音楽雑感
きょうは盛岡、18度になる。いよいよ待ちに待った桜開花か。クラシック倶楽部を聴くと、ちょうどピリオド楽器演奏。フォルテ・ピアノ川口成彦、トマシュ・リッテル、バロック・バイオリンの山縣さゆりさんらのちょっとした解説も。「18世紀オーケストラ」という名ははじめて聴いた。ショパンの「ポーランド民謡による幻想曲 」やら「演奏会用ロンド 「クラコヴィアク」」、これもどこかで聴いて、その時限りで自分の中では忘れ去っていたのではないか。これ、ショパンの曲ですが、と言われて、ああ、こんな曲も、と言ってしまいそう。やけに新しく、民族色の中でショパンの持つ詩情が動き身を投じてゆくような感覚に。18世紀オーケストラ、これが立奏。演奏の度に仕上がりが違ってくるとか。この方々でモーツァルトの交響曲40番、何回かコンミスが楽器から手を放して皆に促していたことは、ここではもっと音量を! だったろうか。しかしこれが当時の空気感。演奏された方々の年齢は高そう。それがかえって今の自分には共感をもって、ほとんど日常的に聴いていた30年も昔にさかのぼり、ちょうど子どもを隣に乗せた車窓から見た景色がただただ軽快に次つぎに移りゆくさまが浮かんでは飛び去っていく。
吹奏楽は一昨日であったか、音圧に曲が圧しつぶされたと感じたコンサート以来、わざわざ吹奏楽を聴きに行ったことはないけれども、楽器の音の出し方は声楽と似ている。歌うように奏するといった解説であったか、大井剛史さん指揮。吹奏楽は屋外で、と思っていたが、この解説でまた違った受容ができるように。
ファビオ・ビオンディの無伴奏バイオリンを聴いたのはいつであったか、ソナタは2番、パルティータは3番がよかった。
と、日々聴いているかに書いているが、最近は聴かない日もある。特に4月の6日からは腰痛に見舞われ、この痛みに圧されて4日間は安静に。イエスさまを信じていても病気になる時はなる。はたと静まってどこからか声が聞こえはしないかと耳を澄ますけれども残念ながら「お前だけは特別に今すぐに癒してあげよう」という声はどこからも聞こえてはこなかった。ただ気持ちを平らかにしたとき、この平らかに、というのがどういうことかというと、人は痛いとなると、「なぜこんなことに?」「そうだ、あれが原因だ」「あの用足しをしたからじゃないかしらん」と、おかしなことに何かを責めたり詰問したくなったりしてしまう。原因究明はだいじだけれども、他者を責める心境に傾き加減になる自分がある。そこで心を平らかに、なのだが。その時、すとんと心に落ちるように「今回は治る」という確信が心に通いほっとしたのだった。な~んだ、数日の我慢。
そして今日、主人のウォーキングポールを片方借りて、右手に持ちとつとつとコンクリートに、砂利道に、草地につきながら散歩。いつの間にか大きくなり過ぎたフキノトウ、しかしきれいな彩で葉っぱに陰影を落としている。ヒメオドリコソウの紫の小さな花とオオイヌノフグリの青い花の密生のあいだに3本のツクシが伸びていた。坂道を上がって見れば、廃屋の庭に並び枝を繁茂させるコブシの花の白さ。レンギョウの黄色の明るさ賑やかさ。枝にまぶされたかボケのまんまるな赤いつぼみ。全身を真っ赤な花で塗りこめた山茶花。今日中には開くであろう桜のはちきれんばかりの胸いっぱいの花弁。橋をわたり坂を下りる家の庭には、たくさんの紫のカタクリのくびれた花々。そちこちの庭に崖に肩を寄せ合うスイセンの群れ。そして交差点の角にはたくさんのムスカリ。
盛岡地方気象台はきょうついに標準木の開花を宣言した。春だ!ほんとうに春が来たのだ!
⏰17時32分更新
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