で奏するはブルース・リウのピアノでショパン。パリデビューだ。
 さらに遡って、こんな音は出せるものじゃないと唸ったのはサンナザーロ劇場に出演のヤン・リシエツキ。ショパンの「ノクターン嬰ハ短調」の1フレーズ。楽譜を見て、ここここと指すことができたらと無念。はっとさせるすばらしい表現。ピアノ演奏という以上のものを聴いた感じが。

と、ここで時間切れ。何れ聴くごとに心の内に何か、それはありとあらゆる人生であるかもしれないが、知らせてくれている。

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きょうのことば『この戦いは主の戦いだ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年3月16 日(日)
説教題 『この戦いは主の戦いだ』(←クリック)
聖書朗読
 サムエル記 第一 17章41~4
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41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。
42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。
43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。
44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエル人の戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。
46今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺して、おまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

【神谷師による説教の要約】
 3
メートルに届くかと思われるペリシテの兵士、巨人ゴリアテを見た時、サウル王とイスラエルの人々は気持ちがくじけて戦意を失った。
そのゴリアテに羊飼いであるダビデが剣も持たずに立ち向かうことができたのは、自分の力ではなく、共におられる神が確かに力を与えてくださると信じたからである。
 その後、ダビデが「ここに集まっている者」と呼びかけ、敵も味方もなく語っているのは、戦いに必要なのは、力や數、武器によると思っていた人々に、神による勝利があることを知らせるためであり、かつての預言者サムエルによる注ぎの意味は伏せられていたが、これこそイスラエルの王たる者の言葉であった。
 困難に際し、見えるものだけに目を留めることなく、神の働かれる領域に真の力があることを覚えたい。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 先週は若干健康を害してしまい、慎重な行動を余儀なくされた日々であった。そんなとき心を過るのは、自分はもうダメかな、わたしももはやここまでかも。気弱になるとたちまち天地宇宙が崩れてくる。
 飛躍するけれども、人が悪くなるのには時間がかからない。一生かけて陶冶された良きもの、やっと手に入れた好ましいものも、一瞬で崩れうしなってしまうことがある。これを取り戻すには良くなろうと努力した時間の、エネルギーの数倍を要し、あるいは最悪には取り戻すことができず、もとの自分には戻れなくなることさえあるだろう。そうなった後の人生は良いものと好ましからざるものとのすり合わせで堂々と理屈を掲げるなりして生きてゆくことになる。
 人は弱いもの、私はそれを自覚している。自分は強くはない。だから自分に代わって戦ってくださる神さまを信じ、自分が弱ったときに、聖書を開き、イエスさま!と呼びかけ祈り、心境を吐露する。すると明るみが兆してくる。「われ弱くとも恐れはあらじ」。神さまは生きておられることを実感し、花粉症で最悪の状態ではあるけれども、今朝も神さまと共にスタートできる幸せを思う。

 

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⏰6時40分更新

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きょうのことば『王位から退け~王を見出し』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年3月9 日(日)
説教題 『王位から退け~王を見出し』(←クリック)
聖書朗読
 サムエル記 第一 16章1~13節

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1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」
2 サムエルは言った。「どうして私が行けるでしょうか。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は言われた。「一頭の雌の子牛を手にし、「主にいけにえを献さげるために来ました」と言い、
3 エッサイを祝宴に招け。わたしが、あなたのなすべきことを教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
4 サムエルは主がお告げになったとおりにして、ベツレヘムにやってきた。町の長老たちは身震いしながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」
5 サムエルは言った。「平和なことです。主にいけにえを献げるために来ました。身を聖別して、一緒に祝宴に来てください。」そして、サムエルはエッサイとその息子たちを聖別し、彼らを祝宴に招いた。
6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
7主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。
9 エッサイはシャンマを進ませたが、サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。
10 エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」
11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」
12 エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油をそそげ。この者がその人だ。」
13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

【神谷師による説教の要約】
  預言者サムエルがエッサイの息子たちを見た時、神から「わたしは彼を退けている」と言われたのは、ダビデの兄たちの心もまた、すでに王位を退けられたサウル王と同じようなものだったからである。
  また、神が「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言われた時、末息子のダビデの心にあったのは、その人生の終わりに「すべてはあなた(神)から出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません」と語った心であり、それこそ神が求めておられた心であった。
  神が選ばれるダビデのような心を持つのは「我こそは」と、自分を前に出そうとする人ではなく、自分は神に選ばれる資格(そう思える理由)がないと感じている人である。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
  何を書こうかと頭の中でこね回していると、いよいよ文字には化けにくくなるようだ。率直である事がいちばん。
住まいとしているこの建物の高さすれすれに白鳥の隊列が通過していったあの鳴き声が今よみがえっている。脱落することがないよう、力尽き敢え無く藻屑と消えることがないように、飛んで飛んで飛んで目的の地に着地し羽をやすめてほしい。
 過ぐる一週間も忙しかった。こうして動けるうちが花か端か洟かはわからないが、忙しい中にも森のイスキア、おにぎり付きラーメンを孫たちに提供、買い物難民と自称しておられる方とともに未来の買い物難民である私が買い物に。脳裏に健康寿命を測りつつ、それでも一応役目を果たせたのは幸いだった。神に感謝。
 先ほど主人がここに現れて、「これよりも、あのことをやった方がいい」と。このブログ更新よりも懸案の原稿書きを進めた方がいいとのたもうた。懸案の原稿は、字数を確かめると、単語数107,788、文字数111,308。道のそちこちにずいぶん記憶の断片を落っことしてきてしまい、記憶の引き出しにはもはや何もなくなりかけているだろうと思っていたところが、単語も今現在10万以上はのこっていたらしい。この最後の仕事となるかもしれないキーたたき。これは成り行きから神のご配慮があると日増しにその感を深くしている。あとは自分が健康でいられるかどうか、残された時間の配分をうまくできるかどうかにかかっているようだ。

 

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⏰6時22分更新

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きょうのことば『主はご自分の心にかなう人を求め』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年3月2 日(日)
説教題 『主はご自分の心にかなう人を求め』(←クリック)
聖書朗読
 サムエル記 第一 13章1~15節

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1 サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。
2 サウルは、自分のためにイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地にいて、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの兵は、それぞれ自分の天幕に帰した。
3 ヨナタンは、ゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。サウルの方は国中に角笛を吹き鳴らした。ペリシテ人たちは、だれかが「ヘブル人に思い知らせてやろう」と言うのを聞いた。
4 全イスラエルは、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、しかも、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」ということを聞いた。兵はギルガルでサウルのもとに呼び集められた。
5 ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように數多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。
6 イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中に隠れた。
7 あるヘブル人たちはヨルダン川を渡って、ガドの地、すなわちギルアデに行った。しかしサウルはなおギルガルにとどまり、兵たちはみな震えながら彼に従っていた。
8 サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。
9 サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。
10 彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。
11 サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

12
今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」
13 サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。
14 しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」
15 サムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいた兵を数えると、おおよそ六百人であった

【神谷師による説教の要約】
 サウル王と一緒にいた兵士たちがペリシテ人を見て恐れたのは、兵を率いるサウル自身が、敵の大軍を前に、共に戦われる神さまが助けてくださると信じていなかったことにある。
 サウル王が祭司であるサムエルに代わっていけにえをささげた後「主が命じられた命令を守らなかった」としかられているのは、それが神を信じて求めるためではなく、周りの兵士が離れないためのポーズとして、そのことをしたからである。
 サウルに代わってペリシテへの勝利をもたらした息子ヨナタンのように「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」という心を持つために必要なのは、弱い自分を人に対して大きく見せようとするのでなく、より小さくなって神に祈ることである。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 きのう心に通っていた聖書のことばです。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」ヨハネ第一の手紙1:9
 このことばに心からうなずき、このことばに歩もうと最初はもがき苦しむこともあるのだけれども、神の存在への信頼が熟成しだすと、自らが気負わずとも知らず知らずのうちに楽にこの真理の内に生かされている自分に気がつくようになった。
 ぽつぽつと思いつくままに記せば、今まわりに、いまどきの若い者たちは、と眉間にしわを寄せることがない。むしろいろいろな出来事を通して、ああ、そうだったかとその率直さのうちにあるさまざまな思い、葛藤に頷き、よき解決を図り或いは好転を模索しているといったすがたを見る。そして逆に年齢に伴って弱くなっていく私が、結果的に大いに励まされ、自分を引き上げられたことであった。

 きのうの昼は孫たちがばあばの〝ラーメン店〟に来訪。「ラーメンが食べたい」という孫に「いつでも作るからどうぞ」と来るか来るかと待っていたところがきのうやっと。ニンニクのすりおろしと刻みネギに鶏ガラスープを注ぎ、ほうれん草のおひたし、チャーシュー、メンマをのせたシンプルなラーメンの登場。最近になって、これまでになく料理を楽しんでいる。 


 

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⏰7時3分更新

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証しされる 「光は闇の中でこそ」ー秋田教会牧師 神谷美津子牧師ー

 友人・知人の方で、病んでおられる方々が、身の回りに多くいらっしゃいます。特に癌の方々には心が痛んでおります。
膵臓癌に罹るも、呉に転居されて癌細胞が消えていたという前盛岡教会の牧師國光ひろ子先生については何回かお伝えいたしましたが、これはやはり稀なケースでした。しかし苛酷な試練の中にも神さまの光をいただきながら希望の内に召されていった方々がいらっしゃいます。
 このことを願いホスピスのボランティアに携わられた神谷美津子牧師のお証しが、イムマヌエル綜合伝道団発行の「つばさ」3月号に掲載されておりましたので、ご紹介いたします。どうか、この闇の中に輝く光にあなたもお会いできますようお祈り申し上げます。

クリックしていただくと読みやすくなります。
 

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きょうのことば『王も~主の後に従うなら』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年2月23 日(日)
説教題 『王も~主の後に従うなら』(←クリック)
聖書朗読
 サムエル記 第一 12章7~25節

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7さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。
8 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わし、彼らはあなたがたの先祖をエジプトから導き出し、この場所に住まわせた。
9 しかし、先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで先祖たちは主に叫んで、彼らと戦うことになったのだ。
10 先祖たちは主に叫んで、「私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテの神々に仕えて罪を犯しました。今、私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してください」と言った。
11 すると主は、エルバアルとバラクとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それで、あなたがたは安らかに住んだのだ。
12しかし、 あなたがたは、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、「いや、王が私たちを治めるのだ」と私に言った。
13 今、見なさい。あなたがたが求め、選んだ王だ。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。
14 もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。
15 しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手が、あなたがたとあなたがたの先祖に下る。
16 今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。
17 今は小麦の刈り入れ時ではないか。私が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。」
18 そしてサムエルは主を呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨を下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。
19 民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」
20 サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。
21 役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。
22 主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。
23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。
24 ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。
25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」


【神谷師による説教の要約】
 人々がサムエルのようなさばきつかさに代えて王を求めたのは、周囲の国々のように、常に王が軍隊を率い、力をもって自分たちを守る方が安心だと考えたからである。しかし、神がそのように立てられた王の条件は、申命記の17章14節以降に記されている通り、そのような力に拠らず、みおしえの巻物(聖書)を読み続け、そこに生きることを通して、この方を恐れ、仕えて神の後に従うことである。
私たちもまた、そうすることで、見えるところは周囲と同じであっても、力や知恵、また経済といった見えるものにはよらず、神による確かな安全、安心を得ることができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 昨日は、午前は主人の友人の来訪、昨夜は孫のお泊り、隣の部屋から「おはようございます」と声がしている。今小さな毛布を引きずりながら起きだしてきてソファにちょこんと座っている。お世話の開始。ばあばも今朝はちょっと寝過ごし、諸般急がねばなりません。で、筆記はここまでです。神さまに感謝!

 

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⏰6時55分更新

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クラシック倶楽部あれこれ

 どうしておられるかとふっと思い出しては気に掛けていた沿岸の友だちから便りがあった。ほんとうに頑張っておられる。彼女の一筆を読むと祈り心が湧く。その中に「クラシック倶楽部を毎日聴いています」とあった。
 人に奨めながら、今は5時きっかりに聴くことは少なくなっている。現実的に早朝に目は覚めるもののいささか体調にひびくという感じがする。久しぶりに諏訪内晶子の健在ぶりを見た時も嬉しかったし、文字にしないまでもこの番組の恩恵は受けてきている。
 パトリシア・コパチンスカヤ&カメラータ・ベルンのヴァイオリンでは、これが立奏なのだが、メンデルスゾーンやらシューベルトはもうおなじみでシューベルトの「死と乙女」は昔弟が隣の部屋でよく聴いていたのを思い出しながら懐かしく聴く。非常に目新しいというか、耳新しいというか、それが「怒り」だった。作曲者はパトコップ。誰だろう、知らない。ところがググってみるとコパチンスカヤのペンネーム。改めてネット上にある彼女の顔に見入ってしまった。土俗的な直截な感覚が面白かった。
 ベルリン・フィルの首席、樫本大進がベルリン・バロック・ゾリステンとともに。これも立奏。どの団体であったか立奏が動きが自由で音が出しやすいと言っていたが、立奏がおおくなっているのか。それにしても高齢になると立奏は大変だろうと思ってしまう私は立派な高齢者。樫本さん、45歳になられるようだけれど、貫禄が増していた。ヴィヴァルディ「四季」、「これが冬だ しかし 冬は喜びをもたらしてくれる」。時代の冬、歴史上の冬、その中で喜びを見出せる方々が一人でも多くいらっしゃるようにと祈る。
 日付は前後するけれども、バイオリンのロマン・シモヴィッチが演奏についていう「感情で俳優のように物語をつくりだす」で、感情欠乏気味となりつつある己を自覚。ドバイでクラシックピアノコンクールが行われていることを知る。一度は水浸しになったドバイ、しかし治安は非常に良いとも。あの砂漠の近代都市でコンクールが!
 櫻田亮、この名前、まこと、と読むのね。ベルカント、良かったな。人の声の説得力は楽器とはまた別者という感じが
 フランチェスコ・トリスターノのピアノ。バッハのイギリス組曲第2、3、6番。小気味よい風が控えめなユーモアまじりに吹き抜ける。
 その他、その他といってしまっては申し訳ないのだが、朝のひとときはこうして始まる。
 今朝は土曜日でクラシック倶楽部はないが、早朝のゼレンスキー対トランプのやりきれなさを、せめてクラシック倶楽部の思い返しで吹き飛ばしてみた。

 

⏰6時19分更新

 

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