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2024年9月

きょうのことば『汝は我が冕冠(かんむり)なり』ー前インマヌエル盛岡キリスト教会牧師・國光勝美先生の説教ー

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 先週はインマヌエル盛岡キリスト教会50周年記念聖日礼拝が持たれました。この日のために、盛岡教会では、広島県呉市から盛岡で50年神さまに仕えられた國光勝美牧師、ひろ子牧師をお招きしました。午前の礼拝を勝美牧師が、愛餐会を挟んで、午後にはひろ子牧師が会衆席と同じ高さで、病から回復した経緯などをお証しくださいました。


2024年9月22 (日)
説教題 『汝は我が
冠(かんむり)なり』(←クリックしてお聴きください)
聖書朗読 イザヤ62章 1~5節

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50周年の説教をくださる國光勝美先生

1 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために沈黙はしない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
2 そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。主の御口が名づける名で。
3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。
4 あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。
5 若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。


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 盛岡を去るときには「次に皆様とお会いするのは天国でになると思います」と挨拶されたひろ子牧師。それが定期的な検査でも癌は見られなくなったと、ほんとうにお元気なすがたで盛岡に来てくださいました。
 この日のお昼は愛餐会、持ち寄り会なのですが、皆さまがテーブルに並びきれないほどのお料理を作って来られたその中に、ひろ子牧師が盛岡在任中によく作られていたチーズと漬物を巻き込んだお寿司が並んでいました。私はてっきり会員のどなたかがひろ子牧師に敬意を表して同じものを作ったのだと思った。ところが、宿泊されたS兄宅には調理器具があったのでしょう、この日の朝にひろ子師が作られたと知り、もてなされる側の方が自ら作って持参されたのに驚いたのと、これはほんとうにほんとうに体力も回復されお元気になられたのだと得心した次第でした。

 

ーブログ管理人のひとりごとー
 今回國光先生方に宿泊を提供されたS兄妹はおふたり揃って一級建築士となられ、ふたつの教会建設に多大な貢献をされた方、50周年を思う時にその鋭く突き抜けた信仰と共に銘記されるべき方々。しかし書くとS兄妹から「お一人おひとりが神さまの宝、個人を書くならイエスさまを書くべき」と叱られそう。叱られるでしょう。叱られます。たしかに今回も思ったけれども、皆さまの懸命さ、ひたむきさ、故人となられた方々も尊敬できる方々です。この教会を去って行った方々もありますが、これはどこにでもあることと思っています。今現在集っておられる方々、それぞれに課題を持ちつつも、一旦何かに取り組もうというときには一致団結、それはイエス・キリストを見上げてということなのですが底力を発揮する。私は第一号の受洗者ですが、実は私はこのような方々の姿に連れられての50年であったともいえるのです。


㏶には神谷光一牧師の司式で、生まれたときからこの教会で育まれた姉、また結婚を機に転入された兄の結婚式が持たれました。

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ナビも知ってる秋田教会の住所 
秋田県秋田市外旭川字神田519-7
ナビも知ってる盛岡教会の住所 盛岡市大館町1226

 

⏰6時11分更新

 

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きょうのことば『祭司の王国、聖なる国民』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

インマヌエル盛岡キリスト教会 祝50周年 !

 今日おつなぎする説教は先週15日の神谷光一先生になりますが、今日22日はインマヌエル盛岡キリスト教会の50周年を記念する聖日礼拝が持たれます。講師は50年間盛岡に生涯を捧げられた、午前には國光勝美先生、午後には國光ひろ子先生が講壇に立たれます。この説教は来週におつなぎしますが、ユーチューブの方には1日、2日後に入ります。
 かつて盛岡で説教くださった両先生の思い出の写真を感謝とともに掲載いたします。

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2024
年9月15 (日)
説教題 『祭司の王国、聖なる国民』(←クリックしてお聴きください)
聖書朗読 
出エジプト記 19章1~9節
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1 エジプトを出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。
2彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。
3モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。
8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。
9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。



【神谷師による説教の要約】
 神がイスラエルの人々に向かって「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」とは、彼らが奴隷のエジプトを出るため、神がすべてのことをしてくださったことを表している。
 また十戒とは、単なるルール厳守の目安ではなく、私たちの心に神を愛し、隣人を愛することを求める、との二つに要約できる。
私たちがそこに向き合う中で心に感じる罪に対して、その罪を贖い、解決を与えるために十字架にかかってくださったキリストのところに持っていくことこそ、聖書が目指す十戒(律法)の目的、ゴールである。

―ブログ管理人のひとりごとー
人の50年。寿命が延びたとはいえ働きという視点で考えるとこれは一生。この膨大な時間を盛岡の伝道につぎ込んでくださった國光勝美・ひろ子牧師。私はその第一回の受洗者でした。「ここは他のサークルや集会、会議の会場などとは違う」。会堂への階段を上りながら、何か厳粛な空気に打たれた50年前が今まざまざと思い返されています。後で知ったことは、その会堂で一人座し祈っていたのは応援の神学生と知りました。そのときおそらく全国にあるインマヌエルの教会が盛岡のこの日の特別伝道集会のために祈っていたのです。
 私以前に既に信仰を持たれたごKご夫妻がいらっしゃいました。9月15日の洗礼当日、なぜか川村襄牧師先生が最初に私に洗礼を授けたのでした。それがために私は盛岡教会の第一号受洗者となりました。ほどなくKご夫妻はご家族の反対などに遭い、教会にはいらっしゃらなくなりました。長らく行方が分からなかったこのご夫妻の墓地がどこにあるのかを知ったのは、國光牧師方が引退され盛岡を去るというその墓参のときに、信徒がその墓地で偶然にもKご夫妻のお墓を見つけたのでした。
 よくイエスさまを宣べ伝えようと諭されますが、開拓伝道を預る牧師方のご苦労、それは私のような至らない信徒の存在にも理由はあるわけですが、その他にも幾多。それぞれに不自由のない愛情に満ちたご家庭に育った両先生のその始めは、まさしく聖書のみを携えての伝道でした。テーブルもなく何かの箱を代用していたかと思います。電卓の電池が無駄に流れないように気を使われていた場面も。自転車の後ろに万灯を載せて、今思うと明治大正の伝道そのままかとも思われるのですが。盛岡から北上の信徒宅に自転車で往復されたときもありました。やっと手に入れた軽自動車は、座席の固定部分が破損しチェーンで吊ってありました。底には穴が開き地面が見えるという始末。これをいくらで購入したかを尋いたことはありませんでしたが、今思うとよく車検が通ったものと思います。当時の車検は甘かったのでしょうか、謎です。こんな具合でしたから、ひろ子牧師の家計の切り盛りは血に汗だったのでは。しかしいつでも神さまに信頼を置き祈って暮らされていたようでした。高齢の寝たきりの信徒の方のシーツ換えをなさっていた時期もありました。
 教会は狭く、お子さま方、今は立派な大人になられていますが、非常に窮屈な思いをされていたでしょう。信徒の数も増え、さあ、会堂を建てようと皆様が動き出されたときに、私は内心、えっ、これは大変!いったいこの人数でどうやって?と思ってしまった、つまりはその程度の信者だったといえるのですが。皆様が力を合わせようと決断されたところに、不思議なように「この教会に入会させてください」「そうですか、教会建設が始まるのですか、ならば喜んで協力させていただきます」という方が現れたのです。不思議でした。皆様が精いっぱいの協力をなさいました。教会建設に乗り出すと牧師の寿命が10年縮むと言われているそうです。それほどの圧がかかる。しかし会堂は竣工、それがこの写真にある教会堂です。
 教会周辺がまだまだ田畑であった時代、クリスマスに真っ暗な雪深い道を、クリスマスに教会に来ることが出来ない方々を訪問するキャロリングで、ひろ子牧師と手をつないで真っ白な道を歩いたことがありました。
 國光夫妻が引退されるきっかけとなったのは、ひろ子牧師が膵臓癌。余命幾許と診断され、本部との相談で引退が決まったのでした。盛岡最後のとき「今度皆様とお会いするのは天国でになります」とご挨拶。盛岡駅を発つときに新幹線のデッキに立たれたひろ子先生を拝見しながら、内心ひろ子先生が亡くなられたら広島まで行けるだろうかとの思いが過りました。しかししかし、広島に落ち着かれて最初の情報は、ひろ子先生の癌が消えていたというお知らせでした。いったいどうすれば間質性肺炎と闘い癌細胞に苦しめられていた人がたちどころに、そんな細胞は、病は検査のどこにも出ていませんでしたと言う結果になるの?これはまったく不思議な現象でした。わかりません。今もって。
 何れ月曜日まで國光先生方は盛岡に滞在してくださいます。よく祈られた鞍掛山にもご家族、いつも盛岡教会のチラシなどを作成くださったA姉、糸魚川で國光師のお孫様とともに職場でもよい証しを立てておられるY兄とともに登られる予定になっています。鞍掛山の道を國光師は「パッサカリアの道」と名づけられました。この道を書いたエッセイはラジオの音楽番組で全国に放送されました。
 盛岡時代、不出来でご心配をおかけした信徒の償いにと、50年のうちのほんの一幕を書かせていただきました。
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パッサカリアの道



 


ナビも知ってる秋田教会の住所
 秋田県秋田市外旭川字神田519-7
ナビも知ってる盛岡教会の住所 盛岡市大館町12-26

6時40分更新

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きょうのことば『天からパンを降らせ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年9月8 (日)
説教題 『天からパンを降らせ』(←クリックしてお聴きください)
聖書朗読 
出エジプト記 16章1~12節
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1イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
2 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。
5 六日目に彼らが持ち帰って整えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」
6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、
7 朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」
8 モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主い対してなのだ。」
9 モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」
10 アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。

11
主はモーセに告げられた。
12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」

【神谷師による説教の要約】
 イスラエルの民が「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と文句を言ったのは、エジプトを出て後、荒野を前に、自分たちに何の食糧もないことに気づいたからである。
 しかし、神は生きるすべのないはずの荒野で、毎朝、天からパン(マナ)を降らせ、民を養い続けた。
それはかつてエジプトの奴隷として、欲望に支配されていたイスラエルの民に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主のみ口から出るすべてのことばで生きる」ことをわからせ、神に養われる約束の民として、整えを与えるためであった。
 現代のマナである聖書の言葉もまた、同じ恵みを与えることができる。

―ブログ管理人のひとりごとー
この回の説教からの教訓、といえばいかめしい感じになるけれども、とにかく人はぶつぶつ言いたくなる生き物なんだ。イスラエルの人々でさえも。しかし神さまは夕暮れには肉、朝にはパンを、マナを与えられ、選民としてイスラエルの人々を整えてくださったのでした。

正直なところ、私には神さまの恵みを何とかお証ししたいといった想いがいまいち足りないと自覚している。ところが事ごとに神さまは方策をもって私を信仰の道に踏みとどまらせた、これは自分を振り返るときに、いつも実感するところ。
私の側から言えば、これまで自分が接してきた教役者、或いは、教会のお一人おひとりの真実さが自分を踏みとどまらせ、そして今は直接に神のことばが私を教え諭してくれている。
 礼拝のとき、献金をしていただくために皆様のあいだを回ることがある。この係は持ち回りなのだが。私は集め歩きながら、「このお金はほんとうのほんとうの浄財だ!」。この教会には所謂社会的なVIP待遇を受けているような方はいない。それぞれに社会的な役割を果たしながら、神と自分とのあいだで良心に示されただけの献金をしておられる。ついでにいうなら教会からの強制や無言の圧力もない。私は、袋に落とされていくお金、こういう金に感動したのだ。つまり欲望に塗れていない金だ。

そして、もう一つの感動は、昨日のこと。教会こぞっての一斉庭整備。これまで何人か有志が黙ってやってきては草をむしったりしていたのだが、それが間に合わなくなった。ある人が何とかしないと、と。シルバー人材さんを頼むかという声も出たが、よし、みんなでやろう!ということになった。それぞれが忙しいのだ。どうしても参加できない方の事情はどれも頷ける。参加できる人たちで。実は教会始まって以降50年間は会堂管理、庭の整備は國光牧師夫妻がすべてなさっていた。自分たちでやることになって、黙ってなさってこられたそのご苦労がわかるのだけれども。何れ作業当日、私は8時から10時まで、私は10時から昼まで、といった時間の切り取りで、8 人が集合。教会にある道具、皆さま持参の剪定ばさみ、買ってきた方もあったが、鋸、草取り鎌、草刈り機まで登場。いつの間にか裏にたわわに実っていた山ぶどうを5キロも収穫しただろうか、ひろ子牧師在任中は、これで聖餐式に用いる葡萄液を作っておられたのだが。こんど結婚される若い姉妹が広島におられるひろ子先生にスマホから電話し、葡萄液の作り方を聞いていた。フェンスにからまったアケビや蔦を刈り払い、目立たない裏の一角で自由を謳歌し伸びきっていたハルジオンかヒメジオン、よく見わけもしなかったが草刈り機で一気に。まだまだ空に向かって伸びたげな槿も気の毒ながらちょっと遠慮いただいて詰めていただき、長く伸びた紅葉のひこばえも、先だってお証しに講壇に立たれたK姉妹のご主人、まだ受洗はしていないけれども、教会にいらしては演奏に参加くださり、またきのうも脚立に上がって、私がやりかねた紅葉のひこばえをきれいに刈り取り、屋根の高さの雨といを伝ってガンガン伸び始めた葡萄の蔓を払い、ここまでと、蔓にキリを付けてくださった。45リットルのゴミ袋に、姉妹方が刈り取られ堆積した枝葉をぎゅうぎゅうと詰め込む。たまに尖った枝先で袋が破れるけれども、中身がこぼれ落ちなかったのは幸いだ。緑は貴重だけれど、教会堂が鬱蒼と幽霊屋敷になるようなことだけは避けたい。このぎゅうぎゅう詰めもたぶん許されるだろう。自分の持ち場で顔をあげると、いつの間にか地面にはびこっていた草は一斉に姿を消し、駐車場の庭が風通しよく明るくなっっていた。犠牲になったアケビの実一個、カラスウリの実一個、その実の青さががなぜか今も目に焼き付いている。

 このような説教を毎週耳にし、このような教会員の皆様に接していると、若干胡散臭い私までもが、いつの間にか雲霧が浄化されてしまっているのです。
 写真は住まいの近くにあるカラタチの実です。間もなく黄金色になるでしょう。山田耕筰が空腹にこの実を食べたとどこかで読んだような。


ナビも知ってる秋田教会の住所 秋田県秋田市外旭川字神田519-7
ナビも知ってる盛岡教会の住所 盛岡市大館町12-26

 

⏰6時14分更新

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きょうのことば『主があなたがたのために戦われ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年9月1 (日)
説教題 『主があなたがたのために戦われ』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 
出エジプト記 14章5~31節
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神谷光一牧師・美津子牧師
5 民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」
6 そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
7 選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの前戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いて行った。
8主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。
9 エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
10 ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろ迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。
11 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、
あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
12エジプトであなたに『われわれのことはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方がよかったのだ。」
13 モーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
14 主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」
15 主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。
16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。
17 見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らはあとから入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。
18 ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」
19 イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、
20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。
21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
23 エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入って行った。
24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
25 戦車の車輪をはずしてその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
26 主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」
27 モーセが手を海の上に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
28 水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
29 イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために、右も左も壁になっていた。
30 こうして主は、その日、イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
31 イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

【神谷師による説教の要約】
 神が奴隷のエジプトを出たイスラエルの民を、エジプトの軍隊に向き合わせたのは、イスラエルを支配していた力からの解放を知らせるためである。
 また、エジプトに追われるイスラエルの民の前で、海が分かれて道ができたことは、今の私たちにとってキリストの十字架が私たちと神との間にある架け橋となったことを意味する。
 また、追いかけてきたエジプトの軍隊が海の底に沈んだことは、これまでの失敗や罪の記憶に責められることからの解決は、神がしてくださるということを示している。
 私たちにはできない、罪とその支配からの解放を成し遂げられるお方に信頼したい。


―ブログ管理人のひとりごとー
 この日9月1日は、伝道礼拝。ユーチューブには説教ばかりではなく、盛岡教会のK姉が信仰を持ったいきさつも入っています。Kさんは、立て板に水のようにはお話しなさいません。だからこそその真実が心を打ちます。けさもそのお話が心に浮かんでおりました。


 説教で特に心に留まったことは、説教の要約にもあるように「これまでの失敗や罪の記憶に責められることからの解決は、神がしてくださる 」、このことです。
 学生時代に、まだ信仰に入る前のこと、コンピューターによる性格診断をしたことがありました。印字が出してきたのは「正義感が強く善悪判断がはやい」。そうか、私はそうなんだ。ところが、その後、現実の問題に直面したときに、行動にはいたらないまでも、ヨセフのように先ずはまっしぐらに正義を貫こうと思考したかというと、そう簡単にはいかなかった。信仰を持ってからは、人生の分岐点に立ったときには、そういう私をよくご存じの神さまが乗り出してきて、私のギアを切り替えた。前に「神さまは私の襟首をつかんでまわれ気味をさせた」という言い方をしましたが、まさしくそうでした。

 写真、今私が暮らす集合住宅では、大掛かりな大改修工事が行われておりますが、建物全体に足場が組まれ、この足場、建物の外回りを軽々と動き回り作業を可能にする優れもの。毎日しっかりとした作業員の方々が来ては、ひび割れ、タイルの破損チェック、シーリング、高圧洗浄、塗装を実に丁寧にやってくださっています。工事の関係で全戸網戸を外すようにとのお達し、ところが、この網戸はなかなか外せるものではない。安全性のこともあってそう簡単には外れないようにできてもいるのですが。ところがその道のプロ、現場の責任者の一人でもある方でしたが、まるで手品のように手順を踏みコツでスッスッと外し、6枚を一気に大型ビニールで包んで一室に格納 してくださいました。これを全戸に一定期間でやってのける、見事なものです。その工事のための足場ごしに待ち望んだ今朝の朝日を撮ってみました。

 


ナビも知ってる秋田教会の住所
 秋田県秋田市外旭川字神田519-7
ナビも知ってる盛岡教会の住所 盛岡市大館町12-26

 

⏰6時18分

 

 

 

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インマヌエル盛岡キリスト教会50周年記念 感謝特集

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きょうのことば『この儀式にはどういう意味が』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年8月25 (日)
説教題 『この儀式にはどういう意味が』(←お聴きください)
聖書朗読 
出エジプト記 12章21~37節

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21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。
22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
23 主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。
24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として、永遠に守りなさい。
25 あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。
26 あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、
27 あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。
28 こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
29 真夜中になったとき、主はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。

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その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。
31 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。
32 おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」
33 エジプト人は民をせきたてて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれがみな死んでしまう」と言ったからである。
34 それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。
35 イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。
36 主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
37 イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。

【神谷師による説教の要約】
 イスラエルの人々が奴隷のエジプトから出る夜、神のことばに従って、羊の血が塗られた家は、誰も死なずに災いが通り過ぎたことは、今の私たちにとって、キリストの十字架を信じる人は神がその罪を見過ごされることのひな型である。
その時に行った過越しの儀式を、これからも守るようにと言われるのは、彼らが神のみわざをいつも忘れないためであり、これが現代の聖餐式につながっている。
 一方、自分を神のように思い「私は主を知らない」という人に対して、私たちが聖書の約束に目を留め、信じて歩んでいくとき、私たちに関わる人々もまた、十字架のキリストによって救われるときが来る。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 この10号、これはパワハラか、なぜこんなに苛め抜く? 5時のニュースでは、この悪たれの動きが予想外、想定外なのも、温暖化の影響があるらしい。となると、ほんとうの悪たれはどこの誰? 温暖化に本気で取り組んでくれるリーダーが欲しい。神奈川にいる友だち、家の戸を開けると一面海だったという。一昨日夕方やっと水が引いたと。さらに深刻な例が全国に。もう自らにも直近と認識。
 脈絡なくもう争ってる場合じゃない、と。さまざまな思いはあるけれども、神との平和、そして人との平和、国と国との平和を神は望んでおられるはず。憎しみの連鎖、利害の壁を取り除くことがいかに難しいことか。 たぶん世の中に厳しさが増せば増すほどそれは難しくなるだろう。弱々しく細々とでも、神の願うところを歩みたい。歩めるように神に祈り求めていきたい。

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