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2024年4月

きょうのことば 『だれが~隣人になった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2024年4月21(日)
説教題 『だれが~隣人になった』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 
ルカの福音書10章25~37節
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25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では私の隣人とはだれですか。」
30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエりコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った、
34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストのもとに来て尋ねた人の「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」との問いは、天国に行くにはどうしたらよいかということであり、そのための条件として、聖書に書いてあることを短くまとめると、あなたの持つぜんぶで神を愛し、そば近くにいる人を自分のように大事に、大切にするようにということだといえる。
 そのようにして、聖書を読み、その戒めに触れるのは、私たちが道徳の結果としての善人をめざすことが目的ではなく、そこで自分の内にあるものを知ることを通して、救い主であるキリストの必要を自覚し、キリストとともに歩む人生、事ごとに委ねる生涯へと進むためである。

―ブログ管理人のひとりごとー
 只今主人はTV観戦中。菊池雄星VS大谷翔平 。こちらはブログ更新中。
きのう近場を散歩しながら、黄砂がすこしはあるのかないのか、しかし穏やか。盛岡気象台への坂道は、終わりかけたスイセンやらサクラやら。タンポポの間には水色のスミレが鮮やか。辿る石段の傍らにはもうヤマブキが、ライラックが咲いている。平和だ。物音ひとつしない。近年造成された住宅地の区画は次つぎに埋まり、瞬く間に真新しい家が立ち並んでいる。それぞれの玄関先には、春の花々を盛り込んだプランターが。平和だ。この高台から見下ろす午後の陽を浴びる街のたたずまい。そんな光景に癒され寛いでいたとき、いっとき閉ざしていた扉が開いた。戦争、地震、災害、行き所の無い打ち捨てられた人たち。世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はあり得ないといった賢治を気取る気は毛頭ない。それでも涙が流れて仕方なかった。

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きょうのことば『七回を七十倍するまで』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教

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2024年4月14(日)
説教題 『七回を七十倍するまで』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 
マタイの福音書18章21~35節

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21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もうすこし待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32 そこで、主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

【神谷師による説教の要約】
 ペテロがキリストに「人が犯した罪を7回まで赦すべき」と尋ねた時、ペテロはそのように問う自分のことを正しい人だと考えていたが、キリストはそれに「7回を70倍するまで」と答え、人の罪を赦すことに終わりはないことを示された。
 そのようにして、自分に悪いことをした人を赦すことのできる理由とは、すべての人が神の前に等しくその罪を裁かれる立場にあり、そのためにキリストが十字架にかかって、自分も相手もともにその罪を赦された身であると知ることにある。
 相手の罪を赦さない思い」という牢獄につながれた相手と私を解放するために、キリストの十字架は立てられた。罪の解決の前に牢獄は不要である。

―ブログ管理人のひとりごとー
 冒頭の写真は盛岡市大通に買い物に行った帰り、もう夕方で陰っており、きれいな写真は撮れないなと思いましたが、桜があまりに見事なのでカシャリ。私にとっては、シーズン中最も見事な桜となりました。メディアが連日伝えてくれる桜だよりには、ワシントンも含めて日本全国の桜が映し出されますが、私が実際に目にし感嘆したのはこの桜。「ことしも桜を見ることができた」、そう思いました。
 帰りの舗道でのこと、私は自転車を引いて歩いていたのですが、この桜をちょっと振り返ったばかりにバランスを崩し、危うく二人並んだたぶんご夫婦だとおもいますが、そのご夫人の方に自転車を接触しかけました。咄嗟に「ごめんなさい! ごめんなさい!」と誤ったそのときに「ノー、ノー、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と手振り身振りで応じてくださったのですが、そのときの声の優しさ。むしろこちらを気遣う思いやりに溢れていたことに感動したのです。台湾の方かな、韓国の方か、それとも中国の方かな。私よりもお若いか同年代。人生はもう十分に積んでおられるだろう。突然発せられることばにその方のお人柄が。そしてどこの誰とも分からぬ相手を温もりで包むことができる。これがほんとうの教養であり国際共通言語であると私には思われた。その声の響きが今思い出される。


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6時40分更新

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音楽雑感

 諏訪内晶子さんのバイオリン、昨朝ひさしぶりに。といっても最初のベートーベンの小曲「ふたつのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲から」は聴き逃してしまった。聴かなかった曲を書いたって仕方なかろう、なのだが、一応ユーチューブに出ていたものを視聴。たぶん今聴かなければ二度と聴かないだろうという気がして。弦楽四重奏曲「春」の系列かと。弦の掛け合い。春を寿ぐおしゃべりという感じも。
 もう一曲、クライスラー編曲のパガニーニの曲「鐘」。クライスラーはアンコール曲としてよく演奏されるけれども、その甘味の効いた音色がなにか懐かしい気分にさせる。


 今朝はつのだたかしさんのリュート。我が世の春とも聴こえるエルガーの「威風堂々」の対極にある感じも。この番組は繰り返し観ているけれども、やはり共感するのは同じところ。
「この場所(美術館as it isーあるがままに)はもう夢の場所。ここで演奏ができるなんて幸せだと思いますね。手触りがあるもの。やっぱりこのすこし雑味があるといいますか、つるつるにしてないところ、壁でも何でも。手触りがあるというのはリュートの中にもあるんです。音に、2本の弦が完璧に1本に聴こえないところがあるんですね。そこがサワッてくる。サワリのある音楽というのは、ちょっとノイズが、いい音に対する感覚というのがちょっと。ヨーロッパの楽器の中に教わってくるものとはちょっと違う。むしろ民族音楽の中にあるサワリ。三味線のサワリとか琵琶のビンビンというそれだけでぞくぞくとするような音がいっぱいあるわけですよね。僕は歌は大好きなんですけど、歌うんじゃなくて喋る。ぼそぼそ喋るんですけど、喋ってるような音楽はいいなあと思う。リュートを弾いて喋る、こんどは音が作りだす、音が鳴ってるから聴こえてくる静けさみたいなとこが心にサワるんですね。」
 私は時々無性に琵琶が聴きたくなる。理由をうまくいう事ができなかったけれども、、確かに私は、つのださんいう雑味にざわっとしている。ざわつくこの感じに惹かれているのだ。


 「as it is あるがままに」。考え抜かれた設計、選び抜かれた植栽の庭も美しいけれども、手を掛けられずとも春には咲き出で、強い日差しにも堪え生き咲いている名も知られぬ花々、あるがままをそのままに生きている野の草花たちが愛おしく思われる近頃である。


⏰15時11分更新

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きょうのことば『見ないで信じる人たちは幸い』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

説教は1週間遅れでおつなぎしています。
2024年4月7(日)

説教題 『見ないで信じる人たちは幸い』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 ヨハネの福音書 20章24~31節

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24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 

【神谷師による説教の要約】
 トマスがよみがえったキリストを「見た」という弟子たちに向かって「見て、指を入れ、手を入れてみなければ信じません」と言った気持ちは、よみがえりのキリストを見たことのない、現代の私たちの思いを先取りしたものであり、そのキリストが、空になった墓を見せ、限られた人たちに現れたのは、人が見える者にではなく、神が約束されたことばを信じることで、ご自分との関係を持ちたいと思われたからだといえる。
 また、弟子たちが証しするキリストの十字架と復活は、世の中にはない、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びを私たちに与えると聖書は語る。
 この聖書のことばに触れ、信じるとき、時代を超えて、誰もがその喜びに与ることができる。

ブログ管理人のひとりごとー
 先週7日は腰痛で教会をお休み。腰かけているのも大変だった。ズームにも顔を出さなかったところ、心配したクリスチャンフレンドKさんから「ズームにも見えなかったので心配になって久しぶりにブログの方を見たら更新されていたのでほっとしました。」というメール。私は即座に「このブログ更新が途絶えるのは私が死んだときです」と。答えてから、何もあんな言い方をしなくても良かったものをとすこし悔やんだ。きょうは安静に務めた方がいいなと思いつつ、家の中であれば痛もうとも死ぬことはあるまいといつものように早朝に起きだした。かなりしんどくはあった。何、数分あれば終わる。堪えての更新だった。
 聖書からの引用部分はだいたい2、3日前に書き込んでおいている。そして「説教の要約」は礼拝の前日か礼拝当日に書き込む。更新するその日の朝に「ひとりごと」があれば付け足して、必ず更新するその日の朝に更新している。予約を使ったことはない。
 ただ今思うに、これもいつまでできるものか、たったこれだけの更新でも、ほんとうのところ健康が保たれ、意識が正常に保たれていてできること。また健全であってもパソコンがトラブルこともあるだろう。家族に何らかの事情が生じ、そちらを優先しなければならないこともあるだろう。と、ここまで書いてはたと、なぜそんな先の事を思い煩う? マタイ6:34「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
 このページは私の生存証明書だと言ったことがある。更に言うなら、このページは私の霊の生存証明書であるともいえる。もちろん更新できなくなったとしても、私が神を離れない限り、神は私と共にいてくださるのは言うまでもない。

 

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きょうのことば『見ないで信じる人たちは幸い』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

 

 

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音楽雑感

 きょうは盛岡、18度になる。いよいよ待ちに待った桜開花か。クラシック倶楽部を聴くと、ちょうどピリオド楽器演奏。フォルテ・ピアノ川口成彦、トマシュ・リッテル、バロック・バイオリンの山縣さゆりさんらのちょっとした解説も。「18世紀オーケストラ」という名ははじめて聴いた。ショパンの「ポーランド民謡による幻想曲 」やら「演奏会用ロンド 「クラコヴィアク」」、これもどこかで聴いて、その時限りで自分の中では忘れ去っていたのではないか。これ、ショパンの曲ですが、と言われて、ああ、こんな曲も、と言ってしまいそう。やけに新しく、民族色の中でショパンの持つ詩情が動き身を投じてゆくような感覚に。18世紀オーケストラ、これが立奏。演奏の度に仕上がりが違ってくるとか。この方々でモーツァルトの交響曲40番、何回かコンミスが楽器から手を放して皆に促していたことは、ここではもっと音量を! だったろうか。しかしこれが当時の空気感。演奏された方々の年齢は高そう。それがかえって今の自分には共感をもって、ほとんど日常的に聴いていた30年も昔にさかのぼり、ちょうど子どもを隣に乗せた車窓から見た景色がただただ軽快に次つぎに移りゆくさまが浮かんでは飛び去っていく。

 吹奏楽は一昨日であったか、音圧に曲が圧しつぶされたと感じたコンサート以来、わざわざ吹奏楽を聴きに行ったことはないけれども、楽器の音の出し方は声楽と似ている。歌うように奏するといった解説であったか、大井剛史さん指揮。吹奏楽は屋外で、と思っていたが、この解説でまた違った受容ができるように。

 ファビオ・ビオンディの無伴奏バイオリンを聴いたのはいつであったか、ソナタは2番、パルティータは3番がよかった。

 と、日々聴いているかに書いているが、最近は聴かない日もある。特に4月の6日からは腰痛に見舞われ、この痛みに圧されて4日間は安静に。イエスさまを信じていても病気になる時はなる。はたと静まってどこからか声が聞こえはしないかと耳を澄ますけれども残念ながら「お前だけは特別に今すぐに癒してあげよう」という声はどこからも聞こえてはこなかった。ただ気持ちを平らかにしたとき、この平らかに、というのがどういうことかというと、人は痛いとなると、「なぜこんなことに?」「そうだ、あれが原因だ」「あの用足しをしたからじゃないかしらん」と、おかしなことに何かを責めたり詰問したくなったりしてしまう。原因究明はだいじだけれども、他者を責める心境に傾き加減になる自分がある。そこで心を平らかに、なのだが。その時、すとんと心に落ちるように「今回は治る」という確信が心に通いほっとしたのだった。な~んだ、数日の我慢。

 そして今日、主人のウォーキングポールを片方借りて、右手に持ちとつとつとコンクリートに、砂利道に、草地につきながら散歩。いつの間にか大きくなり過ぎたフキノトウ、しかしきれいな彩で葉っぱに陰影を落としている。ヒメオドリコソウの紫の小さな花とオオイヌノフグリの青い花の密生のあいだに3本のツクシが伸びていた。坂道を上がって見れば、廃屋の庭に並び枝を繁茂させるコブシの花の白さ。レンギョウの黄色の明るさ賑やかさ。枝にまぶされたかボケのまんまるな赤いつぼみ。全身を真っ赤な花で塗りこめた山茶花。今日中には開くであろう桜のはちきれんばかりの胸いっぱいの花弁。橋をわたり坂を下りる家の庭には、たくさんの紫のカタクリのくびれた花々。そちこちの庭に崖に肩を寄せ合うスイセンの群れ。そして交差点の角にはたくさんのムスカリ。
 盛岡地方気象台はきょうついに標準木の開花を宣言した。春だ!ほんとうに春が来たのだ!

⏰17時32分更新

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きょうのことば『死者はどのようにしてよみがえるのか』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教

 新年度、様々な事態の下にも新たな歩みが始まってはや一週間。ニュースでも全国から桜だよりが届いています。
このページでは先週のイースタ―メッセージをおつなぎします。

2024年3月31(日)
説教題 『死者はどのようにしてよみがえるのか』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 15章35~51節

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35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ、生かされません。
37 また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きる者となった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
46 最初にあったのは、御霊のものではなく、血肉のものです。御霊のものはあとに来るのです。
47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。



【神谷師による説教の要約】
 パウロが「死者はどのようにしてよみがえるのか~」とたずねる人のことを「愚かな人」と呼んだのは、そこに神を計算に入れていないからであり、パウロが死者のよみがえりを種蒔きにたとえたのは、そうしたしくみが神によって造られ、その支配の中で、今もこの世界が運行されていることを信じていたからだといえる。
 聖書のことばは「いのちの種」と言われ、それは、ことばをもってこの世界を造られた神の語られたことは必ず実現することを示している。
 死をもって肉体のいのちを終える現実を前に、聖書の語る約束を握る時、よみがえりのキリストが示す将来に希望を置いて生きることができる。

―ブログ管理人のひとりごとー
 TVのことだけれども、「街ピアノ」、もたまに聞いている。アマチュアの方が多いが心打たれる演奏に出会う。オーストラリアで夫の暴力から逃れて離婚し、教員となって3人のお子さんを育てたという方、毎日曜に教会でオルガンを弾いておられる。この方の讃美歌の演奏には心打たれた。別世界の音を聴いたと思った。讃美歌は時として心をカウンセリング、静かに細部に行き届き心を潤してくれる。

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⏰6時47分更新

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