きょうのことば『わたしがいのちのパンです』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー
2024年7月21 (日)
説教題 『わたしがいのちのパンです』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 ヨハネの福音書6章1~15節、22~35節
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについていった。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと魚二匹持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。 11 そうして、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって 来た。
24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行なうためには、何をすべきでしょうか。」
29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。 37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
【神谷師による説教の要約】
キリストが多くの人たちを前にして、弟子のピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」と尋ねたのは、キリストがどんなことでもできることを知らせるために、置かれた現状を確認させたのである。
そのような人々の必要を満たすために、そこにいた少年のお弁当(2つのぱんと2匹の魚)を用いたのは、ご自身の働きのために、私たちを「役に立つ者」として加えたいと願っていることが意味されている。
そうしたことの実現のために、キリストがご自分のことを「いのちのパン」と言われたのは、十字架を通してそのいのちが与えられるキリストを信じ、その約束である聖書を通して、いのちが与えられ、私たちがキリストに似た者と変えられてゆくことを示している。
―ブログ管理人のひとりごとー
けさは何を書こうか……、もうちょっと体裁のいいことを、もうすこし説得力のあることはないか、これが始まるとしまいには必ず考えあぐね、仕方がないきょうはこの欄は割愛、などということになる。ありのまま、ありのまま。自分以外の個人情報に関わることは書けないけれども、けさ、いま、心に浮かんだこと、脳裏を過ったことをつらつらと。
先週の半分は孫と一緒に過ごした。熱があるなどでお預かり。自分に孫がいなかったときには、携帯の待ち受けを孫の写真にしている方々の前で「孫を待ち受けにする人とは話したくない」と半ば冗談、半ば本心で言ったことがある。「人の喜びを喜びと」するべき立場にある自分。それが、平気でこんなことを言っていた。「あらら可愛いわね~」と、実際かわいいのだからそういって共に喜んでいればよいものを、である。口が悪いのか、心が悪いのか、たぶん心が悪いから口に出るのだ。ただ、ふつうのことばかり言っていたのでは一向に面白くない、という思いもすこしは働いている。
自分に孫が生まれ、その愛らしさ、これが未来永劫に続くかどうかは予測もつかないのだが、しかし生涯幸せであって欲しいと愛おしく思われるこの不思議。だけど言ってはならない、孫の話は。他の人にとってはたいくつなだけ、俳句、短歌、詩、エッセイの題材にはもはや書き尽くされてる。言えば陳腐なだけ、言ってはならない孫のはなし、と言いつつ臆面もなくひとくさり。孫が一つ動作するたびに「よいしょ」とことばを発するようになった。「よいしょ」。「ん?」。気付かされた。近頃は私が、孫を抱きあげるとき、物を持ち上げるとき、何か動作するたびに無意識のうちに「よいしょ」と思わず言ってしまっていたのだ。齢はかくせない!
それで気付いた。孫も神さまが私の周りに置かれている多くの鏡の中の一枚だと。
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