きょうのことば『天からパンを降らせ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー
2024年9月8 (日)
説教題 『天からパンを降らせ』(←クリックしてお聴きください)
聖書朗読 出エジプト記 16章1~12節
1イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
2 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。
5 六日目に彼らが持ち帰って整えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」
6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、
7 朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」
8 モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主い対してなのだ。」
9 モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」
10 アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
11 主はモーセに告げられた。
12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」
【神谷師による説教の要約】
イスラエルの民が「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と文句を言ったのは、エジプトを出て後、荒野を前に、自分たちに何の食糧もないことに気づいたからである。
しかし、神は生きるすべのないはずの荒野で、毎朝、天からパン(マナ)を降らせ、民を養い続けた。
それはかつてエジプトの奴隷として、欲望に支配されていたイスラエルの民に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主のみ口から出るすべてのことばで生きる」ことをわからせ、神に養われる約束の民として、整えを与えるためであった。
現代のマナである聖書の言葉もまた、同じ恵みを与えることができる。
―ブログ管理人のひとりごとー
この回の説教からの教訓、といえばいかめしい感じになるけれども、とにかく人はぶつぶつ言いたくなる生き物なんだ。イスラエルの人々でさえも。しかし神さまは夕暮れには肉、朝にはパンを、マナを与えられ、選民としてイスラエルの人々を整えてくださったのでした。
正直なところ、私には神さまの恵みを何とかお証ししたいといった想いがいまいち足りないと自覚している。ところが事ごとに神さまは方策をもって私を信仰の道に踏みとどまらせた、これは自分を振り返るときに、いつも実感するところ。
私の側から言えば、これまで自分が接してきた教役者、或いは、教会のお一人おひとりの真実さが自分を踏みとどまらせ、そして今は直接に神のことばが私を教え諭してくれている。
礼拝のとき、献金をしていただくために皆様のあいだを回ることがある。この係は持ち回りなのだが。私は集め歩きながら、「このお金はほんとうのほんとうの浄財だ!」。この教会には所謂社会的なVIP待遇を受けているような方はいない。それぞれに社会的な役割を果たしながら、神と自分とのあいだで良心に示されただけの献金をしておられる。ついでにいうなら教会からの強制や無言の圧力もない。私は、袋に落とされていくお金、こういう金に感動したのだ。つまり欲望に塗れていない金だ。
そして、もう一つの感動は、昨日のこと。教会こぞっての一斉庭整備。これまで何人か有志が黙ってやってきては草をむしったりしていたのだが、それが間に合わなくなった。ある人が何とかしないと、と。シルバー人材さんを頼むかという声も出たが、よし、みんなでやろう!ということになった。それぞれが忙しいのだ。どうしても参加できない方の事情はどれも頷ける。参加できる人たちで。実は教会始まって以降50年間は会堂管理、庭の整備は國光牧師夫妻がすべてなさっていた。自分たちでやることになって、黙ってなさってこられたそのご苦労がわかるのだけれども。何れ作業当日、私は8時から10時まで、私は10時から昼まで、といった時間の切り取りで、8 人が集合。教会にある道具、皆さま持参の剪定ばさみ、買ってきた方もあったが、鋸、草取り鎌、草刈り機まで登場。いつの間にか裏にたわわに実っていた山ぶどうを5キロも収穫しただろうか、ひろ子牧師在任中は、これで聖餐式に用いる葡萄液を作っておられたのだが。こんど結婚される若い姉妹が広島におられるひろ子先生にスマホから電話し、葡萄液の作り方を聞いていた。フェンスにからまったアケビや蔦を刈り払い、目立たない裏の一角で自由を謳歌し伸びきっていたハルジオンかヒメジオン、よく見わけもしなかったが草刈り機で一気に。まだまだ空に向かって伸びたげな槿も気の毒ながらちょっと遠慮いただいて詰めていただき、長く伸びた紅葉のひこばえも、先だってお証しに講壇に立たれたK姉妹のご主人、まだ受洗はしていないけれども、教会にいらしては演奏に参加くださり、またきのうも脚立に上がって、私がやりかねた紅葉のひこばえをきれいに刈り取り、屋根の高さの雨といを伝ってガンガン伸び始めた葡萄の蔓を払い、ここまでと、蔓にキリを付けてくださった。45リットルのゴミ袋に、姉妹方が刈り取られ堆積した枝葉をぎゅうぎゅうと詰め込む。たまに尖った枝先で袋が破れるけれども、中身がこぼれ落ちなかったのは幸いだ。緑は貴重だけれど、教会堂が鬱蒼と幽霊屋敷になるようなことだけは避けたい。このぎゅうぎゅう詰めもたぶん許されるだろう。自分の持ち場で顔をあげると、いつの間にか地面にはびこっていた草は一斉に姿を消し、駐車場の庭が風通しよく明るくなっっていた。犠牲になったアケビの実一個、カラスウリの実一個、その実の青さががなぜか今も目に焼き付いている。
このような説教を毎週耳にし、このような教会員の皆様に接していると、若干胡散臭い私までもが、いつの間にか雲霧が浄化されてしまっているのです。
写真は住まいの近くにあるカラタチの実です。間もなく黄金色になるでしょう。山田耕筰が空腹にこの実を食べたとどこかで読んだような。
ナビも知ってる秋田教会の住所 秋田県秋田市外旭川字神田519-7
ナビも知ってる盛岡教会の住所 盛岡市大館町12-26
⏰6時14分更新
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