きょうのことば『私たちを律法ののろいから贖い』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教
2024年3月31日、イースター、おめでとうございます!
イエスさまは言われました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
ヨハネ11:25
☆ ☆ ☆
説教は1週間遅れでおつなぎしています。イースターメッセージは来週の掲載になります。
2024年3月24(日)
説教題 『私たちを律法ののろいから贖い』(←クリックしてお聞きください)
聖書朗読 ガラテヤ人への手紙 3章10~14節
10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。
13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。
【神谷師による説教の要約】
聖書が言う「のろい」とは、神がその御顔を背けられることであり、のろいの反対のことばである「祝福」とは、御霊によって、神が共におられることを頷くことと言える。
また、旧約聖書の中で、アダムとエバがエデンの園で失敗し、イスラエルの民が律法に背いて他の国で奴隷となったことは、私たちには救い主が必要だということであり、キリストは人がその罪のゆえに受けるべきのろいを、その十字架の死をもって葬り去り、代わりにご自分のいのちをもって、その祝福を私たちに与えられた。
聖書が示す救い主の必要に応えるとき、この祝福は自らのものとなる。
―ブログ管理人のひとりごとー
受難週のあいだ、できるだけ聖書のメッセージを聞くことを心がけた。聞いているその時にはさほど意識しないまでも、その後には爽やかな風通しのよさ、自分という洗濯物が仕上がったかのようなさっぱりとした気分になる。そして神さまのご愛とともにある明るみに連れ出されたことに感謝する。
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⏰6時20分更新
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