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2025年1月

音楽ブログであることを思い起し

 10分遅れでTVクラシック倶楽部、オン。ジェームズ・エーネスがベートーベンのバイオリン・ソナタ4番を演奏中。一瞬、「クロイツェル」の方がいい。しかししかし、そこは何はともあれベートーベン、惹きつけずにはいない。ジェームズの解説では、ベートーベンはソナタの4番と5番を合体で出版したかったらしい。感覚的に対照的とまでいえるかどうか、しかし一般的には対照的と評されるこの4番と5番。これを合わせて出版することで世間をあっと言わせたい、何かわかる。ばっと自分の才能のすごさを提示してみせたい。わかるな~と思ううちに5番「春」が鳴り出す。あまりに聴きなれて、4番よりもぐんと月並みに聴こえてしまったのは、トシで感覚が鈍ったせいなのか。いちどは「クロイツェル」がいいと思ったことも忘れて、もう一度4番、4番が聴きたい。こんな調子。とはいうものの、「春」はやはりやはり名曲。手足も掬い取られて後半部分はしっかりと聴かせられてしまった。アンコールはソナタの3番。これがまた聴こうという意欲を引き出し神経をギリッと収斂させる。う~ん。まいった! やられた! 何だかんだ言っても、ベートーベンにはやられてしまう。

 昨日は神尾真由子だった。やっぱりすばらしい! はて彼女何歳? ぐぐると38歳。ちょっとググってみると、トシなどググってくれるな、ほっといて! が演奏家の本音であるかもしれないが、「楽器は宗次コレクションより貸与されたストラディヴァリウス1731年製作「Rubinoff」を使用している。 東京音楽大学教授 」。ですか。そうですか。舞台と後進育成の掛け持ちでらっしゃる。なるほど。
 すばらしい演奏であるにも関わらず。実はしっかりとは聴き損ねていたのだ。2007年に第13回チャイコフスキー国際コンクールで優勝し、輝ける彼女の演奏のすがたを私に是非見せてあげたいと、チケットを取ったとお誘いくださったご夫妻がいた。花巻市の市民文化会館だったと思う。そういう有難いお気持ちとは知らず、「神尾真由子の演奏会があるから花巻まで送って欲しい」とだけおっしゃった。日曜日、礼拝がある。そこで私は承知し、花巻までクルマで1時間を想定し、開演に間に合えばいいという計算。指定席は取ってあるのだし。ところがご夫妻は演奏会前にどこかで食事を挟みたかったらしい。教会の礼拝を早めに退席しなければならない。そこで食事時間までは取れないことを申しあげたところ、そこは私がたった1時間妥協すればいいところであったのだけれども、「じゃ、頼みません!」。何とも後味の悪いことになってしまったのだった。今なら1時間ぐらいなら相手の方のお気持ちに配慮できる柔軟性もあるのだが、その時は斟酌を利かせなかったために、とんだ結末になって仕舞ったのだ。そんなことがあってからは、神尾真由子を見るたびにこの一幕を思い出す。それにしてもご夫妻は神尾真由子にぞっこんだった。神尾真由子をよくこそ言え悪く言ったことなどないのだが、私も言葉がついつい人に誤解をもたらすような言い方になってしまうこともあり、そんな時には、「神尾真由子だよ!」と烈火のごと。神尾真由子に何の依存があるか、何の不満があるか! 神尾さんにはこんなファンを掴んでたんですね。神尾さんの話題が出ると、私はひたすら上下を着けた心境になって「ははー」と、平身低頭するばかり。懐かしい懐かしい思い出です。


⏰6時57分更新

 

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きょうのことば『神の国はこのような者たちのもの』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。

2025年1月19 日(日)
説教題 『神の国はこのような者たちのもの』(←クリック)
聖書朗読 
マルコの福音書 第10章13~16節

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13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが、弟子たちは彼らを叱った。
14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

【神谷師による説教の要約】
  人々が子どもたちをキリストのもとに連れて来た時、弟子たちがその人たちを叱ったのは、彼らが子どものことを軽く見ていたからである。
それは、弟子たちがお互いの間で「だれが一番偉いか」と言い争う心がもたらしたものであり、その姿と子どもの違いは、お互いを比べる中で自分たちを見る弟子たちに対し、子どもは父なる神さまに愛されている存在として自分を見ていることである。
 子どものように神の国を受け入れるとは、神に愛されている者としてこの世界に及んでいる神の支配を認め、信じ、受け入れて生きる態度といえる。聖書が語る謙遜とは、そのような態度から生まれてくるのである。


―ブログ管理人のひとりごとー
 このブログには日曜日の礼拝説教を復習のように書かせていただいておりますけれども、実はYouTubeにはここに掲載していない神谷師の祈祷会説教も出ております。自分のクリスチャンとしての在りようを指摘されることしばしば。1月23日の説教、聖書がかたるところの「赦し」が扱われていたわけですが、強烈なライトでゆっくりと心の中を照らし出されてしまいました。人を赦す、対面上だけではなく心から人を赦すのはほんとうに難しい。単なる批判というのではなく、憎しみから故意に自分を貶める存在を赦すのは尚更難しい。しかしイエスさまはご自分を辱め、むち打ち、十字架につけた人々のために祈られた「父よ、彼らをお赦しください」。ここに思いが到った。ここに到らなければ、心の平和はあり得ない。そう思った。

 

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6時55分更新

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きょうのことば『あなたの信仰が~救った』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025
年1月12 日(日)
説教題 『あなたの信仰が~救った』(←クリック)
聖書朗読 
ルカの福音書 第17章1~19節

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1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
2 その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。
3 あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。
4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」
5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
6 すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
7 あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。
8 むしろ、『私の食事の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。
9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。
10同じように あなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、、『私たちは取るに足りない。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れた所に立ち、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18この他国人のほかに、 神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

【神谷師による説教の要約】
 普段は付き合いのないガリラヤのユダヤ人とサマリア人が一緒になって病の癒しをキリストに叫ぶことができたのは、どちらも病気のために、その社会から外れた中にあったからである。
 また、癒されたことに気づいて戻ってきたのがサマリア人一人だったのは、他のユダヤ人たちはこれからの生活を考えて、彼らの共同体の中で力を持つパリサイ人達が拒むキリストとの関係を明らかにしたくなかったからといえる。
 キリストが語った「あなたの信仰があなたを救った」とは、主がすべてを成し遂げてくださるということを信じる選択をしたということであり、それが以後の人生に救い主としてキリストを迎え入れることになったことを意味している。
 誰もがたとえ小さくても、個人的な決断をもって、この救いに与ることができるのである。この信仰にとどまり続けたい。

―ブログ管理人のひとりごとー
 福音関係の多くのblogでは、牧師先生方の福音の仕事内容、どれほど衆目に見えないところで労されているかは書かれておりません。信者のため求道者のためにどれほどの犠牲を払っても、表にはあらわれていない。それは先ず第一にイエスさまご自身を伝えなければならない、イエスさまによって救われる方が一人でもおこされるようにという願いからであるのですが、しかし、わたしはこれに一抹の疑問を持っています。あまりにも残念、そんな気持ちです。阪神・淡路大震災からはや30年。この渦中にあり多くのボランティアが活躍。またその地の宗教関係者の方々もまた並々ならぬ犠牲を払っている。そのときに教会によって救われ、主イエスさまへの信仰告白をした方々も存在したはずが、世の中が収まったときに、果たして何人が変わらずに教会にとどまり続けたか。3・11からははや13年。震災当時、キリスト教関係の支援の拠点となった沿岸のある教会の牧師先生方が、どれほど日々不眠不休で支援に被災地を駆け回っていたか。そして数年後に私がこの教会を訪れたときに、あの時に教会につながったという方が何人いらしたか。私がここで言いたいのは、世話になったにも関わらず、信仰を持ったにも関わらず、それを忘れたかのか、などということではない。多くの方々にはそれ以後にもそれぞれの深刻な事情もあったかと思う。
 大震災時に関わらず、説教ばかりではなく、信者のためにもできる限り労してきている牧師という方々。そのご苦労を先生方がご自分で語らないのは、それらの多くが個人情報であり、いわば職業上の守秘義務からかとも思う。

 それら様々を思い返す今、ここに至って、教会に居続けてよかった! 涙とともにそう思っている。そして、せめて自分が日曜日ごとに聴いている説教をここに掲載させていただくことをもって、そのご労が消えることなく、それどころか信徒を生かし続けていることを衆目にも分かるようにしたいとの思いです。牧者の仕事は消えない。人に知られなくとも、どんな奉仕も主の前には覚えられ、少なくとも私が見知っている牧師先生方には、神さまご自身が「善且つ忠なるしもべ」と語って下さっているに違いありません。
 私のように不出来な信徒にも忍耐と主のご愛をもって導き続けてくださった牧師先生方、そして神さまに感謝をしております。


 

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⏰6時半更新

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きょうのことば『一つのことは知っています』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、先週日曜日の説教を掲載しております。
2025
年1月5 日(日)
説教題 『一つのことは知っています』(←クリック)
聖書朗読 
ヨハネの福音書 第9章24~41節

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24 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
27 彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
29神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
30 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
31 私たちは知っています。神は、罪人の言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
36 その人は答えた。主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

37
イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから。あなたがたの罪は残ります。」



【神谷師による説教の要約】
 キリストがこの地上で様々な奇跡を行われたのは、自分が何者であるかを示すためである。
また、パリサイ人やユダヤ人たちが、キリストによって生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったと信じなかったのは、自分たちが持つ、聖書の教えを行うことで救われるというこだわりを捨てられず、都合の悪い事実から目を逸らし、それを認めなかったからといえる。

 これに対してキリストが私たちに与えようとしているのは自分を信じて神の子となり、神と共に生きる永遠のいのちを与えることであった。 自分のこだわりやプライドを脇に置き、差し出されている恵みを受け取りたい。

―ブログ管理人のひとりごとー
エホバ喜ぶことは汝らの力なるぞかし」。(ネヘミヤ 8:10)
ここ一週間、言いたかったことは実はこの真理。

 2か月あまり続いた咳が、7日になって、あ、咳が出なくなった! だけどホントかな、1、2時間したら、半日経ったらまた出てくるんじゃないか。2か月近くも続いてみると、本当に治ったことがなかなか信じられなかった。咳が止まったなと思ってから今日で6日目。やはり咳は出ていない。ほんとうに治ったのだ。薬効の恩恵あってのことでもある。コロナに罹ったことはない。インフルエンザに感染したこともまだない。これにはワクチンの恩恵があるだろう。はて、今回の咳はいったい何だったのか。肺炎にはなっていなかった。熱も無し。血圧正常。
  この2か月を思い返す。咳が出るというだけで、万事に消極的になっていた。といっても日常生活に必要なことは、いかに外気温が低くとも「なに、死にはしない」と通常通りに動いていた。「死にはしない」、これがちょっと無謀で、それで症状を長引かせてしまったかなとも思う。
 正月に帰省した息子が「体調が思うようじゃない時は、けっこうこれが効くよ」と養命酒を置いて行った。一回20ミリ。しかしけっこうアルコール度が高い。で、先ず半分の10ミリで試している。
 咳は出るものの、体調が悪いという自覚はなかった。ただ万事に消極的、ややもするとマイナス思考となる。やっぱりこういうトシなのか、等々。しかしこの咳が明ける直前の日曜礼拝で、確かに日曜日に教会に来てはいるけれども、心いっぱい神さまを賛美していないな。その実態にはたと気づいた。これは大きな声で讃美歌を歌っていないとかではなく、気持ちが萎んでいる。神への想いが萎んでいるということ。さて、今時間は何なのだ、何のために教会に来たのだ。そう、神さまを、このイエスさまを、このイエスさまが神さまであることを褒めたたえ、感謝し、賛美するために来ているはずじゃなかったの? そこに思い到ったときに、俄然力が湧いてきたのだ。もう声も出ない。もう力もない、こんな意識が覆って、賛美歌だってこんな歌い方じゃダメ。喉で声を出すんじゃない。ある合唱団の、ある方の歌い方を模倣、しっかり歌え!神をしっかりたたえよ!と自分を叱咤したとき、あの姿が浮かび、歌い方を模倣している自分。そして感謝に溢れて帰宅したこの1週間に、新たな細胞の刷新ともいうべき表れがあり、暮らしにハリができた。雑多、混迷、停滞にケリがつき、その雑多さ、混迷、停滞が強烈な光に照らし出されたように、見通し、これは見透しのほうなのだが、見透しが効き、すっきりと。こうすっきりすると、手足もよく動く、とこういうことになり、そして咳も翌々日の7日には完治。
旧約聖書のネヘミヤ記8章10節にある「悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」、これがほんとうにわかったのです。

 

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⏰6時11分更新

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きょうのことば『わたしは背負う』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しておりますので、ここでは1229日の年末感謝礼拝説教をおつなぎいたします。
2024
年12月29 日(日)
説教題 『わたしは背負う』(←クリック)
聖書朗読 
イザヤ書46章1~4節

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1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
2 彼はともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。
3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 

【神谷師による説教の要約】
 ここで言うネボとかベルというバビロンの神々が運ばれることは、それらが人を救うことのできない偶像にすぎないということである。
 また、バビロンの戦いで敗れて奴隷となった人々は、自分たちはもうおしまいだと思っていたが、神はその彼らが、実は生まれる前から、年を取って白髪になっても背負われ、運ばれているということを示す。
 
彼らを奴隷として支配し、偶像を拝んでいたバビロンが滅び、神に運ばれていたイスラエルの民が再び生まれた国に帰ることができた歴史は、今の私たちにとって、現代の偶像である貪欲(もっと、もっと、という思い)に支配されるのではなく、それらを足の下に踏んで歩かれるキリストに手を握られ、背負われていることを感謝して生きることである。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 ことしのお正月、元旦礼拝はズームで。元旦は家族が集合。昨日まで一歩も外に出ずに過ごした。貸していただいた聖書関連図書、いただいた俳句集、詩集などを読んで過ごす。やり残したことなどが過り胸のあたりがチクリとするのだが、神さまに思いを寄せると「恵みの高嶺を」という讃美歌が心の内に流れ、棘が解かされていった。このようにして老いるとも、神はまるで「何も心配はするな」と言い聞かせでもするように彼の地まで私を背負い運んでくださる、そう思われた。

1、恵みの高嶺(たかね)を
日毎に慕いて
祈りを励みて
我は登りゆかん
    
光と喜び
愛とに満ちたる
恵みの高嶺に
登らしめたまえ

2、疑い恐れの
谷間をうしろに
高嶺を目当てに
我は登りゆかん

光と喜び
愛とに満ちたる
恵みの高嶺に
登らしめたまえ

3、狭霧(さぎり)の
彼方(かなた)は
輝く青空
浮き世を離れて
我は登り行かん

光と喜び
愛とに満ちたる
恵みの高嶺に
登らしめたまえ

4、険しき山坂
疲れもものかは
ハレルヤ歌いて
我は登りゆかん

光と喜び
愛とに満ちたる
恵みの高嶺に
登らしめたまえ




 

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※このページの更新を終え、カーテンを開けたところ、強烈な朝の光がまさに出でんと。すばらしいのでこの瞬間を追加しておきました。

6時58分更新

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新年おめでとうございます! 元旦礼拝『見よ、わたしは新しいことを』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

           新年おめでとうございます!

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2024年元旦 (水)
説教題 『見よ、わたしは新しいことを』(←クリック)
聖書朗読 イザヤ書 43章16~21

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16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
17 戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。
18 先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
19 見よ。わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。

 

ーブログ管理人のひとりごとー
 元旦礼拝には自宅にいてズームでの参加となった。
イスラエルの民は400年もの間エジプトに滞在し、使役、虐げに耐え、そしてバビロン捕囚の時代は70年間、底辺を強いられた途方もなく長い時間。しかし神の約束の時が訪れる時、神は、誰も妨げる事のできない大きな力を以って民を引き出されるという。「見よ。わたしは新しいことを行う」と神は言われる。「今、それが芽生えている」と神は言われる。ことしの大きな希望、励ましとなった。

 

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⏰2日16時28分更新

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