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2024年1月

きょうのことば「世の光として輝く」ー説教 神谷光一牧師ー

「サムエルは一つの石を取り、ミツパとエッシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名を付け『ここまで主が私たちを助けてくださった』と言った。」(Ⅰエルサレム7:12)―今日の教会週報からー

Img_20240127_145423jpg2写真はきのう午後主人と岩手県立図書館に行った帰りに旭橋から撮りました。このような景色や、真冬でも軒先にこの冬を耐え忍んでいる姫踊子草の緑を目にするとき、ああ、神さまは厳しい冬にもさまざまな事象をもって心を和ませてくださっていると感謝の想いが湧いてきます。
 そして、「提唱するのは、人権や高邁な理想ではなく、具体的な延命策である」とアフガンの人々のために生きた中村哲医師や貧しい人々のために尽くしたマザー・テレサ、今現在被災地に乗り込んで懸命に働いておられる方々がいらっしゃる。目には見えなくともできる限り財をささげておられる方々も。励まされる。悪いことばかりではない。闇がどんなに濃くあろうと光が閉ざされることがないようにと願い祈りつつ。ーブログ管理人のひとりごとー 

 

          ☆  ☆   ☆

インマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 
神谷光一師の説教(クリック、クリック)をお聴きください。説教は1週間遅れでおつなぎしています。


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2024年1月21(日)
説教題 『世の光として輝く』
聖書朗読 ピリピ人への手紙2章12~18節

12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
17 たとい私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
18 同じようにあなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

【神谷師による説教の要約】
 パウロが言う「曲がった邪悪な世代」という言葉と、私たちが周りを見て感じる違いは、私たちが気づかず当然として見る今の世界、またその中での歩みと、かつて人が神との間に持っていた本来の愛の関係を、神の視点で見た時の大きな落差であり、逆にそれは、キリストを信じ、また人が死後にさばきを受けることを信じている人の「真面目に生きる理由を持っている」姿が、神を認めない世の側から見れば、いかにも「真面目で損な生き方」と映ることに通じるものである。
 私たちがキリストによって罪が赦されていることから生まれる生き方は、普段は目立たなくとも、人が直面する困難や死を前にした恐れを持つとき、俄然光を放つものとなり、人生の終わりを見据えて生きることは、目前の出来事を正しく受け止めることを可能とする。


6時38分更新

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きょうのことば「あなたがたは世の光です」ー説教・神谷光一牧師ー

「ことばに表せない賜物のゆえに神に感謝します。」(Ⅱコリント9:15)ー今日の教会週報からー

「万事休す」とか「背水の陣」といったことばを耳にすることがある。旧約聖書中ではモーセに率いられたイスラエルがエジプトによって紅海に追い詰められたときの場面が浮かぶ。「万事休す」か。ところがモーセが手を差し伸べると海が割れて道ができた のだ。けさはそんな場面が心に浮かぶ。一個人にそれが起きるか起きないか、目に見えるところどのようであっても、その場から、いつでも天への道は開けていることを思う。ーブログ管理人のひとりごとー

Img_20231224_183904jpg キャンドルサービスの日の教会

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インマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 
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2024年1月14(日)
説教題 『あなたがたは世の光です』
聖書朗読 マタイの福音書5章13~18節

13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
15 また、あかりをともして枡の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

【神谷師による説教の要約】
キリストが私たちを「地の塩」と言われたのは、それぞれが神さまからの個性的な人間味や魅力を与えられているということであり、その私たちが「世の光」であるとは、内側にある塩気が、周りが見てわかるような行いとなって現れることだといえる。
また、キリストが「預言者や律法を~成就するために来た」とは、聖書を通して見えてくる人の心の貧しさを満たすために、十字架にかかることで、そのいのちによって豊かさを与えられるということである。
キリストの十字架によって与えられるいのちは、私たちの内に塩気となる味わいをもたらし、それは周囲に放たれる行いとなって現れてくる。

 

⏰6時54分更新

 

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ラフマニノフの使ったピアノ

 クラシック倶楽部、確かこの方は愛知県立芸術大学の教授をなさってるイリーナ・メジューエワさん。何か音に物足りなさを感じたのだが、これが日本に2020年に持ち込まれたラフマニノフが使ったというピアノ。どういう経緯で持ち込まれたか、ちょっとググってみたがわからなかった。調律師の高木裕さんが1年もの時間をかけて調律している。大変な仕事だったに違いない。このピアノでイリーナさんが最後に弾いた大曲が1913年作曲の「ピアノソナタ第2番」。自分にとってもチャレンジな曲なのだとイリーナさんが仰っていた。


 ラフマニノフは1918年にアメリカに渡っているが、果たしてこのピアノを持って行ったかどうか。ピアノの旅の成り行きは見えてはこない。
 何れニューヨークのボヘミアン・クラブ主催のビルトモア・ホテルでラフマニノフの大歓迎会があったようで、これが出席者1200か1300という規模のパーティーだったらしい。ここで山田耕作がラフマニノフを紹介され握手している。席はラフマニノフと90センチと離れていない位置であったとか。
 とここまで書いて、これがどこからの受け売りであるかを明かせば
https://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/8f3897213f8e5cf8d7a6764eea38e428
 ちょっと面白いので飛んでみてください。



⏰6時半更新



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音楽雑感 ディアベルリ実験工房

 今朝のベンジャミン・フリスのベートーベン「ディアベルリ変奏曲」、これが、まるでベートーベンの旋律の実験工房に迷い込んだようで、彼の頭の中にある幾つもの引き出しがパタパタと開いては閉じ、閉じては開いて、こんどはこうか、こんどはああかと幾多の旋律が新鮮さをまとって次つぎに引き出されていく。それがどこをとっても即座にピアノ・ソナタ32番にすんなりと滑りこんでいきそうな、自分の中ではすでに滑り込んで、ディアベルリと32番が響き合ってるのだが。どれほど32番が自分の中に刷り込まれているか、逆にここで知らされることともなった。ディアベルリの最後の音で、さあ、実験はここまで。どうぞお帰りください。どこからかそんな声が。
 そしてこの音が流れる間中、私の想念はどこを歩いていたか。神の目は、どこもかしこも同時に見ているというその凄さ。タイムラグがない。いまこの地点に目を注ぎながら、そう、もうちょっと現状を何とかしなさいと憂えていらっしゃるか、それでいい、昨日も忙しかったからね、きょうはゆっくりしなさい、と仰っているか、そこのところはわからないけれども、今この一人に目を注ぎながら、それと同時に100キロ向こうの、というとここから東に向けばそれは宮古市か、500キロ向こうの地点といえば、それは関東圏ということになるか、何れ宮古、関東と言うにも特別な意味はないのだが、能登、ガザ、ウクライナとなれば、その重さ、深刻さが立ち現れてかなり辛くもなる。何れ神は見ておられる。昔は、神様は見ている、と聞いても、あ、そう。それで? ま、お年寄りは自分の労苦をそんな言葉で価値化してみるものでしょ。そんな時代も確かにあったのだが。しかし、どこかで神ははっきりとそれを私にわからせた。わからせられるということは、ある意味重いことでもある。しかし、神はわたしにそれを分からせた。
 見ているからね。なぜかそんなことばが、けさは温かく響いている。クラシック倶楽部が終わってワールドニュースを背中に聞きながら、ユーチューブで32番を拾い聴いている。アンドラーシュ・シフ。どうも私は6285回目のお客様らしい。シフの最後の一音がなぜか「とりあえず」、と聞こえた。とりあえず。

 

⏰6時36分更新

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クラシック雑感

 先ごろ友だちから手紙が届き「最近やっとクラシック倶楽部を観る習慣がつきました」とあった。早朝5時からのTV番組だ。自分が勧めておきながら、近頃ではその本人の意識が緩んでいる。5分、或いは10分遅れ、今朝は25分遅れ。クラシック倶楽部に続く名曲アルバム、近頃は「東京ブギウギ」がけっこう入っている。クラシック倶楽部の方ではヴェルビエ音楽祭からピアノを聴かせてくれた。アンドラーシュ・シフのエピソードには、なるほどそんなちょっぴり皮肉屋さんのようなところがあるかも、と。して、今朝は、福間洸太郎さんのベートーベン。ベートーベンには眠気もすっきり払われる。「熱情」。誰でも知っているこの曲なのだが、その世界に連れていかれる。その世界の人とならせてもらえる。自分のなかにある、そうだそうだと活き活きと呼応する自分が活力を帯びる。得心のゆく満足感がのこる。そして今朝の名曲アルバムは「美しく青きドナウ」。これも超有名。音楽と映像と解説、これにもう一つゲルハルトの詩を想起しながら聴く。ウィーン少年合唱団の歌声も心の中に流れる。ニューイヤーコンサートのあの優雅なダンスに勝って、この詩には惹きつけられる。
 聴き終えて思うことは、世の中にはこんなすばらしいもの、こんな世界もあるというのに、何だって、あっちでもこっちでも四六時中けんかばっかりしてるの? それこそ気候変動で団結しなくちゃならないときに、殺戮と破壊が繰り返されてるの? いい大人たちが……。みんなそれを分かってる。わかっちゃいるけどやめられない。やめさせられない。数少ない筋金入りの反戦の人は抹殺される。
 人の心から、罪、罪性が取り除かれない限り、争いは絶えることがないのだろう。この罪を取り除くことのできるお方がイエス・キリスト。聖書はそれを教えている。

⏰7時更新

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きょうのことば「ともに産みの苦しみを」ー説教・神谷光一牧師ー

「人の子は失われた者を探して救うために来たのです」(ルカ19:10)
下記につなぐ説教は先週の分ですが、きょう1月14日、「教会では、信仰の体験談を交え、教会は初めてという方にも間口を広く開けての伝道礼拝を行います。こうして共に礼拝に与るまでに、それぞれが辿った恵みを振り返りつつ、感謝を新たにいたしましょう。―今日の教会週報からー」

 聖書のみことばに、祈りに、いったいどんな実効性があるのだろう、はるか彼方にいくつかの奇蹟があったとは聞く。けれども多くの祈りは中空に泡のように消え去っているのではないか、そのように思い込んでいた一時期があった。しかし、時代が困難になればなるほど、神の時代は神の監督下に、実は着実に、厳粛に、その一刻一刻がこなされていることを実感している。今はそのさ中にある。そして暗闇が濃ければ濃いほどに、神を仰ぎ見祈るとき、与えられている聖霊さまがおのずから光に達し、その光を手繰り寄せ、神への共感、すなわち感動をもたらしてくれることを知ることとなっている。感謝があふれるのだ。―ブログ管理人のひとりごとー


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2024年1月7(日)
説教題 『ともに産みの苦しみを』
聖書朗読 ローマ人への手紙8章18~39節

18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
20 被造物が虚無に服したのは、自分の意思からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころに従って、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28 神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを私たちは知っています。

29
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
33だれが、 神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのためにとりなしていてくださるのです。
35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊とみなされています。」
37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39 高いところにあるものも、、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

【神谷師による説教の要約】
 パウロが語る「やがて私たちに啓示される栄光」とは、キリストの再臨と千年王国以後のことであり、この世界に「どうして?」と思うような悲しいことがあるのは、かつて神が支配し、その関係の中にあった人が、そこから離れて、人を中心にこの世界を治めるようになったからだといえる。
 また、神に造られたすべての者がもつ「うめき」や「産みの苦しみ」は、来るべきキリストの再臨に始まる、この世界の本来の姿への回復を待ち望んでいるものである。
 様々な出来事をはらみつつ進む世にあっても、この世界の真の支配者なるお方により用意された結末へと近づいていることに、望をおいて歩みたい。

6時55分更新

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きょうのことば 「その道は聖なる道と呼ばれ」「わたしは世の光です」ー神谷光一牧師ー

「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)
今朝はこの年を締めくくる最後の礼拝となりました。様々な出来事のあったこの年の恵みを覚えつつ、こうして尚、贖われた者として御前にあることを覚えつつ、感謝をもってこの年を送り、新たな年を迎えましょう。―31日の教会週報からー


 きょうは年末礼拝と元旦礼拝を一挙に掲載。この患難のときに心を強くしなければ、そして、キリストにあるときにそれはできる。もしミサイルが目の前に着弾したら、衣食住がすべて奪われたら、或いは身の回りで殺戮が繰り広げられていたら、その時にも強くあることができるだろうか。それは分からない。人を搔き分けても自分だけが助かろうとするだろうか。それはそうなってみなければわからない。尻尾を巻いて逃げ出す自分であるかもしれないのだ。ただ活ける神キリストにあって強くなれる自分を更新しつつ歩み続けることをやめたくはない。けさ、目の前に置いてある中村哲さんを著した「希望の一滴」に目が留まったときに、もう涙は流さないと思い込んでいたはずが、涙が流れて仕方がなかった。ーブログ管理人のひとりごとー
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インマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 
神谷光一師の説教をお聴きください。本日は1週間遅れで年末感謝礼拝と元旦礼拝をおつなぎしています。


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2023年12月31(日)
説教題 『その道は「聖なる道」と呼ばれ』 聖書朗読 イザヤ書35章1~10節
1 荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。
2 盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これにレバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
3 弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7 焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
8 そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさ迷うことはない。
9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

【神谷師による説教の要約】
「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる~」という姿は、主がおいでくださったクリスマスや再臨とともに、救われた私たちの心と生活の中に始まるものであり、それはこの世界が神によって造られ、その支配のもとにあるあることを理解する心をもたらす。
また、「荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れる」とは、私たちと神さまとの間に満ち足りた心を伴う、たましいの交わりをもたらす聖霊を指している。
様々な問題をはらむこの地上にありつつ、贖われた者だけが歩むことができる「聖なる道」と呼ばれる大路を歩んだ一年を感謝したい。

 

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元旦礼拝
2024年元旦(月)
説教題 『わたしは世の光です』
聖書朗読 ヨハネの福音書8章1~12節

1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場で捕らえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともにイエスだけが残された。
10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

【神谷師による説教の要約】
姦淫の場で捕らえられた女は、キリストを訴える口実のために、本人の意思に反し、御前に連れて来られた。
彼女を訴える者たちから当時の律法に照らして石打ちに定められていることについて、さばきを尋ねられたキリストは一言「罪のない者が最初に石を投げよ」と語ると、心に罪を認めた人々はみなそこを去り、この女性だけが「わたしもあなたにさばきを下さない」との罪の赦しと解放の宣言を聞くことができた。
世の光であるお方に自分自身を委ね、照らされた心でこの年の歩みを進めたい。

6時42分更新

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新年おめでとうございます!

新年おめでとうございます。
ことしもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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しかし、ついには、
いと高きところから私たちに霊が注がれ、
荒野が果樹園となり、
果樹園が森と見なされるようになる。
イザヤ32:15

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