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2023年9月

今朝のクラシック倶楽部は福井敬氏

 

「音楽な日々」ブログであるはずが、猛暑の夏の余波がいまだ収まらず、そこまでの余力、気力が薄弱になっていたが、きょうのクラシック倶楽部、コロナ禍無観客収録であった福井敬に触発され、久方ぶりの更新となった。

 フェイスブックの方にも書いておいたけれども、福井敬氏は9月22日に花巻市でイーハトーブ賞を受賞。中村節也氏編曲「精神歌」「種山ケ原」を歌ってくださったが、これが賢治世界を引き寄せ自らのうちに咀嚼して広く自然に宇宙に解き放ち多くの人々と分かち合ったかのすばらしさ。岩手県水沢市の出身という事で何か誇らしくもあった。イーハトーブ賞の授賞式ではこの2曲のみ。当然オペラはなかったわけで、授賞式の歌のすばらしさに得心したものの、オペラを聴かないではなにか物足りない気分を引きずっていたが、今朝のクラシック倶楽部で、まさかきょう福井氏が登場するとは思ってもいなかったため、10分遅れではあるけれども、アリアを数々聴くことができた。

 会場で、向こうはこちらがどこのおばはんか知っているはずもないという気安さから、CDを買い求めサインをいただいた。名乗ってみたところで全国に友人知人、ファンあまたの福井氏にとっては迷惑。お礼のみを申し上げ歳相応にミーハーはぐっと控えてスタスタと退散。13時過ぎの電車で早々と帰宅。CDに興味を持った主人が開封し、賢治の音楽世界、といっても賢治の音楽世界はこのCD一枚のみで聴きおおしたとはいえないのだが、賢治のあたたかさにひと時心を休めていたようだ。
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⏰20時22分更新

 

 

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きょうのことば「ただ、きょうまでしてきたように」ー説教・IGM秋田教会牧師 神谷光一師ー 

 この辺りに住みはじめて5年になる。いまだご近所にどのような方がお住まいか、建物の外観は見知っても住む方々とはほとんど話をしたことがない。けれども有難いことにその庭には草花、樹木がけっこう繁っており、買い物、散歩がてら四季折々に楽しませてもらっている。カラタチ、イチジク、白い花が楚々として美しいフジ、スモークツリー、住宅地としては樹高のある杉の木、銀杏、竹などなど、近頃は路の割れ目から生え出ている雑草さえもが愛おしく感じられる。踏まれても尚強靭ないのちがびっしりと連隊のごとく連なっているのには、よくぞこの炎暑にも耐え抜いたと賞賛さえする。
  夏の終わりに、直近の交差点角地に突如変わった実のなる樹木が出現した。一夜にして姿を現したわけではなく、これまで名も知らぬたくさんの植物がまるで大きな塊のように絡み合い繁る奥に隠され見えなかったのが、その木だけを残して他はきれいに刈り込まれたためにやっとその存在がはっきりとしたのだ。実の先端がくびれ開いている。実が青いうちは迷っていたが、黄に橙にと変わり、行きつく先は赤かとなって、ああこれはザクロだ。柘榴。絵画でしか見たことがない鮮やかな時としてあの実の中の赤が痛々しくも見える柘榴。姑が在りし日に買い求めてこたつで小さく割って見せたことがある。東北地方南部以南にあるとの思い込みもあり、突然目にした柘榴は眩しかった。この柘榴は温暖化が騒がれる以前からここにあったように思う。花期が過ぎてから姿を現しており、花はまだ見ていない。来年の初夏が楽しみである。
 長い間茨に、視界を塞いでいた雑木たちを勝手に茨といっているのだけれども、茨に隠されていたこの柘榴が、茨を取り除かれてその輝きを現わしているのだが、それがあたかもいつしか世の中の汚濁にまみれ総身傷だらけの魂が、聖なるみことばとの出会いによってきよめられ、その本来の人の輝きを取り戻したすがたのようにも思われている。

 きょうは6時過ぎ起き、遅かった。書いている途中で7時を回ってしまったが、一旦中断。朝食後にまた書き足して、いつもの説教に何とかおつなぎできる。感謝です。
 

 

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インマヌエル秋田教会・盛岡教会(兼牧)の神谷光一牧師の説教をおつなぎします。
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神谷光一・美津子牧師夫妻

2023年9月17日(日)
説教題 『ただ、今日までしてきたように』
聖書朗読 ヨシュア記 23章1~11節

1 主が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。
2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて、老人になった。
3 あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。
4 見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族に分けた。
5 あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。
6 また、モーセの書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、
7これらの国、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。かれらの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。
8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。
9 主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。
10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。
11 だからあなたがたは、自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。


 

8時26分更新

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きょうのことば「今は分からなくても、後で分かるように」ーインマヌエル秋田教会 神谷光一牧師ー

 きのうで盛岡八幡宮の祭りも終わった。厳密に言うとこの祭りも神事に属しているかと思う。祭囃子の賑やかさもさることながら境内を埋め尽くす人の賑わい。祭りの終わりとともにぐんと迫る秋の気配。そのような中にも、2000年前のあの十字架を見上げ、自らの心に印されたこの十字架を見上げながら新たな一日、一週間を迎えられたことに感謝を深くする。
 きのう午後、弦楽四重奏団「はにかる」を聴く機会があった。最後の「情熱大陸」は編曲も交えてなかなかパワフル。アンコールのきらきら星と弦楽六重奏のミックスもさやかな夜空も見え宇宙の重みも感じられた。会場には別なキリスト教会の会員である高校の同期生が見えていた。7、8年前に、資料の楽譜をピアノで弾いてもらったことがある。つい昨日のことのように思っていたが、すでにこれほどの時が流れていたとは。彼女は教会のオルガン奏者。あしたもその務めがあるという。そして、しだいに無牧の教会が増えてきていることに話題が及んだ。こんな場合、私が言えるのは今確信するところ。いかに無牧の教会が増え教会の扉が閉ざされようとも神は存在する。これこそ信じがたい厳粛な事実だ。神はその人にとって最も必要であるときに、ご自分のご存在を何らかの形で表され明らかにされる。それは人生にそう何度もあることではなく、たった一度か二度か、或いは三度。その瞬間の神ご自身の表れと神ご自身の証明を堅く保ち続けること。信仰生涯はこれができるかできないかに懸かっている。これが今私が知り得ていることである。
 そしてこの下にある毎週の説教で、自分の本音を探られ、正され、教えられ、導かれ、不出来ながらも歩んでいる。

 

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   神谷光一牧師夫妻

インマヌエル秋田教会・盛岡教会(兼牧)の神谷光一牧師の説教をおつなぎします。

2023年9月10日(日)
説教題 『今は分からなくても、後で分かるように』
聖書朗読 ヨハネの福音書 13章1~15節

1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
14 主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

 

この日は聖餐式がありました。

 

⏰6時51分更新

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きょうのことば「義と認められ~帰ったのは」ー説教・神谷光一牧師ー

 夏は去り行こうとしている。昼間の気温から察するところ、ことしの夏は、まだまだ熱し足りなくて炒り足りなくて、やっと朝夕に人心地ついた我々を振り返りふりかえりしている。もう勘弁ですよ。もうここからは天然自然もよいものだと思わせてくださいよ。まだまだ自然には癒しがあると見せてください思わせてください。花々も木々も動物も人も、その優しさを待っているんです。

 この夏は厳しかった。盛岡バイパスの北山給油所付近の表示板で36度と見た時には、さすがにクーラーさえあれば生き延びられるという〝迷信〟が吹っ飛んだ。40度近くとなれば、フライパンの上でゆっくりと炒られる感じか。
 やっと秋。やっと一昨日から人心地ついて猛暑前のあり様を取り戻すことができた。

 こうしてまた日曜日を迎え、1週間を始められることに感謝する。先週は、今は引退して広島におられる國光ひろ子先生が、仙台教会の集会に、ズームで招かれお話しくださった。どういうわけか膵臓癌が消えてしまったという経験をお持ちの先生だ。國光先生ご夫妻が50年近い任地、50年と言えば一生涯をインマヌエル盛岡教会の為に捧げられたということなのだが、引っ越しの時に教会員の皆様のしんがりで、私も手伝いをさせていただいた。教会堂の屋根裏から昔の手作りの謄写版などが出てきた。國光勝美牧師がガリ切をして教会の印刷物を作っておられたのだ。あの牧野博士が見たら仰天、狂喜しそうな今のコピー技術からすればアナログ。それも手作り。引っ越しで、伝道ツールの数々を処分せざるを得なかった日を、ひろ子先生の病状がこの引っ越し、広島移転でどうなるかと危ぶんだことを思い起していた。ところが広島の病院で検査すると癌が消えていた。正直、内心、ひろ子先生の御葬儀には……と、そこまで考えていたのだった。新幹線の見送りは賑々しくも底には悲壮感も。それがすっかりお元気になられて、ズームでお話しなさって。國光勝美牧師夫妻は、尚、広島教会で礼拝のご奉仕を分け持っておられる。

 今は神谷牧師夫妻が、そして仙台の細田牧師が副牧として盛岡教会の牧会を引き受けてくださっている。この一連によって、教会の皆様がこれまでより一層自立を促され、そして直近にあった洗礼式の眩しさを目の当たりにし、そのような信徒のお一人おひとりに勇気と励ましをいただき、共にすべてを担われる主を教えられ実感して今がある。神谷先生方の月一回の巡回は皆の楽しみとなっている。コロナも弱まってくれて、ご一緒にお昼をいただきながら歓談。秋田の皆様には申し訳ないと思いつつも楽しいひとときを享受している。

 

 

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神谷光一・美津子 牧師夫妻

インマヌエル秋田教会・盛岡教会(兼牧)の神谷光一牧師の説教をおつなぎします。

2023年9月3日(日)
説教題 『義と認められて~帰ったのは』
聖書朗読 ルカの福音書 18章9~14節
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 

6時34分
※説教を誤って前の週を出しておりました。お詫びいたします。7時42分に、9月3日の説教につなぎ直しました。ぜひお聴きください。

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きょうのことば「わたしのくびきを負って」ー説教 インマヌエル秋田・盛岡(兼牧)教会牧師 神谷光一師ー

 今朝のラジオニュース、ウクライナの徹底抗戦、台風11、12号。また痛い目に遭っている。痛い目に遭う人たちが出る。こんなニュースをよく毎朝聞いていられるものだ。しかし厳粛な事実だ。神のシェルター、心のシェルターにあって耳にできることが、心理的な動揺、諦観を緩和している。それも事実なら、今ウクライナに咲いている花もあるだろう。常緑を保ち続けている樹木もある。焼けただれた中に空爆を免れた田園もあるだろう。
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平和な田園。2019年。渋民。

 

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神谷光一・美津子 牧師夫妻

インマヌエル秋田教会・盛岡教会(兼牧)の神谷光一牧師の説教をおつなぎします。

2023年8月27日(日)
説教題 『わたしのくびきを負って』
聖書朗読 マタイの福音書 11章28~30節

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

6時32分更新


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