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2024年11月

きょうのことば『21世紀の宣教~それでも宣教師が遣わされる理由』-日本福音同盟總主事 岩上敬人牧師の説教-

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2024年11月17 (日)
説教題 『21世紀の宣教~それでも宣教師が遣わされる理由』ー宣教聖日説教ー(←クリック)
聖書朗読 
使徒の働き 8章4~5節

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    岩上敬人先生

4散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
5ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 このブログはあくまでも個人ブログ、宣教地について云々するのは大逸れているとさえ思われるのですが、つまり一信徒の自分と宣教師の先生方とは桁が違い過ぎると感じているのが本音。しかし自らの器如何に関わらず祈ることはできる、赦されることは感謝です。
 私が直接にお会いしたことがあるのは、ケニアのテヌウェク病院に宣教師として派遣されている蔦田就子先生。直接に現地のお話しを伺い、当地の民族衣装の試着をさせていただいたことがある。
 現地での医療活動の困難さ。スタッフが足りない、医療設備が足りない、就子先生自身、昼夜問わずの呼び出しが頻繁にあるといった状況。苛酷な勤務なのだ。しかしそのような状況下でも主を見上げ、救いに与る魂が与えられ、また祈り続けられている。
 自分が米粒ほどの一助でしかないとしても、それにしても目を覚ましていなければと思わせられたことです。

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⏰5時38分更新

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きょうのことば『そこに見えたのはイエスだけ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年11月10 (日)
説教題 『そこに見えたのはイエスだけ』(←クリック)
聖書朗読 
ルカの福音書 9章28~36節

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28 これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29 祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、
31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。
32 ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。
33 この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。
34ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。
35 すると雲の中から言う声がした。「これはわたしが選んだ子。彼の言うことを聞け。」
36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

【神谷師による説教の要約】
 山上での祈りのうちにキリストは、天上の栄光の姿に変わられ、先に弟子たちに話した「神の国を見る」と約束したことを実現され、ご自身が持つ本来の姿を彼らに垣間見せられた。
 弟子のペテロが、そこに現われたエリヤやモーセを見て「幕屋を三つ造りましょう」と話したのは、自分にとってのすばらしい時をいつまでも、そのままにしておきたいと思ったからである。
 また、律法の授与者であるモーセと、預言者の代表ともいえるエリヤが語り合っていたことが、キリストの十字架だったことは、「律法と預言者」と呼ばれる聖書が指さしていることが、キリストの十字架による救いであることを示す。
 聖書を通してこの十字架に辿り着くなら、それは聖書の言いわんとするメッセージを正しく受け取った証拠である。


 

―ブログ管理人のひとりごとー
 先週、先々週と熱はなかったけれども、治ったかなと思うと「まだおります、この通り」と気道から反骨をむき出してくる咳と、格闘しても仕方がないので、できるだけ胸や喉への振動を和らげるように心中を平静に保ちながら迎え、できるだけ穏やかに飛散を押さえながら過ごす。家の中にいてばかりでは運動能力も衰えようと、今紅葉真っ盛りのはずの盛岡城跡公園へ。写真がそのときの一枚。白いコートのうしろ姿が主人です。もう互いが互いの足手まといになることを恐れるというよりも、極力そうならないように努力しなければならない齢となり、できるだけ一日に一度は歩くことを心がけている。
 私はといえば、この2週間の間、心の中に讃美歌が通ってくれていた。讃美歌も時として一つの人格を以て、まるでカウンセラーのように様々な心の状態に対応し、心の内に旋律を流してくれる。これも神さまからの賦与。この2週間の、そしてこの文字を打ち込んでいる今も心に流れる讃美歌は、それは「めぐみの高きね」。2週間以上はげましてくれたこの曲を是非お聴きください。
 しかしユーチューブにはいくつも音源が出ていますが、この曲にはこれだと思われる音源にはなかなか当たりません。甘すぎたり、澄明さに欠けていたり、清々しさが今一つであったり。すっくと立ちあがっている感じがしなかったり。なら自分が歌ってみなさい、といわれますと、それも怪しいので、どれかで。神さまがほんとうにお喜びになる歌を聞くことは一生叶わないかもしれないとも思います。
 ただ心に流れている旋律には何かそういう技術的なことへのこだわりは湧かないのです。これが不思議です。
 今朝5時過ぎにTVを付けましたら、いつも日曜日のこの時間帯に点ける事は無いのですが、なんとなく点けると、宮沢賢治の「春と修羅」。真実相、修羅、この二つの仏教用語が、まるで積木のコマ二つのようにコロンと転がり込んできました。これを十字架の前に持ち出すこと、そして十字架の血がこれらすべてをきよめる力があると信じる信仰を持つこと、賢治がそこに至らなかったかどうか、限りなく近いところにあって届き得なかったのではないかという思いもしたのですが。
※更新し終えてから、それも食事時に、はたと気づきました。神さまは一級の芸術品をお望みかどうか。音楽を聴いて、ここはこうじゃない、ここも違う、などと思っているのは自分であり、神の求めではない。神の求めるところは悔い改めた魂。この魂をもって紡がれる、演奏される音楽であるなら、神さまは一切を不問に付して受け入れてくださる。肝心なのはこのこと。訂正します!というわけでYouTubeの中にも神様が聴いて微笑まれる演奏はあるはずと思い直したことでした。

 

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⏰6時50分更新

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きょうのことば『よみの門もそれに打ち勝つことはできません』―召天者記念礼拝―インマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教

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2024年11月3 (日)
説教題 『よみの門もそれに打ち勝つことはできません』―召天者記念礼拝―(←クリックしてお聴きください)
聖書朗読 
マタイの福音書 16章13~20節
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13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者のひとりだとか言っています。」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼らに答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血脈ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは、天においてもつながれて、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

 

【神谷師による説教の要約】
 キリストが弟子たちに向かって、ご自分が何者であると理解しているかを質問すると、16節で「あなたは生ける神の子キリストです。」と語り、人々が、キリストを神の言葉を託された代弁者と理解したのに比べ、弟子たちはキリストを直接天から下られた神の子、つまり神ご自身と頷いていた。
 それは「あなたは私にとって救い主です」との個人的な応答、告白であり、私たちの生まれつきや、経験や観察からでは捉えられない理解であって、上から与えられたものだといえる。 
 キリストは、その告白に対して18節にある「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」と言われ、それは「よみの門」私たちすべてを支配している「死の力」さえ打ち勝つことができないものだ、と大胆に宣言された。
それは、ちょうどキリストが十字架に架けられて、墓に納められ、人の目にはみじめに死んでしまったように見えながら、三日目にその墓を破ってよみがえられ、今も生きているように、たとえ人は死を迎えることがあっても、キリストを「救い主」と告白する者は、同じように、よみがえりの日を迎える希望があることを意味する。
 人がどのような終わり方を迎えるにせよ「死は終わりではない」という希望を持って私たちに先駆け、ひとあし先にそれぞれの人生をまっとうされた方々を偲び、その足跡に倣いたい。


 

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 この日3日は召天者記念礼拝。皆様で、すでに天に召された方々のお顔を写真に拝見しながら、それぞれの方々の在りし日を偲んだ。追憶はこの年2月に亡くなられたT兄が中心。T兄の多くのご遺族で会堂がいっぱいになり、広報担当でもない私が写真を撮ろうにも、動きを取りかねたことであった。個人的なお付き合いはT兄のお宅にお邪魔しお茶をいただいたこと。なぜかそのときの紅茶がとても美味しかったこと。専門店に入っても、なかなかほんとうに美味しい紅茶にはあたらないけれども、このときの一杯はなぜか忘れられない。明朗で闊達な奥様の笑い声。癒されたひと時であった。教会学校教師、役員、聖餐式用器具の製作と、温厚な横顔と共に思い出される。
 そして今年の4月に亡くなられたI兄の奥様が夫への真実な想いを語られた。國光牧師夫妻が引退された後に、教会堂管理を自ら進んで引き受けられた方。今は奥様が毎礼拝のズームの接続やら週報の印刷などの他、会堂管理を引き継いでおられる。
 故人の中でも、特に私の記憶に残っているのは、2004年に亡くなられたY兄。この方は重度のリウマチであり、車いすを用いての暮らしだった。しかし屈することなく、というよりも、そのような暮らしをごく自然に受け入れながら税理士の試験を突破。信仰も気負うところなくこれも自然体。そこに空気があるなら息をしよう、そこに神がおられるなら私は信じるというふうでらした。そしてこの方が私に教えてくださったことは人を差別してはいけないということ。自分が差別されたとか疎外されたといったことは一度も口にしたことはなかったが、人を差別してはいけない、このことだった。
 この方は一人暮らしだった。この日の説教、


とここまで書いたところで、夕べわが家、じいじ、ばあばの家にお泊りした孫が起き出し、そちこと探訪を始めている。残念ながらここまで、どんと晴れ!です。尻切れトンボですみません! 

  

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⏰6時半更新

 

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きょうのことば 『弱さの中で、弱い者と共に主に仕える』ーインマヌエル綜合伝道団 フィリピン宣教師 豊田常喜先生の説教ー

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2024年10月27 (日)
説教題 『弱さの中で、弱い者と共に主に仕える』(←クリック)―宣教礼拝―
聖書朗読 列王記 第一 17章7~16節

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宣教師 豊田常喜 先生
7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。
8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」
13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」
15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。

【説教のポイント】(今日の週報から)
1、主のことばへのエリヤの信仰と神からのチャレンジ
2、弱々しいやもめへのエリヤの信頼
3、弱き者(やもめ)として主に仕える

【黙想のための質問】(今日の週報から)
1、もしあなたがこの弱々しいやもめだったら、神のことばやエリヤの要求にどのように応答しますか。
2、最近、あるいはコロナ禍で、このような消極的な感情を経験しましたか。
3、この望みのない状況の中で、あなたは神のことばにどのように応答したいですか。
4、エリヤ(あるいは神様)がこの弱々しいやもめを信頼し、イエス様が心もとない弟子たちを信頼したように、神様(イエス様)はあなたを信頼していることをどう思いますか。
5、神のことば(御心、宣教)がそんな私たちをとおして、この世で成就する(果たされる)ということをあなたは信じられますか。どうしてですか。

―ブログ管理人のひとりごとー
 きょうは宣教礼拝。司会は神谷光一師、説教はフィリピンから帰国中の宣教師豊田常喜先生でした。秋田教会からの配信です。
 今回の説教から「あなたの神、主は生きておられます」と信仰告白しつつも、自らの内には、神に差し出していないいくつかがある。これはちょっと自分の判断で思うようにさせていただきたい、それが時間であったり友人関係であったり、今はもう執着がなくなったが文学のことだったこともある。しかし一つ手放すことで寧ろ自由を獲得できたことがある。なけなしの粉と油を差し出したやもめ、彼女はその先に尽きない粉と油を手に入れたのだが、彼女が手に入れたのは自由。あるか無いかに一喜一憂することがない、一事からの束縛を解かれた在りように導かれたのだと説教を聴きながら思った。これを失ったら終わりじゃないか、いいや、神は生きておられる。この決断によって神からの解決が来る、そう思われた。
 それにしても、多くの困難に晒されながらも、尚現地の方々に福音を絶えさせず労しておられること自体に、これこそ神の奇蹟ではないかと私には思われた。宣教というと、同じ教団にあっても、異次元、海外、はるか彼方の働きと思われていたが、帰国され身近な講壇からのお話しに接すると、宣教の大変さもより現実として受け止められた。

 

インマヌエル秋田キリスト教会  https://localplace.jp/t100303888/
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6時17分更新

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