きょうのことば『聖霊によって証印を押され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一牧師の説教ー
2024年5月19(日)
説教題 『聖霊によって証印を押され』ペンテコステ講壇(←クリック)
聖書朗読 エペソ人への手紙 1章1~19節
1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
15 こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、
16 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
【神谷師による説教の要約】
今、キリストを信じる人の心に聖霊がいて下さることは、聖書に書かれている約束によって知ることができるが、弟子たちが初めて聖霊に満たされたペンテコステの際、外国語や異言(天国のことば)で話せるようになったのは、エルサレム、ユダヤとサマリア、地の果てに住むすべての人に福音が伝えられるため、ユダヤ人である弟子たちが、他国の人たちを理解し、受け入れられるようにするためであった。
また、聖霊が「保証」「手付金」であるとは、聖霊が将来天国で起きることを、私たちの心に前もって教えてくださることであって、その平安と喜びは、天上でなされている父、御子、御霊の永遠の交わりと同じ性質を持つものといえる。私たちが地上で出会う苦難に対し、この御国の保証を抱いて向き合いたい。
―ブログ管理人のひとりごとー
この日5月19日は、ペンテコステ礼拝でした。
聖霊降臨、信じたときに与えられる御聖霊。ふだんはこの存在を意識せず、自分のご都合次第でないもののように過ごした時期もある。しかし、人生伸るか反るかのとき、ここを取り違えると信仰からドロップしてしまうという局面に立ったときには、この聖霊様は俄然存在感を発揮、といってもそれは力ずくといった力ではなく、自分の存在の内に背後にすっくとその存在を示し、「これが道なりこれを歩め」と指し示すようにどう動くべきかを促してくる。もともと正義感、信仰の確信に決して優れている者ではない私が、いまだに「この道」にあり続けているのは、この聖霊というご存在の方向付けによると思っている。その時はなぜ? わからない、と思うときもある。人にはすぐには分からないときもある。しかし後になって、そうか、わたしにはこういう役目があったんだ、そうだ、これまでの様々を総合的に判断すれば、こういうあり方が自分に課せられている、これが私には妥当な人生なのだ、と分かることがある。いまの多くの方々の生き方には逆行するかもしれないが、自分に死にきること。自分に死に切ることによって何かを生かすことができる、一つには、そういう生き方もある。どんな生き方を選択するかは人それぞれながら、今、神の自分への静かな提案は、自己を虚しくし神の御顔を仰ぎ見ることにあると思われる。
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