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きょうのことば『そこに見えたのはイエスだけ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年11月10 (日)
説教題 『そこに見えたのはイエスだけ』(←クリック)
聖書朗読 
ルカの福音書 9章28~36節

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28 これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29 祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、
31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。
32 ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。
33 この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。
34ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。
35 すると雲の中から言う声がした。「これはわたしが選んだ子。彼の言うことを聞け。」
36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

【神谷師による説教の要約】
 山上での祈りのうちにキリストは、天上の栄光の姿に変わられ、先に弟子たちに話した「神の国を見る」と約束したことを実現され、ご自身が持つ本来の姿を彼らに垣間見せられた。
 弟子のペテロが、そこに現われたエリヤやモーセを見て「幕屋を三つ造りましょう」と話したのは、自分にとってのすばらしい時をいつまでも、そのままにしておきたいと思ったからである。
 また、律法の授与者であるモーセと、預言者の代表ともいえるエリヤが語り合っていたことが、キリストの十字架だったことは、「律法と預言者」と呼ばれる聖書が指さしていることが、キリストの十字架による救いであることを示す。
 聖書を通してこの十字架に辿り着くなら、それは聖書の言いわんとするメッセージを正しく受け取った証拠である。


 

―ブログ管理人のひとりごとー
 先週、先々週と熱はなかったけれども、治ったかなと思うと「まだおります、この通り」と気道から反骨をむき出してくる咳と、格闘しても仕方がないので、できるだけ胸や喉への振動を和らげるように心中を平静に保ちながら迎え、できるだけ穏やかに飛散を押さえながら過ごす。家の中にいてばかりでは運動能力も衰えようと、今紅葉真っ盛りのはずの盛岡城跡公園へ。写真がそのときの一枚。白いコートのうしろ姿が主人です。もう互いが互いの足手まといになることを恐れるというよりも、極力そうならないように努力しなければならない齢となり、できるだけ一日に一度は歩くことを心がけている。
 私はといえば、この2週間の間、心の中に讃美歌が通ってくれていた。讃美歌も時として一つの人格を以て、まるでカウンセラーのように様々な心の状態に対応し、心の内に旋律を流してくれる。これも神さまからの賦与。この2週間の、そしてこの文字を打ち込んでいる今も心に流れる讃美歌は、それは「めぐみの高きね」。2週間以上はげましてくれたこの曲を是非お聴きください。
 しかしユーチューブにはいくつも音源が出ていますが、この曲にはこれだと思われる音源にはなかなか当たりません。甘すぎたり、澄明さに欠けていたり、清々しさが今一つであったり。すっくと立ちあがっている感じがしなかったり。なら自分が歌ってみなさい、といわれますと、それも怪しいので、どれかで。神さまがほんとうにお喜びになる歌を聞くことは一生叶わないかもしれないとも思います。
 ただ心に流れている旋律には何かそういう技術的なことへのこだわりは湧かないのです。これが不思議です。
 今朝5時過ぎにTVを付けましたら、いつも日曜日のこの時間帯に点ける事は無いのですが、なんとなく点けると、宮沢賢治の「春と修羅」。真実相、修羅、この二つの仏教用語が、まるで積木のコマ二つのようにコロンと転がり込んできました。これを十字架の前に持ち出すこと、そして十字架の血がこれらすべてをきよめる力があると信じる信仰を持つこと、賢治がそこに至らなかったかどうか、限りなく近いところにあって届き得なかったのではないかという思いもしたのですが。
※更新し終えてから、それも食事時に、はたと気づきました。神さまは一級の芸術品をお望みかどうか。音楽を聴いて、ここはこうじゃない、ここも違う、などと思っているのは自分であり、神の求めではない。神の求めるところは悔い改めた魂。この魂をもって紡がれる、演奏される音楽であるなら、神さまは一切を不問に付して受け入れてくださる。肝心なのはこのこと。訂正します!というわけでYouTubeの中にも神様が聴いて微笑まれる演奏はあるはずと思い直したことでした。

 

インマヌエル秋田キリスト教会  https://localplace.jp/t100303888/
インマヌエル盛岡キリスト教会 https://sites.google.com/view/igm-morioka/

  

⏰6時50分更新

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