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2025年2月

きょうのことば『主が御目にかなうことを』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025年2月16 日(日)
説教題『主が御目にかなうことを』(←クリック)
聖書朗読 サムエル記 第一 3章1~21節
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1 さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
2 その日、エリは自分の所で寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。
3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。
4主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、
5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。
6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。
7 サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。
8 主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。
9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話ください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
10 主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話ください。しもべは聞いております」と言った。
11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」
15 サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。
こにおります」と言った。
17 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」
18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」
19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。
20全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。
21 主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。

【神谷師による説教の要約】
 祭司エリが、夜中に幾度も訪ねてくるサムエルを「主が少年を呼んでおられる」と分かったのは、エリもまた、さばきつかさの一人として、かつて何らかの経験をしたからだといえる。
 そして、初めて神のことばを聞いたサムエルに対して、エリが「語られたことばの一つでも私に隠すなら~幾重にも罰せられるように」と厳しく話したのは、神のことばは、言いにくいことであっても、正しく伝える責任を教えるためである。
 エリが自身の一家の滅びを伝えるサムエルに応えた「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」とは、たとえ自分たちの時代が 終わっても、働きを引き継ぐ人が現れた喜びだと思う。それは、神のみこころに目を留める人だけが持つ、自らの都合や状況を超えた喜びである。

―ブログ管理人のひとりごとー
 友人、知人に癌の方がずいぶん多い。いったいどうなってるの?統計も何も見ないで勝手に放射能やプラごみ汚染が理由じゃないかなどと思いながら「癌が増えてる理由」とググってみると、喫煙、細菌やウィルス、高齢化、食生活、運動不足、太りすぎ、痩せすぎとなっている。行き当たりばったりで出てきた大阪府の統計を見る。2005年で1975年の2,7倍だ。2024の統計が出ているかいないかはわからないけれども、今年になって次つぎに聞く。膵臓癌でも癌細胞が消えて次は天国と思っていたところが今は以前にも増してお元気になられた國光ひろ子先生という例もある。稀なケースではあるけれども、確かにあった。しかしそうではない例がやはり多かった。しかしその中でもイエスと共に歩み、余命を死んだ者のように過ごしてしまうことなく、希望と共に歩まれた方々の姿が思い出される。
 心の中に通う聖書のおことばはまさに「わが道の灯、わが道の光」。そしてイエス様は今、「恐れるな、わたしがあなたとともにいる」こう仰せられている。


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きょうのことば『あなたの神は私の神』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

 

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2025
年2月9 日(日)
説教題 『あなたの神は私の神』(←クリック)
聖書朗読
 ルツ記 1章15節~2章3節
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15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」
16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
18 ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。
19 二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ。ナオミではありませんか」と言った。
20 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。
21 私は出ていくときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私を辛いめにあわせられたというのに。」
22 こうして、ナオミは帰ってきた。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。

【神谷師による説教の要約】
 飢饉のために、イスラエルの地から逃れてきたエリメレクの家族に嫁いだモアブ人ルツがその主人と息子を亡くしたイスラエル人の姑ナオミに向かって「あなたの神は私の神」ということができたのは、共に過ごす中から、ナオミを通して神の恵みがルツに届いていたからである。
連れだってイスラエルに帰郷したルツに対して、ナオミとは親戚にあたるボアズがとても親切にしたのは、自分の母親がカナン人で、異なる文化の中に生きることの労苦を理解することができたからだといえる。
 そのようなボアズが、モアブ人のルツと結婚したことを通して、その子孫から、のちにイスラエルの王となるダビデだけでなく、新約の救い主キリスト誕生にまでつながることになった。
 目先の幸不幸だけで、人生を測るのではなく、その中にも尚進む神の計画に目を留め、励ましをいただきたい。

―ブログ管理人のひとりごとー
 この日は、クリスチャンホームで育った若い姉妹、高校3年の方の信仰の体験談がありました。この中で、どなたかがこの姉妹に「神を信じてから何が変わったかというよりも、神が何をしてくださったかを話せばいい」になるほどと合点したことです。「かぞえてみよ主の恵み」。ほんのすこしの困難があっただけで、愚痴をいいたくなる。しかしこんなときにこそ「かぞえてみよ主の恵み」。きょうけがをせずに歩くことができました、神さまありがとうございます。眼がまだ見えています。神さまありがとうございます。ほんのささやかなことを取り上げ取り出して感謝をすることができる、これがほんとうに感謝です。

 

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⏰6時37分更新

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新ダヴィット同盟

 TV画面、またTV? と言われそうだが、これはもう習慣。5時はとっくに回っていたが、TVを点けると、いきなり吉田秀和の写真が。あ、懐かしい~。そう何を見ても「懐かし~」と出てしまう齢。レコード芸術が活況を呈した頃は、度々評論を目にして、う~ん! あらえびすなども取り上げてくださって地方にある音楽ファンを大いに喜ばせてくれもした方。といっても、あらえびすは地方版の音楽評論家ではない。
 それで、吉田秀和がどうして今朝のTVに? と見ると、水戸芸術館の初代館長であり、今日出演の新ダヴィッド同盟、変わった団体名、と見ると、これはネットで見るとなのだが、「2010年に水戸芸術館館長吉田秀和の命名によって庄司紗矢香に結成を託された水戸芸術館専属の室内楽グループ」。新とついているからには旧?もあるでしょう、と見ると「「ダヴィッド同盟」は、ドイツ・ロマン派の大作曲家ローベルト・シューマンが夢想した芸術グループ。異教徒ペリシテ人を知と勇気で撃退した旧約聖書の登場人物ダヴィデ(ダヴィッド)にちなみ、俗物に対抗し、新しい音楽の理想を打ち立てようとする気概がこめられている。」
 新ダヴィット同盟は庄司紗矢香を中心に結成。今日の演奏は小菅優、池田菊衛、磯村和英、そして、ゲストはスティーヴン・イッサーリス。シューマンのピアノ五重奏曲の力強い響き、この曲もまた明治・大正から幾度となく演奏されてきたのだろうと、感慨深く聴く。

 次の名曲、「トスカ」、森谷真理のソプラノ、いつになく胸にしみた。



⏰6時54分更新



 

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きょうのことば『あなたと一緒にいる兵は多すぎる』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年2月2 日(日)
説教題 『あなたと一緒にいる兵は多すぎる』(←クリック)
聖書朗読 
士師記 7章1~8節
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1 エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。
2 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが、「自分の手で自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。
3 今、兵たちの耳に呼びかけよ。「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ」と。すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
4 主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。わたしがあなたに、「この者はあなたと一緒に行くべきである」と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、「この者はあなたと一緒に行くべきではない」と言うなら、だれも行ってはならない。」
5 そこでギデオンは兵を連れて、水辺に下って行った。主はギデオンに言われた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にせよ。また、飲むために膝をつく者もすべてそうせよ。」
6 すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。
7主はギデオンに言われた。「手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」
8 そこで三百人の者は、兵の食糧と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引きとどめた。ミディアン人の陣営は、彼から見て下の方の平地にあった。


【神谷師による説教の要約】
 
ギデオンが神の使いから「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」と、神の働きをするように、召しの声をかけられた時、「ああ、主よ~」と、悲しそうに返事をしたのは、周囲の敵のため圧迫と困難の中に置かれた現状を、神に捨てられたと思っていたからである。また、大きな問題の前に自分の弱さを感じていたギデオンを、神は共におられ、遣わす(今後について計画を持ち、保証する)と約束され、敵の大軍を前にしているギデオンに、神が「あなたと一緒にいる兵は多すぎる」と言われたのは、彼らが勝利した時「自分の手で自分を救った」と言って神に向かって誇ることなく、栄光が神に帰せられるためであった。
 目前の問題と自らの欠けにのみ目を留めることなく、そこに我らを用いる全能の神を計算に入れたい。


―ブログ管理人のひとりごとー
 いざ戦いという局面で、戦費はいくらあるか、どこから調達するか、兵器は敵よりどれだけ優れているか、動員できる兵士は……この数字を見て勝敗の予測を立てるのだろうけれども、神の世界、信仰の世界では、「全能の神を計算に入れなさい」とここでは教えられた。もうダメだ、ここまでだ、精魂尽きた、助っ人もない、全軍が怖れでガタガタ震えているとき、しかし、しかし、「わたしを見なさい、わたしは生きている」と言われるイエスさまが迫る。自分の味方がひとりのこらず背を向けて去ろうとも「神ともにませば恐れはあらじ」。神の手が行く手を守り導いてくださることを知る。私と一緒にいてくれる〝兵〟は多くなくていい、イエスさまが、神さまがともにいてくださる。そして、ひとたび悔い改めた者のためには、神が一切を肩代わりし、神ご自身が戦ってくださると私は信じる。 

 

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⏰6時23分更新

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クラシック エラール メモ

 数日前のクラシック倶楽部、フランチェスコ・トリスターノのバッハ演奏。まるでフローリングに日があたり目立ってしまった埃を掃除機で吸い取ってくれるような、そこにある埃に窓から一陣の風が吹き込んでスーッと運び去ってくれるような、トリスターノのバッハは、自分に見分け難くうっすらと積もった埃をちょうどそのように払い爽やかにしてくれた。曲が終わってみると爽やかさがのこされていた。


 今朝はピエール・ロラン・エマール。藝大の学生が聴講。これがとても興味深い。今聴きながら書いている。バッハとクルターグの比較というよりも、それぞれの作曲家の面白さの違いとでもいおうか、それを解説を交えての演奏。クルターグ、初めて聴くけれど、とここでまた.wikipediaに飛んでみると、「ルーマニア出身のハンガリー人作曲家ピアニスト、室内楽の教授。バルトークマリンシュテインウェーベルンらの影響を受けており、表現主義においてウェーベルンの後継者と言われている。」
 エマールはバッハは巨大建築であり、葉っぱのモチーフをどんどん豊かに繁らせて豊かな樹木にする。一方クルターグはモチーフを切り詰め切り詰めて、詩の世界でいえば俳句のような表現にする。クルターグの作品が格言のように聞こえる理由はここにある。番組通りの解説そのままではないが、こういった解説だった。非常に面白かった。そしてエマールの演奏がまさしく、バッハはこうだよ、こうなんだ、クルターグはこうだよ、分かるだろうこの違いが、と解説が聴こえてくるような演奏だったこと。エマールが俳句という言葉を持ち出せたことが意外だった。
 気が向いた時ばかりもと、書きつけておく。もう名曲アルバムが始まっている。

 

⏰6時2分更新

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きょうのことば『わたしは今日、あなたの家に泊る』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

 あっという間に2025の1月が終わりました。このカレンダーは高校の同期生である春日部市にいる友達、同期会でお会いしていつの間にかクリスチャンになっていたのを知ったのですが、その彼女が送ってくれたカレンダーです。いつもなら「もう1月は終わった」と無造作に剥いで捨てるところ、しかし今朝このおことばに目がとまり、この画像では雰囲気が良く出ていないのが残念ですが、写真をも含めてすっきりと清冽な趣に惹きつけられ、捨てるのはもったいないとスキャナを潜らせてみました。A5サイズのカレンダー。どなたが作ったのかは分かりません。120250202_05201520jpg

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2025
年1月26 日(日)
説教題 『神の国はこのような者たちのもの』
聖書朗読 
ルカの福音書 第19章1~10節
(←クリック)
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1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
2するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

【神谷師による説教の要約】
 取税人のザアカイがキリストを見ようとしたのは、これまでの取税人たちへの対応を聞いて、関心を持ったからといえる。また、キリストに名前を呼ばれ「泊ることにしてある」と言われたザアカイは、そのことを嫌われ者の自分を愛して信頼してくれたと理解して心躍る思いであったことが考えられる。それゆえにザアカイが「主よ、ご覧ください~」と言って財産の半分を貧しい人に、脅し取った分は4倍にして返すと語った時、心にあった思いは、キリストが自分にとって、それまでしがみついていたお金よりも大切な存在になったということである。
 キリストこそ、私たちを捕らえて離さない、あらゆるこだわりから解放することのできる方である。

―ブログ管理人のひとりごとー
 水曜日からペースをゆるめている。ほんとうはこの数日間こそ拍車をかけ頑張らなくてはならなかったのだが、如何せん眼精疲労。7日には二カ月近く続いた咳が止まり、「主を喜ぶことはあなた方の力です」を実感したのだった。まさしくその通りで、気力は回復したものの、こんどは目の使い過ぎで頭痛が。解決策は単純で休むこと。心ゆったりと、夕べはバッハと讃美歌、バッハも讃美歌ではあるのだけれど、何れ、音楽で寛いだ。讃美歌がもたらすもの、何か奥深いところから自分に宛てて慈愛がにじみ出てき、心を癒してくれる。讃美歌を50年歌ってきたけれども、讃美歌が自分を引上げてくれる力は大きい。
 人生の終盤に人に課せられている闘いは、孤独との闘いかと思う。家族に先立たれ、友だちに先立たれ、やがて一人になったとき、あるいはそのほかさまざまな理由で一人になり、身動きもままならなくなったとき、襲い来る孤独感を克服して生きることは容易ではないだろう。恐らくはそのとき、讃美歌の恩恵をいよいよ知ることになるだろう。そしていよいよ祈るようになるに違いない。ある方、この方はもう90歳になられたかと思うが「きょうもイエスさまと二人っきり」、こう仰って出かけるときには鍵をかけながら扉のところで留守の見まもりを祈り、神さまへの信頼を絶やさずに明るく前向きに生きておられる。倣いたい。


 

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