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2023年2月

230228 クラシック俱楽部を聴く  小糸 恵 バッハ・オルガン作品演奏会

230228 クラシック俱楽部を聴く  小糸 恵 バッハ・オルガン作品演奏会

ヨーロッパでバッハの第一人者として高く評価されているオルガン奏者、小糸恵の7年ぶりの帰国公演。2020222日いずみホール(大阪市)での収録。ー番組紹介よりー
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 小糸恵のコメント
ヨーロッパに渡ったのは25歳ぐらいの頃でした。それでいてたぶん最初にすこしコンセルバトワールで勉強してから日本に帰ろうと思ったんですが、いろいろオルガンを調べているうちに、やっぱり残って、もっと探さなきゃだめだと思いまして、で、歴史的なオルガンをやる場合は、イイタリアとかフランスとかスペインとかオランダとか、特に北ドイツ、南ドイツもそうですけども、バッハの音楽の完全には必要だし、そのためにあちこち旅行して、その場の方に教えて頂いて、オルガン製作者の人と一緒に旅行したり研究したり致しました。でもオルガン音楽をやる場合は、オルガンだけやっていたらだめだと思って、バッハの例えばその時作ったどういう他の音楽を作っていたかというようなことですね。特にオーケストラとか合唱とかいろんなもの、そういう作品も勉強しなきゃいけないし、それで今はバッハの他の楽器の勉強もし始めて、私は他のピアノとかチェロとか昔から弾いてたんですけれども、今はちょうどオーボエ・ダモーレとヴィオラダ・ガンバの勉強をしておりまして、彼がどのような作り方をしたか、それを今学んでるところで、たぶんそれがオルガンのいろんな奏法に影響できるようになればと思っております。

 

演奏曲目 オールバッハ 
前奏曲とフーガハ長調BWV545
ライプツィヒで45歳のとき最終稿を書いたが25歳で書かれた作品
「心よりわれは求めん」BWV727  1
ハンス・レオ・ハスラーの「わが心は千々に」から。マタイ受難曲にも現れる旋律
前奏曲とフーガ ト短調 BWV535
アルンシュタットでのオルガニスト時代に20歳で書かれた。ブクステフーデがよく用いた同音反復の形式が用いられている。
おお人よ、お前の罪に泣け」BWV622
バッハより200年前の1525年頃のコラールをもとに書かれている
前奏曲ハ短調 BWV546/1
トマス教会時代、45歳で作曲
ヴァイオリン・ソナタ第3BWV1016より 第1楽章 (小糸恵編曲)
30歳代半ば1720ごろの作曲
バビロンの流れのほとりに」BWV653
罪のゆえの追放とその快復
トッカータとフーガ ニ短調 BWV538(「ドリア調」)
ワイマール時代2732歳で作曲。カッセル・マルティン教会時代か。
バッハ自身がこの曲に愛着をもっていたようだ
アンコール:カンタータ第106番「神の時」からソナチネ

 

以下は小糸の演奏会紹介記録より転載
バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒといずみホールが共同企画で開催した「バッハ・オルガン作品連続演奏会」(20072012年)と「バッハ・オルガン作品全曲演奏会」(20122019年)では、合計22名のオルガニストたちが出演。彼らはバッハ演奏のスペシャリストばかりで、毎回個性が光るステージで高い評価を獲得しました。
お客様に22名のオルガニストの中から「再登場を希望するオルガニスト」についてのアンケートを実施。アンケートで最も多くの方が再演を希望したのが、今回の出演者の小糸恵でした。
小糸恵は、20133月にバッハ・オルガン作品全曲演奏会Vol.2「鼓舞される心」公演で初めていずみホールに登場し、卓越した音色作りとダイナミックな表現力で感動的なバッハの音楽を届けました。その時から交友が続いていた故礒山雅芸術監督の突然の死を悼み、命日である222日にいずみホールのオルガンを奏でます。彼女の強い希望で、バッハ研究に尽くした故人へ贈るオールバッハ・プログラムを披露します。

 

世界有数のコンサート・オルガニストであり、特にバッハ演奏のスペシャリストである。
東京藝術大学を経て渡欧し、現代曲初演を含むオルガン音楽の全てのレパートリーとする演奏家として活動。1985年以降、古典作品をレパートリーの柱とし、歴史的資料の研究に基づいた、楽器の選択および演奏法を、独自に展開している。
バッハ作品の優れた演奏者のひとりとして、ヨーロッパ、ロシア、日本、アメリカでコンサートを開催。また、ソリストとしてのみならず、バロックオーケストラやグレゴリオ聖歌隊との共演にも積極的に取り組んでいる。とりわけ、ムジカ・アンティクァ・ケルンとはバッハのカンタータおよびオルガン・シンフォニアやヘンデルのオルガン協奏曲を、アンサンブル・ジル・バンショアとはフランスの古典、前古典やイタリア・ルネッサンス、バロックの作品演奏で共演した。
また、レコーディングも数多く、歴史的価値の高いオルガンを弾き古典をレパートリーの柱とする数々のバロック時代のオルガン作品を発表し、数多く栄誉ある賞を授与されている。2019823日には、Sony/DHMより新CD BACK TO BACH」をリリース。
1992
年にローザンヌ高等音楽院のオルガン科教授に就任。加えて、英国王立音楽院、オーストリアバロックアカデミー等の客員教授を務めている。また、著名な国際オルガンコンクールの審査員としても頻繁に招かれている。
「ローザンヌ・バッハ・フェスティバル」は、1997年の開始当初より芸術監督を務めており、2012年からは、ローザンヌ・シティ・オペラのバロック・オペラ共同プロデューサー。

       

🎵聴いていると小糸に対する深い敬愛の念が湧いてくる。小糸は、バッハがこの時代に遣わしたバッハ音楽の女性大使であるような気がした。
バッハと生きている方。バッハを理解するためにヨーロッパ各地を訪ね取材、研究。バッハ関連の楽器にはことごとく学び触れているようなのだが、今ではオーボエ・ダモーレやヴィオラダ・ガンバといった古楽器も学んでいるという。これがオルガン演奏に影響、反映されればというのだから奥が深い。
 BWV535、これはバッハがブクステフーデから影響を受けて作曲との解説。コープマンがブクステフーデの研究者だが、そのブクステフーデの演奏を聴いたとき、私はそのときのブログに「もう光あふれる宙、神の恩寵の只中に、あらゆるものが喜びに活き活きと戯れあそび飛び交う感じなのだ。コープマンの神の光、恩寵への向日性だ。」と感想を記している。ブクステフーデの影響に成るこの曲がまた小糸恵演奏でさらに緻密な異彩を帯びていると。小糸の編曲によるBWV1016の第一楽章、細密な緻密にはめ込まれ柔らかな光を帯び、量感も感じさせる。
音楽はバッハに流れ込みバッハから流れ出るということばを思い出した。

 

⛳一旦書いた文章が、またまた誤操作で消失。前回のをコピーしておいたけれども。現在別な懸案事項にも取り掛かっているので、午前中はできるだけそちらに時間を使いたい。そんなわけで、懸案事項以外は、力を抜いている。視力、体力の温存も考慮しなければならない。限られた時間を生きている今を覚える。

 ところできょうのバッハを聴きながら思いだしたことがある。
 盛岡バッハ・カンタータ・フェラインにライプツィヒで毎年開かれるバッハ音楽祭、それの2024年6月でカンタータ10、93、177番を演奏してほしいとの依頼が来ているらしい。らしいというよりも来ている。これが3度目のオッファー。1度目、2度目はコロナで渡独できなかった。そして3度目の熱いオッファーなのだ。世界的に定評のある音楽家、音楽団体が招かれている。バッハ・コレギウム・ジャパンも招かれたことがある。盛岡バッハ・カンタータ・フェラインが招かれることは、岩手にとって、盛岡にとって、大変な名誉。こんどこそ何としても実現となってほしい。そして何とか日本のメディアがこれを取材し、ドイツにも行くことのできない私たちに、その様子を届けてくれたならと願ってやまない。

22時18分更新。このブログ、時間設定で何度も失敗し、以来、この機能は使わなくなって久しい。いちいち時間をその時に書いておいているのは、そういうことです。2、3分違っていることがあるとしても、全く違っているなどということは一度もないはずです。という間にまた書き消えないうちに22時22分終了。

 

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230227 クラシック倶楽部を聴く 近藤岳 オルガン・リサイタル

作曲家でオルガニストの近藤岳が、横浜みなとみらいホールに設置されている4632本のパイプを擁する大オルガン(通称ルーシー)で演奏した公演からお送りします。
近藤は2022年から横浜みなとみらいホールのオルガニストに就任。ルーシーを駆使して幅広いジャンルのオルガン曲を紹介している。

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【曲目】
☆オルガン交響曲 第6番から 第1~第3楽章、第5楽章(ヴィドール)
 ヴィドールは1844年仏、リヨン生まれ。1869年聖シュルピス教会オルガニストに就任。1890年からオルガン・作曲の教授を務める。ヴィエルヌ、シュヴァイツァーを指導。
☆コラール第1番(3つのコラールから)(フランク)
【収録】2022年11月25日 横浜みなとみらいホール 大ホール

近藤岳のコメント
大学は藝大の作曲科に入りましたが、作曲科に入りました時に、オリヴィエ・メシアンにすごく傾倒していまして、ものすごくいろいろな作品を聴いたんですが、彼のオルガン曲に触れて行ったときに衝撃を受けたんですね。何としても彼が書いたこの楽譜のオルガンのページのすごさを自分の手で出して見たい。主専攻は作曲なんですが、副科といって別な授業、レッスンが受けることができるんですね。それで僕は迷わず副科オルガンを履修しました。そんなわけで、なんかメシアンだけがオルガンとの出会いというわけじゃないんですが、衝撃的な体験があって、ここが違う、うまく弾けるようになりたい、何としてももっと自分の表現できる楽器にはならないかなというところが、くすぶった思いがずっと続きまして、それでオルガンを専門的にやっていこうということで、20代の半ばからだんだん方向が変わっていったという感じです。 
 オルガンに名称がついている楽器というのはほんとうに珍しいですが、こちらの横浜みなとみらいホールには、ラテン語のルクス(lux)から由来するルーシーという名前が付けられている、光が意味するところは、やはりこの楽器の音色に共通していまして、非常に明るくのびやかでパワフルな楽器というのが一番最初に受けた印象でした。でもやはりだんだん時間をかけてこのホールと共に育まれて行って、非常にさまざまな表情がだせる楽器に変わってきたような気がします。ですからやはり豊かなのびやかな音に加えて繊細な表現であったり、オーケストラに匹敵するような強弱、そしてものすごく豊富な音色の彩をこの楽器は出すことができます。オルガンは発音体の魅力として持続音があげられますが、パイプに風が注がれ音が作られる楽器です。当然風が作られて楽器に注がれてそして鍵盤をずっと押している間中音が伸び続けて、鍵盤を戻すと音が鳴りやむ、そういう発音構造なんですが、そこを両手両足でセーブ、引き方を駆使するわけです。そうすることによって音のなり始めと音が鳴りやむ瞬間まで音がずーっと持続するのが、単旋律だけでもなかなか奥深いのに、それがさまざまな手足を使っていろんな声部で弾くというのは、身体ぜんぶで呼吸をしながら音を持続したり止んだり歌ったり、そういうふうなことがすべて伝わるというそのものの呼吸する楽器なので、やはり発音体としてすごくおもしろいですよね。やはりパイプからほとばしる風をどういうふうにつかうかということ、現代作曲家の作品もオルガン曲もすばらしくいい曲がたくさんあるんですが、発音体としてのおもしろさを自分でも引き出してみたい、それを形にしてみたいということを常々興味がわいているところなので、ますますまだやれることがあるんじゃないかということを模索しながらオルガン曲を書いているときがあります。

⛳11時9分

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きょうのことば「わたしはぶどうの木」ー説教・神谷光一牧師

 ここのところ、朝4~5時にかけて、といっても時間がすこしずれることはありますが、聖書を読み祈ることをしています。その前は、もうとても祈ることなどできなくなっていました。連日のウクライナの戦争報道。そこにトルコ・シリア地震。韓国のミサイル発射。コロナが沈静化したかに見えても、新薬が出たという朗報はあるけれど、これで収束するかどうかの見通しもない。核の危機は高まる一方。やはり気持ちがこれらに大きく支配されてしまっている。

 個人の平和、世界の平和、昔は自分が世界の平和を祈るなど可笑しくて笑い転げそうだったのが、今や自分みたいな者がなどと言っていられる状況ではなくなっているのだ。それでも、とにかく祈り、祈るうちに、事の深刻さにどこかがポキポキと折れ始める。この集合住宅にだってミサイル一発の着弾で日常が吹っ飛ぶ。この私が祈ったって何が変わるというのか、祈ったことが変わらなかったことはたくさんあるじゃないか。気分がこうなってくると、あの時あんなことを言ってしまったが、また人にこう思われてしまうな、などと余計なことまでがむくむくと頭を持ち上げてくる。もぐらだ。こんもりと土を持ち上げ出てくるあのモグラ。ひょこひょこ上がるモグラの頭をモグラたたきでいくらたたいても、これでもかこれでもかと次から次に出てくる始末。

 そしてはたと気づいた。余計なことは考えなくていいんだ。今までだって、自分の頭で考えたことの多くは大したことなかった。考えない方がまだましなことだってあったじゃないか。そして、どうにもならない、もうダメだ、不可抗力というマイナス言語さまたちにはお引き取り願った。「さま」というのは、これらのことばは実にいたずら好きで、こけおどしが好きで、人が意気消沈して目線を下げると拍手喝采。世の中のいたるところに君臨し、主導権を握っている。とにかく手に負えない困った輩。それでも捕まえられて牢にぶち込まれることもないために尚厄介。

 というわけで、それに気づいてからは、淡々と、次つぎに願いを神様に告げた。一応受領のハンコはついてくださった気がする。
けさもただ淡々と祈った。淡々と次つぎに申し上げた。際限ないほどに。

 

             ☆  ☆   ☆

 

IGM(インマヌエル)盛岡キリスト教会は、毎週日曜日、ズームで秋田教会の神谷光一牧師の説教をお聴きしています。
https://www.youtube.com/watch?v=VJK9YbtAIeU
是非クリックしてお聞きください。

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聖書朗読 ヨハネの福音書15章1~17節

1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。

4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 

⏰6時30分更新

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230224 クラシック倶楽部を聴く ウクライナの響き

ウクライナはプロコフィエフやホロヴィッツなど多くの音楽家を輩出してきた「音楽の宝庫」。歌劇のアリアから民謡まで多彩なウクライナの歌をお送りする。
【演奏】オクサーナ・ステパニュック(ソプラノ・バンドゥーラ)、デニス・ビシュニャ(バス)、比留間千里(ピアノ)、髙谷光信(指揮)、ヴァレンティン・シルヴェストロフ(ピアノ)ほかー番組紹介よりー

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ミコラ・ルイセンコはウクライナを代表する作曲家。バレンティン・シルヴェストロフはウクライナの現代に活躍する作曲家。


【曲目】
夜鳴きうぐいす(クロピヴニツキー)
ドニプロ川のワルツ(イホール・シャモー)
キーウの鳥の歌(秋再び)(ビラシュ)
バイオリン(ウクライナ民謡)
歌劇「タラス・ブーリバ」から「鷲(わし)が飛んでいる」(ルイセンコ)
「ドニプロ川に響くとどろき」(ミコラ・ルイセンコ )
果てなき荒野(ミコラ・ルイセンコ)
バンドゥーラを手に取り(ウクライナ民謡)
空の月(ウクライナ民謡)
清らかな空に星は輝く(ドミトロ・パヴリチコ作詩/オレクサンドル・ビラシュ作曲)
私のキーウ(ドミトロ・ルツェンコ作詞イホール・シャモー作曲)
ウクライナへの祈りパストラール(伝承詩/ヴァレンティン・シルヴェストロフ作曲)
パストラール<ドイツにおいて。シルヴェストロフのピアノ独奏>

 

オクサーナ・ステパニュックのコメント
歌うのはシャモ―作曲の「ドニプロ川のワルツです」。この曲は私にとってとても身近な曲です。歌詞にはウクライナの景色がたくさん表現されています。人は自分が生まれ育った場所や自分の民族の歌を聴くとき、先祖のエネルギーをもらっています。伝統を生みウクライナの宝である音楽を作り出した先人たちに深く感謝しています。歌に込められたウクライナの心や力を私たち歌手は自らの声で伝えるのです。
 毎日親戚や身近な人のことを祈っています。世界のどこにいても健康や幸せ、平和を祈っています。ウクライナに平和が訪れますように。

 

デニス・ビシュニャのコメント

伝記によるとルイセンコは小さい町を回り民謡などを集めました。その後、自分の作品の中でそれを表現していたのです。彼は自分の作品の中で昔ながらのウクライナの音楽文化を保護していたのです。また彼は自分の曲の歌詞をとても慎重に選びました。たとえば国民的詩人シェフチェンコの詩です。次に歌う「「ドニプロ川に響くとどろき」は、シェフチェンコの詩「プリチンナ」からの抜粋です。音楽とシェフチェンコの偉大な詩との結びつきはとても深遠なもので、ウクライナの文化を表現しています。
「私のキーウ」について、この曲が描くのはキーウの町、そしてウクライナの心や平和への思いが表現されています。今この曲の3番を歌うのはつらいです。「疲れた町は眠って平和な穏やかな眠りについている」。今は残念ながら平和に眠ることができません。でもこの状況を乗り越え、またマロニエ(キーウのシンボル)が咲きます。

 

ヴァレンティン・シルヴェストロフのコメント(22年4月16日ベルリンで)
いつ戻れるのか、この先どうなるのかという混沌とした不安。ここに来たらピアノがあった。何も考えないで座ったらそこに曲があった。私は自分が作曲家であるということすら忘れていた。私は音楽を続けたかった。でも音楽で戦うわけじゃない。「大砲がなるとき芸術の女神は黙る」ということわざがあります。芸術の女神は 沈黙しますが、大砲な無情な音を強調したいのではありません。芸術の女神は沈黙しつつも、別の“音域”に存在し続けます。音楽は“怒り”のゾーンにいながらも、戦争中は自らの怒りを抑えているのです。私は一人の人間として怒りを感じていますが、音楽でそれを表すことはしません。怒りの表現は敵をあおる可能性があるからです。怒りは味方だけでなく敵にも力を与えます。だから芸術の神は沈黙するのです。音楽は平和の価値を教えてくれます。地球上の一人ひとりの命の価値をです。

 

 

キーウの鳥の歌


秋ふたたび……
遠い南へとふたたび
鳥たちはウクライナより舞い上がる
空高く渦を巻きながら
遠くかなたへの道をゆく
夜鳴きうぐいすの歌が飛び去り
空のどこかに漂う
夜鳴きうぐいすの歌もなくウクライナは
いかにして生きていくのだろうか?

白鳥の歌は飛び去り
空のどこかで漂う
白鳥の歌もなくウクライナはいかにして生きていくのだろうか?
鶴の歌が飛び去った
ウクライナの鶴の歌が
鶴もなくウクライナは
いかにして冬を越えられるのだろうか?
秋が近づき…心は曇る
風は静まり夜更けの庭は薄暗い
私の心は南へ飛び去ったようで
戻ってはこない
夜鳴きうぐいすの歌は飛び去り
空のどこかを漂う
夜鳴きうぐいすの歌もなくウクライナは
いかにして生きていくのだろうか?

 

清らかな空に星は輝く


清らかな空に星は輝き
道は青い氷で燃えている
葉のない木のように
私の心は草原に立っている
葉のない木のように
私の心は草原に立っている
幸せな運命が
春の力を目覚めさせた
私の心はポプラの木のように
雪の中で緑になった

真実の愛が
ぬくもりを運んできた
私の心は桜のように
りんごの私の心は桜のように
雪の上に花を咲かせた

 

光り輝く友情が
永遠に訪れ
私の心は雪の上で
リンゴの実をつけて立っている
私の心は雪の上で
リンゴの実をつけて立っている
                             字幕 髙谷公子

 

 

私のキーウ


緑の樹々が海のように波うち
静かな一日の夕陽が燃え尽きようとしている
ドニプロの川岸の傾斜も
私には親しいものとなり
そこで愛おしい数々の夢が
枝を広げ揺り動かしている……
どうしておまえを愛さずにはいられよう
私のキーウよ!
そこで愛おしい数々の夢が
枝を広げ揺り動かしている……
どうしておまえを愛さずにはいられよう
私のキーウよ!
カンナの花々が私を見つめ
私はそれらに私の思いのたけを託す
愛しい人に私の誠実な愛を
伝えてもらおうと
私は夢見そして生きる
希望の翼をはばたかせて……
どうしておまえを愛さずにはいられよう
私のキーウよ!

 

疲れた町は眠っている
平和な穏やかな眠りについている
ごらん ドニプロ川の上で
首飾りのように明かりが輝き始めた
ビロードのような宵闇が
幸せの波となって岸に打ち寄せる……
どうしておまえを愛さずにはいられよう
私のキーウよ!
ビロードのような宵闇が
幸せの波となって岸に打ち寄せる……
どうしておまえを愛さずにはいられよう
私のキーウよ!
私のキーウよ!
私のキーウよ!
                             字幕 竹内高明



ウクライナに平和を


神よウクライナを守ってください
私たちに力、信仰、希望を与えてください
神よウクライナを守ってください
神よウクライナを守ってください
私たちに力、信仰、希望を与えてください
神よウクライナを守ってください
私たちの父よ


 

⏰13時36分更新

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ダムラウ&カウフマン デュオ・コンサートII

オペラ界屈指の人気と実力を誇るスター歌手ディアナ・ダムラウとヨナス・カウフマンがウィーン楽友協会大ホールに登場。シューマンとブラームスの愛にまつわる歌曲を歌う。

【曲目】歌曲集 作品71から「秘密」(ブラームス)、二重唱曲集 作品78から「彼と彼女」(シューマン)、歌曲集 作品40から「裏切られた愛」(シューマン)、歌曲集 作品47から「恋人の手紙」(ブラームス)ほか【演奏】ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、ヨナス・カウフマン(テノール)、ヘルムート・ドイッチュ(ピアノ)【収録】2022年4月13日 ウィーン楽友協会大ホール(オーストリア)

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🎵楽友協会小ホールで最初にピアノを演奏したのはシューマンの妻クララだったようだ。屈指のオペラ歌手が歌う歌曲。


🎧名曲アルバム。「アルフォンシーナと海」
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⛳6時45分更新

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230221 ・230220 クラシック倶楽部を聴く 

230221 クラシック俱楽部を聴く ダムラウ&カウフマン デュオ・コンサートI

オペラ界屈指の人気と実力を誇るスター歌手ディアナ・ダムラウとヨナス・カウフマンがウィーン楽友協会大ホールに登場。シューマンとブラームスの愛にまつわる歌曲を歌う。

【曲目】歌曲集「ミルテの花」作品25から「献呈」(シューマン)、十二の詩 作品35から「ひそかな涙」(シューマン)、歌曲集 作品72から「失望」(ブラームス)、歌曲集 作品57から「私は夢を見た」(ブラームス)ほか【演奏】ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)、ヨナス・カウフマン(テノール)、ヘルムート・ドイッチュ(ピアノ)【収録】2022年4月13日 ウィーン楽友協会大ホール(オーストリア)ー番組紹介よりー
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🎵ウィーン楽友協会の大ホール、ザルツブルク音楽祭でもホールの照明が暗いと感じたけれども、舞台設備が旧式なのか、はたまたこういった演出なのか分からない。何れネイティブな響き。自然な歌唱。すべて愛にまつわる歌だけれども、個人的には、今日は、きょうはというのは、聴く時の心境によっても、受け入れの度合いが異なることから、今日は、どこか寂し気なブラームスの「響き」、シューマンの「悲劇」が心に沁みた。向こうの劇場のすばらしさ。天井の数ある装飾の中から一角、一枚を載せてみた。

 

🎧名曲アルバム。チャイコフスキーの「四季」から1月と11月。
トロイカとペチカの映像。
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金子三勇士のピアノ。宿場から宿場に人と荷物を運んだトロイカ。馬への愛情あふれる一枚、そして載せてはいないが、ロシアの家庭で、家族がそろってペチカに温もりながら食事をしているようすも入っていたが、今ウクライナの人たちは……。

                                              

☆  ☆  ☆

 

230220 クラシック倶楽部を聴く ハンサム三兄弟

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🎵編曲でちょっと砕けて、楽しい歌唱。

🎧名曲アルバム。ガーシュイン「パリのアメリカ人」
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ガーシュインがパリを訪れたのはたしか1928年。自動車産業の勃興期。たぶん彼はこんな車に目を輝かせたかなと。

⛳一応全部記録は取ってあるものの、更新は追いつかず。

7時15分更新

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きょうのことば「わたしの証人となります」ー説教・神谷光一牧師ー

あしたは、というよりも、もう今日になってしまっている。日曜日だ。日曜日にひとことでも神のことばを載せなければ。唐突なはなしだけれども、先ごろ聴いた演奏会「ライプツィヒへの旅で」のレクチャーで聞いた話の受け売りになるが、バッハは、次の日曜日に教会で演奏する曲を、2日がかりでぜんぶ書きあげてパート譜を書き、それを各声部のパートやコーラスに渡し、オーケストラに渡し、さらにそれぞれに稽古をつけ訓練して回って、土曜日にはソリストも入って合わせて、いよいよ日曜日が本番。礼拝音楽として演奏していたという。年間50~60曲書いていたというから驚く。
 そのまねをしていたわけでも何でもないけれども、これまで、私もある時点からとにかく日曜日には、もちろん作曲ではないが、牧師の説教の公開を義務付けてきた。私の場合は、牧者のご苦労というものは並々のことではなく、新興宗教のように信者から無理な寄付を集めてもいない。もっぱら清貧を貫き伝道、牧会を続け、そして、他の教団のことはわからないが、社会的に見ると考えられないほど僅かな退職金。それでも不平不満を聞いたこともなく、まして賃上げ闘争とは無縁の世界。それぞれの信念で献身してるのだからといった捉え方もあるだろうけれども、それでいいんだろうか。だいたい世の中的に名を成すということも多くの場合は、眼中にない。イエス様の名が崇められること、イエス様のお救いを伝える事、そして信じる方に永遠のいのちを示すこと、それが肝心であり大事であるのだが、そして自分の名は出さない。
 毎週の説教を一般の方々、一人にでも読んでいただけたなら、そんな思いで日曜には説教を起こしてブログ掲載をさせていただいた。
 終盤はひろ子牧師の病状に、祈りつつも緊迫感を持ちながら、日曜日には間に合わせて説教を書かせていただいていた。そして、牧師夫妻が呉に転居されてほどなく、ひろ子牧師の癌が消えていたことを知らされ、一挙に緊張がゆるみ、そして、こんど秋田から牧会してくださる神谷先生は、説教をご自分でユーチューブにしておられるので、聴く者がこれを起こして筆記する必要がない。この方が後で起こすよりもどれだけ正確であることか。
 このような事態の急変に、日曜のブログのあり様もどうすべきか判断がつかないままに時を過ごしてしまったけれども、近づくは日曜日、というよりはもう来てしまった日曜日。どうにかせねば、という思いが過る中、とにかくPCに打ち込むうちに出てきた考えは、考えというほどのものでもなく、そういう流れで思ったことは、形式にとらわれず、パターン化せずに、楽な気持ちで、その時々を綴り、あとはユーチューブを見ていただく。このようなリラックス態勢で、最後には、カタンと一文字しか書く力が無くなるまで続けてみようとの心境にいたりました。

       ☆   ☆   ☆

 

インマヌエル秋田教会の神谷光一牧師の説教をお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=vMc3sosucb0
聖書朗読箇所 使徒の働き1章3~14節

3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
6 そこで、使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち。どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 

⏰3時36分更新

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きょうのことば「主は成し遂げてくださる」

インマヌエル盛岡キリスト教会2023年2月5日の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。説教は呉からのズーム配信です。教会総会のあるこの日をもって、國光牧師夫妻は正式に引退されます。こんど盛岡教会を兼牧される秋田教会の神谷先生、副牧となられる細田先生がお見えになりました。
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國光ひろ子牧師、引退のご挨拶
 皆様おはようございます。杉本先生の時から親しいお交わりをいただいている秋田教会の皆様と、ズームによる合同礼拝になっております。盛岡教会にとっては、神谷先生ご夫妻と細田先生においでいただいての教会総会の朝でもあります。
 大切な時間ですが、一言、長いお交わりをいただきました皆様にご挨拶させていただきたいと思います。
 教団あげての全国、一つの県に一つのインマヌエル教会をとの願いと祈りが叶えられて、この岩手県にインマヌエル盛岡キリスト教会が開設される運びとなった年、1974年3月の年会において任命をいただき、私どもは遣わされてまいりました。それから49年間の奉仕がゆるされました。そして、今朝の教会総会をもって引退することになっております。主の憐れみと皆様の尊いお祈りに支えられて、最後の講壇に立たせていただけますことを、心から感謝しています。また小さい者のためには、格別にお祈りいただいておりますことを、本当に心から感謝いたします。2008年から、度々入院や手術をしてまいりましたので、皆様にもご心配いただきました。さらに、19年に膵臓癌がわかってからは、多方面から切なるお祈りをいただき、ほんとうに有難うございました。
 昨年11月に主に導かれて呉に参りまして、再検査が為されました。丁寧な検査の結果、肝臓への転移の影はない。間質性肺炎にもなっていない。腫瘍マーカーの数値の心配もない。だから抗癌剤を飲む必要がないと告げられました。ただ、ただ驚き、主の憐れみと皆様のお祈りのゆえと心から感謝しています。これからこの呉の地にあって、主がお許しくださるあいだ、恵みの証人として用いていただけるなら、それは大きな大きな恵みであります。しかし担当の医師が仰るように、転移したら命は秒読みにはいる。それが膵臓癌というものですと言われております。そのような状況になったとしても、それも恵みと感謝して受けたいと願っています。尚お祈りを宜しくお願いいたします。有難うございました。

 

     ☆   ☆   ☆


説教題 「主は成し遂げてくださる」 國光勝美 牧師
聖書引証 詩篇138篇1~8節
詩篇 138篇1~8節
1 心を尽くして、私はあなたに感謝をささげます。御使いたちの前で、あなたをほめ歌います。
2 私は、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、恵みとまことのゆえに、御名に感謝します。あなたがご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられたからです。
3 私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。
4 主よ。地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。
5 彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。
6 まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を、遠くから見抜かれます。
7 私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。
8 主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。

 

《メッセージ》

 改めて皆様方に心からの感謝と共に、短いみことばの恵みをともにさせていただきたく願っております。今日お開き致しました詩篇138:8「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」

 このおことばは、この度の私どもに大きな変化をもたらすできごとに折々に心の中に励ましのように与えられていたおことばでございます。49年間の盛岡教会でのご奉仕を締めくくらせていただきます。言葉に言い尽くし得ませんほどの皆様方からいただいたご愛とご忍耐を心から感謝を申し上げますとともに、このような小さいものたちでありましたけれども、イエス様の体なる教会を建て上げるというこれ以上ない尊い働きに人生の大半を用いることがゆるされたということは、この上ない特権であり、感謝であります。本当に有難うございました。

 きょうは教会総会を前に、神谷先生ご夫妻を秋田から、それから協力牧師BA(ブロック・アドバイザー)として、細田先生を仙台からお迎えした礼拝でありますし、格別に秋田の皆様方とは、ズームによって共に主を礼拝しております。このご協力をいただいておりますことを感謝を申し上げます。

 

 きょう私は、この138篇のおことばに集中して、短く証しをさせていただきたいと思っております。
 
先ほど、ひろ子先生がご挨拶をいたしましたけれども、おそらく牧師夫人の膵臓癌ということがなかったのならば、このような急激な展開はなかったでしょう。しかし、2019年の東北聖会が終わってから、そのことが発見され、いわゆる闘病生活が始まって今日に至ったわけであります。その間、さまざまな出来事、恵みがありました。その中の一つ、それは去年の夏の東北聖会であります。これは、秋田の皆さん方、仙台の先生もよくご存じでありますけれども、日本イエス・キリスト教団の工藤弘雄先生ご夫妻を東北聖会にお招きしたことです。そしてそのホスト教会として盛岡教会を使うことを主はおゆるしくださった、もうこれが幾重にも幾重にも大きな私は恵みであったと心からこの恵みを振り返っております。
 「大いなる光景を見る」というテーマのもとに3回にわたる先生からのメッセージがありました。そしてまた、ご夫人の証しがございました。工藤先生方は、ピアニストであられたお嬢様の工藤真史姉を癌で天にお送りするという経験をしておられました。先生ご夫妻が盛岡にいらっしゃるときに、ひろ子先生が今このような闘病にあるということを、来てからご存じになるよりも、知っておられた方がかえっていいだろうと思いまして、メールでのやり取りの中で、ひろ子先生が膵臓癌になっておりますのでお祈り下さいとだけお伝えしておき、そして当日先生方をお迎えいたしました。
 しかしその後、こういうことがきっかけとなりまして、私は今このように導かれております広島県呉のベタ二ヤホームというところに二人して入居するということに道がちょうど開かれつつあるときでございました。先生は私たちが動くということを聞かれて、非常に驚きなさいまして、それから盛岡教会のことども、そしてひろ子先生のことども、三日間にわたります集会の合間に、ほんとうに祈って導いてくださいました。 
 聖会のあいだ、先生の宿舎は、網張温泉というところに取らせていただきました。そこのところでの滞在をなさるとき、いつも小岩井農場のところを通ってまいります。そこへの行き帰りに小岩井農場を通ります。小岩井農場を過ぎてさらに網張温泉の方に行くちょうどその中間に、すこし小岩井農場寄りなんですけれども、、私の大好きな祈りの山、鞍掛山があります。私は工藤先生方に、この今回の導き、ベタ二ヤの導き、それからひろ子先生の癌の癒しの事、私はこの鞍掛山で注ぎだした祈りをずっと続けるときが与えられました。先生もそのところで、心をとめてくださいまして、ああ、この山ですか。私は、この鞍掛山でありのまま神様に祈ったこと、悔い改めたこと、励まされたこと、力をいただいたこと、それを率直にお話しいたしました。
 三日間はあっという間に終わりました。

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 先生を盛岡駅にお送りするとき、すっかりいろいろな面で打ち解け、何でもお話しできる、聴いていただける、そのような中で、工藤先生が、「ところで、國光先生、浅間温泉ってご存じですか」と訊かれたんです。私は盛岡で長く牧会していますけれども、高校までは長野県の松本が私のふるさとであります。工藤先生は長野県の諏訪湖の近く岡谷というところの出身ですから、そんな関わりからでもあったんでしょう。私は突然浅間温泉という名前が出てきたことにびっくりいたしまして、「ご存じですかどころではありません。実は私、浅間温泉に高校までいたんです」。そしたら先生が、「あそこから見た北アルプスはきれいですね。そして、あそこに常念岳というきれいな山がありますよね」。これを聞いて私はまた驚きました。私は、49年にわたる牧会生活の中で、会員の方々には何回かお話をしておりますけれども、一度だけ、どうしても矢も楯もたまらず我ままをいって、盛岡の日曜の礼拝が終わった後、月曜日早朝にクルマで長野県の松本まで走り、そして、火曜日の日に常念岳に登ったことがあります。これは安曇野という所にある近くの山々なんですが、私の大好きな一度は登ってみたいと思っていた山だったものですから、そこに登りまして、そして水曜日は祈祷会がありますから、高速で盛岡に帰ってきたという、それほど私にとっては格別な思いのあるところでありましたけれども。工藤先生には、たぶんいろいろな背景がおありでしたでしょう。ここでは省略するのですけれども、癌で時が残り少なくなっておられる真史さん、それから奥さんもご一緒にその浅間温泉で泊ったというのです。その時に「真史、見てご覧、きれいな山だろう、あれが常念岳というんだ」こんなお話をしたということをお聞きしました。時間がもっとあればよかったのですけれども、出発の時間になってしまって。そのまま先生とお別れしたのです。


 どうしてここで、このようなお話をしたかといいますと、ひろ子先生が主の導きのもとに私と一緒に呉のベタ二ヤホームに来ました。ところが、たまたまそこから歩いて20分ぐらいのところに、国立がんセンターという大きな病院があったのです。それまで岩手県立中央病院の方で、いろいろ治療を受けさせていただいたぜんぶの資料をこんどは呉の国立がんセンターという大きな病院に移していただいて、初めて主治医の先生とお会いいたしました。その時は先生も私たちと初対面でありましたから、先生は先生なりに初めてという緊張もあったんでしょうけれども、私たちが、「実は私たちはクリスチャンなんです」とお話をしたところ、先生が、「おおーそうですか」と緊張を解かれた。要するに生きる死ぬということについては、医師は医師としての立場で、牧師は牧師としての立場で、ある意味それぞれの専門的な関係にありますから。それで、私たちに遠慮くなはなしをしてくださって、「わかりました。じゃもう一度納得がいくように検査をさせてください」。
 そして、その結果、まったく癌の治療は必要ないというそういうお話を先生から頂いた時、「夢見る者のごとくなりき」ということばがありますけれども、突然にこれまでのあらゆる覚悟や緊張から解放され夢でも見ているような心持ちでした。
 ちょうどその日と同じ日だったと記憶しておりますけれども、私は、病院をよく知りたいなと思いまして、病院の地下の方まで行ってみました。病院の通路には、いろいろな美術品が掛けられています。雰囲気づくり、患者の心の癒しのためでしょう。きれいな絵を何点か飾ってあるんです。その地下一階の通用口の広い廊下のところに、一枚の絵があったんです。私はその絵を見た時に、ほんとうに足が震えるような思いで佇んでしまいました。絵ですから写真とは違うのです。でもそれは明らかに私が大好きな常念岳の絵でした。常念岳は百名山の一つではありますが、富士山とか槍穂高というような山に比べるとマイナー、でもその私の愛してやまない常念岳の絵が、ひろ子先生の癌が見つからないと聴いたその日に病院の廊下にあったことに気づき、これを見た時に、神様はここに導いて下さった、しかもその主治医の先生は膵臓癌を研究しておられる方だと知りました。これらの事を思ったとき、私は、「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます」というこのおことばに非常な励ましと慰めを受けました。主は導き、成し遂げてくださる。当然のことながら、私は、一連のこの出来事を神様は成し遂げて下さったのだという思いを一層深くしました。


 しかし、もう一たび、よくよく考えてみるときに、これは盛岡教会のためということも当然入っていることなのだと思います。私が呉に移る。盛岡教会に、こんど神様のご配慮のもとに、すばらしい先生方が与えられる。そう、神様は、盛岡教会のために、「我に係れることをまっとうしてくださる」。成し遂げてくださる。神様の恵みはとこしえにある。「主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください」。そうです。これは、何か少しでも私心のある、そんな意味での祈りでは決してない。「あなたの御手のわざ」じゃありませんか。これは、私たちの肉的なそういったものでもなくして、神様のみわざです。どうか、神様の「御手のわざをやめないでください」。神様の恵みはとこしえにある。この常念岳の絵は、その呉の病院の地下通路のところに、いくつかの絵と一緒に飾られていたものでした。まさに、広島のまさか呉の病院の、まさか家内のこの検査の結果を受けた日にこれに気づこうとは! 

 去年の12月、私が転居するということで、ベタ二ヤホームの住所を書いた、ご挨拶を関係する方々にお送りしました。その中に当然のことながら工藤先生、お世話になりましたのでその転居先の住所などをお出ししてあったのですが、その翌日、クリスマスの翌日の夜、工藤先生からお電話が入りました。「ひろ子先生どうですか」。あの案内では、あの大きな恵みをいただいたとは書いてありましたけれども、先生、こうだったんです。そしたら、ほんとうにご夫妻が、電話越しで、「良かったですね先生」。私はその時に工藤先生に思い切って伺ったんです。一生懸命にお祈りをされた真史さん、どれほど癒しを祈ったか。ご夫妻、電話の向こうで、「ほんとうに私たち、祈りました。癒してください、祈りました。でもね先生、真史は召される最期まで苦しいところさまざまなピアニストとしての奉仕をしながら、彼女は輝いて天に帰っていったんです。先生、癒されることも神様の恵みです。だけども、癒されないで天に帰っていくことも、これもすばらしい神様の恵みということを私たちは知っています」。こういって祈って下さいました。私は、盛岡の方々に、そして或いは秋田の皆さん方にも、申し上げたい。私たちが信じている神様は、ご利益宗教の神様じゃない。わたしのためにすべてのことを成し遂げてくださるお方、このお方に心からの祈りを捧げる、これこそ、きよめじゃないんでしょうか。神様のために、自分のすべてをお捧げして神様のために生きるというこの目的で生きていく人たちであるのならば、我にかかわることを全うしてくださる。このことを私は確信をもってきょう証しをさせていただきたいと思うのです。どうぞ病の苦しみの中にある方がた、「エホバ我に係ることを全うし給わん。汝の恵みはとこしえなり」、このお方に、心から祈って神様の導きを癒しを恵みを祈らせていただきたいと存じます。説教というよりは、証しのようになりましたけれども、これで、締めくくらせていただきます。

 

※文責:中ぶんな
⏰9時6分更新

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230209 クラシック倶楽部を聴く チョン・キョンファ バイオリン・リサイタル I

巨匠バイオリニスト70歳の記念演奏会。2005年、指の怪我で舞台を離れたキョンファ。その時向き合ったのがバッハだった。5年の活動休止を乗り越え、奏でる音楽とは
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チョン・キョンファ
1948
年韓国生まれ。6歳の時運命の楽器バイオリンに出あう。僅か12歳で家族と離れ、アメリカの名門ジュリアード音楽院で学ぶ。デビユーから50年以上、世界を舞台に活躍。今回は彼女が最も信頼を寄せるケヴィン・ケナーと共演。197022歳の時、ロンドン交響楽団アンドレ・プレヴィンと共演し華々しくヨーロッパデヴュー。世界の聴衆から喝さいを受ける日々が30年以上続く。しかし、2005年、突然、活動を休止。左手人差し指を痛めてしまう。これまでともに歩んできたバイオリンを失う。そのとき向き合ったのはバッハの無伴奏作品だった。 

コメント
 
 世界有数のバイオリニストになるなんて考えてもみませんでした。バイオリン、特にその音色に魅了されこの年までひたすら情熱を注ぎ、演奏することに喜びを感じてきました。
「人々に音楽を届けたい」この思いが私を駆り立てたのです。
初めてモーツァルトを弾いた幼い日、美しさ、みずみずしさに圧倒されました。
若い頃は夢がいっぱいでした。練習の時も架空の聴衆に向けて音楽を奏で、壁さえも私の聴衆だと感じていました。「音楽を届けたい」という思いに突き動かされていたのです。
  指を痛めてからは、楽器をおいて内省すること。頭の中だけで音楽を解釈し、和声を捉え流れを作るこれまでにない練習の日々でした。寝る時もバッハのフーガが頭をめぐり、音楽を構築していました。どの音も沈思黙考から生まれたものです。昔は一音でも間違えると落ち込んだものです。できない自分をどうしても許せなかった。
 もはや技術的に完璧な演奏はできません。肉体的な限界を感じます。しかし今の私が求めるのは、心に残る音が響く特別な瞬間を聴衆と分かち合うことです。
 若い時は「無の境地」なんて馬鹿にして常に何かを得ようと突き進んでいました。今は「無」こそが自由だと思うのです。
 人間の一生は束縛との闘いです。それは受胎の瞬間から始まります。9か月で誕生しお乳をもらうために泣き叫ぶ。そして最初の一歩、大人は感激しますが、赤ん坊には試練です。色々な経験をしながら一生を終える。たった一度の人生をどう生きるか、人生という旅の途中で何を発見するか、そこに深い意味を見出せるかは自分次第。自問自答を続けることが大切で、それなしでは演奏できません。
 一音一音を自らに問いかけ生み出す、それが今の私の音楽です。

 

【曲目】
ヴォカリーズ(ラフマニノフ作曲)
シャコンヌ(バッハ作曲)
バイオリン・ソナタ(フランク作曲)

🎵キョンファの表情、時として意地の強さを感じさせる。そこが好きだ。昔は逆だった。優し気なたおやかな雰囲気に順応していた。それがなぜか今のキョンファを聴くうちにそうなってしまった。
 「ヴォカリーズ」に先立って、キョンファが「この曲は彼(ケナー)が選んだのよ。私はもっと楽しいのにしたかったのに」とジョークをとばす。懐かしみを帯びた音が輝いている。そして「シャコンヌ」。これはもう桁違いの絶品という感じが。まさしく闇を切りひらき、闇の只中を光をまといながら地歩を固め確かに歩み進んでいくという演奏に感動! フランクの「バイオリン・ソナタ」、これが同じフレーズの循環形式。キョンファはこれぞ「人間の一生である」と。70歳にしてキョンファがたどり着いた境地。キョンファが巨匠と呼ばれる所以にけさも肯く。

 

🎧名曲アルバム。「笛の楽園」から「涙のパヴァーヌ」。エイク作曲、江崎浩司・編曲。
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リコーダー:江崎浩司、チェロ:高群輝夫、チェンバロ:長久真実子
1590
年オランダ南部の小さな町ハウスデン生まれのヤコブ・ファン・エイク。1625年活躍の場を求めてユトレヒトで音楽活動。カリヨン奏者でありリコーダーの名手。盲目であったが街の音楽の指導者となる。彼が亡くなったときに、街中のカリヨンが鳴り続けたという。さまざまな音楽家の死を知るにつけ、何と素晴らしい葬送を受けたものであろうか。澄んだ笛の音がよぎる。

 

⛳とりあえず6時37分更新。写真追加して9時51分。

 

 

                ☆   ☆   ☆

2月1日分を追加

230201 クラシック倶楽部を聴く バリー・ダグラス ピアノ・リサイタル
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1960年北アイルランド生まれ。ロンドン王立音楽院で学ぶ。1986年にチャイコフスキー国際コンクールで第1位を獲得し、国際的ピアニストの地位を獲得。【収録】2022年5月11日 東京オペラシティコンサートホールで収録。

コメント
さまざまな楽器を演奏してきました。クラリネットが最初のお気に入りの楽器でした。他にはチェロ、オルガン、ティンパニーなども演奏しました。そして偶然ピアノに会い恋をしてしまいまいました。コンサートでピアノを弾くとき、どんな響きをするのか分からない方がいいのです。だからこそ想像力を働かせて創造しています。心がけているのは、クリエイティブであること。それが私の仕事です。
ムソルグスキーの「展覧会の絵」は若いころからこの曲を弾いていたので、私にとっては旧友のようなものです。何年か弾かない時期を経て、再び取り組みました。自宅で弾いた時、あることに気づいたからです。ある人から入手した自筆譜見て、出版された楽譜では気づかない多くのことを発見しました。それで15年前ごろに再び弾き始めましたがまたやめてしまいました。あまり頻繁に弾くと親友でも嫌になってしまうし、嫌われてしまうかもしれないと心配ですからね。そのため2,3年ごとに5,6回演奏したあと一旦距離を置いています。友人との距離は大切です。

【曲目】
☆4つの即興曲 D.899から 第1曲 ハ短調 (シューベルト)
☆四季 作品37bから六月「舟歌」
☆十月「秋の歌」(チャイコフスキー)
☆組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)

 ムソルグスキーはこの曲を親友の建築家で画家のハルトマンの死を悲しみ、1874年に開催された遺作展を見て書いた。絵に因んだ10曲の小品と前奏、間奏の役割を担うプロムナードで構成されている。

🎧名曲アルバム。「歌劇“ジャンニ・スキッキ”」プッチーニ作曲。飯森&東京フィル、ソプラノ砂川涼子

プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から有名なソプラノのアリア「私のお父さん」とテノールのアリア「フィレンツェは花咲く木のように」をお送りする。プッチーニはサン・ミケーレ・イン・フォーロ教会のオルガニスト。
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⛳あらかじめ書き置いたものをアップ。9日9時58分更新

 

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クラシック倶楽部を更新しようとして

 2月1日分のクラシック倶楽部からを更新しようとして一応書いたところまではよかったが、そちこち参考に開いたページをバチバチと消しているうちに、勢いがついた指先が、せっかく書いた更新頁までをバチっと。忽然と消えたあとをしげしげと眺めながら、急ぐあまりに注意力を利かせられなかったことを悔やむというのは大袈裟で、ああ、またやっちゃった! 朝の音楽の恩恵は自分の内にとどめ置くだけになる日が近い。

 

⛳21時31分更新

 

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きょうのことば「恵みはとこしえまで」

インマヌエル盛岡キリスト教会2023年1月29日の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。この日は呉からのズーム配信で、ひろ子牧師のお話です。

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説教題 「恵みはとこしえまで」
聖書引証 詩篇136篇1~4節、23~26節
1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
2 神の神であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
3 主の主であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
4 ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。主の恵みはとこしえまで。

23私たちが卑しめられたとき、主は心に留められた。主の恵みはとこしえまで。
24 そして、主は私たちを敵から解き放たれた。主の恵みはとこしえまで。
25 主はすべての肉なる者に食物を与える方。主の恵みはとこしえまで。
26 天の神に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。

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《メッセージ》

 みなさまおはようございます。今朝は、小さい者が講壇に立たせていただいております。
 この49年、あるいは大雑把に言いますと50年を振り返って、一つのみことばが心にあるとするならば、神様への感謝を表すという意味で、今開かせていただきました詩篇136篇の1節でございます。

(新改訳2017)主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
(新共同訳聖書)恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。

(口語訳聖書) 主に感謝せよ、主は恵みふかく、 そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
そして長く親しみました文語訳では
(文語訳聖書) ヱホバに感謝せよヱホバはめぐみふかし その憐憫はとこしへに絶ることなければなり。

 それぞれの訳がこのように出ておりますが、どのように訳されても、主の恵みはとても深く、そして決して絶えることがないのだということを、この詩篇136篇は語っております。解説を見ましたならば、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。」というこの前半の部分を、一人あるいは聖歌隊の人たちが歌って、会衆がそれに合わせて「主の恵みはとこしえまで」とリズミカルに応答するというように朗誦されていたのではないかと書かれておりました。私たちもそれに倣わせていただけたら嬉しいなと思いまして、このメッセージの最後に、皆さんと一緒に、詩篇をこの形式で読ませていただくことができたらと思っております。


 一人でこの詩を読んでおります時、実感としてしみじみこのみことばの確かであるということを納得しました。
ヱホバはめぐみふかし その憐憫はとこしへに絶ることなければなり。

 引退を前に50年の恵みを振り返る時が与えられておりますことを心から感謝いたします。
 
振り返って一番最初に心に掛かりましたのは、私たちが盛岡に来てすぐのころのこと、それから、盛岡を発って呉に来る直前の事です。ほんとうにそれをまざまざと思い出しました。特に昨年の8月頃から始まった引っ越しの準備の中で、私は不思議なほど体は元気なのですけれども、頭がぼーっとして行動に付いてきていないという感覚でした。一生懸命考えてしたことが、後で考えてなぜこのような結論に達したのか分からないと思うことが度々ありました。自分に自信も確信も持てなくなった一時期があり、特にS姉には迷惑をおかけしたこと、ほんとうに申し訳なくお詫びいたします。

 今からそれこそ50年前、1974年4月。正確に言えば49年前の4月の直前の年会において、思いがけなく盛岡の開拓を命じられました。その開拓というのは簡単なことではありませんで、教団で一つの県に一つの教会をという大きな目標がありました。そしてその中で最後に残ったのは岩手県でした。その岩手県の盛岡に開拓を命じられたのです。緊張しながら日曜日の晩、国鉄のストライキの直後の夜行列車に乗って私たちは岩手に参りました。すこしでも早く盛岡に来たいと思ったからです。そして盛岡駅に、今とは全く違う昔の盛岡駅に到着して、当時、この教団の教区長であられた河村襄先生に教えられたとおりのバスに乗って天昌寺前で降りて、地図を頼りに前もって用意されていた家にたどり着くことができました。周囲は家が少なく、田や畑が多くありました。

 先ず日曜日の礼拝を二人で終えて午後から生活するための準備を始めました。何もありません。水道も出ません。電気は点きましたけれども、水道も出ないような状況でありました。近くにお店がありませんので、バス停近くのタバコ屋さんで尋ねますと、「舘坂橋の交差点のところに食品と衣料雑貨のスーパーがあるからそこに行くといい」と言われました。さっそくバケツや箒、塵取りなど、先ず掃除用具を買ってきました。そして、教会での営みがスタートいたしました。

 初めに教会学校から始めました。小さなポスターをベランダに一枚貼りだしましたが、50人ほどの子どもたちが集まってきました。小さな6畳間がぎゅうぎゅうでした。そのうちの10名ほどが毎週日曜日の朝になると集まってくるようになり、教会学校は順調にスタートしました。けれども、手製のトラクトを配布し始めましたが、教会にいらっしゃる方はありませんでした。そんな中で、はじめの3か月ほど、日曜日の朝の礼拝は、座布団を2枚敷いて向かい合って座り、一人は説教者、一人は聴衆ということで、ほんとうに何をしてるのかというような感じの礼拝でありましたが、みことばが語られていますので、恵みをいただくことができました。そんな中である時、これでは、はじめから誰も来ないと決めつけているように思いましたので、日曜日の朝は、その当時会堂として使っていました2階の6畳間、そこにあるだけの椅子を並べました。あるだけといっても10客ほどですけれども並べておりましたら、外で声がして、近くの看護学校の寮から教会の案内を見た看護学生の方々が3、4人いらっしゃいました。私たちがもしこのときも座布団を2つ並べて礼拝をしていたら、ほんとうに大慌てになったと思います。それをご覧になった学生さんたちも気まずい思いに戸惑われたのではないでしょうか。

 まもなく神学生の夏期実習が始まり、3人の男子神学生が、これから新しく始まろうとする教会のために一生懸命に労してくださいました。また、開拓伝道集会の会場をどこにするかも、怖いもの知らずの新米の牧師の大胆な交渉によって決まりました。農業協同組合の会館ホールだったと思います。そこで初めての開拓伝道集会を開きました。多くの方が来てくださいました。そのような中で、最後の締めくくりの日曜日の礼拝はまた教会に戻って礼拝を守ることになりました。その時に洗礼式が持たれました。ほんとうに奇跡的なことだと思いますし、河村先生があんなことは初めてだと仰いましたが、開拓伝道集会をしたその最後の日曜日教会に戻って、その時に洗礼式をすることができました。この時に洗礼を受けられたのが、当時のN姉、現在のK姉と老ご夫妻の3人でした。その年のクリスマスに洗礼を受けられたのが当時のA姉、現在のS姉です。お二人の姉妹は、私たちもまだ新米の時から教会と私たちをほんとうに支え続けてきてくださいました。洗礼を受けられた老ご夫妻のことが気に掛かると思いますが、その老ご夫妻はご自分の意志でもなく家庭の事情で教会にいらっしゃることができなくなりました。本当に長い間このお二人のことは心から離れたことがありませんでしたけれども、今から2年ほど前に、イースターの午後の墓前礼拝の日、穴口の墓地にあるOさんの墓地に行きました時、偶然その方のお二人のお名前を墓地の墓標の中に見つけました。ほんとうにびっくりしながら喜びました。そして、何と神様は深い憐れみを持って私たちを見ていてくださるものだろうかと、ほんとうにそういう思いがいたしました。

 私たちが開拓のために盛岡に来まして、初めての教会は、棟割りで二軒の家が壁で仕切られて別々の家になっておりました。半分を教会が使い、そのもう半分はあるご夫妻がお使いになっておられました。その方々はほんとうに親切な優しい方々で、私たちが盛岡で生きていくための術を教えてくださいました。それから盛岡弁の特訓も受けました。ほんとうにそのようにして、私たちは愛に囲まれて伝道に力を注ぐことができました。三年間はその棟割りの住宅に住んでいましたが、夜になると辺りは真っ暗になります。教会員でも道に迷い、教会にたどり着くことができないこともありました。そんな折に、何とか新しい場所をと祈り始めました。ある時、酔っ払いの男の人がやってきました。「こんなところではだめだ。ここよりいいところがあるぞ」と天昌寺交差点近くにある一戸建ての住宅を紹介してくださいました。その北天昌寺で7年間のご奉仕をさせていただきながら、こんどは皆様方とともに、何とか自分たちの教会堂を与えていただきたいと切に祈りました。その願いの通り、次も不思議な方法で主の導きの地を示されました。そして大館町の現在の地、大館町12-26 に、皆さんの祈りと力を合わせた献金で、教会が建て上げられました。
  小さな教会の働きでしたが、一人、また一人と愛兄姉方が教会に加えられていきました。それと同じように愛する方々を天にお送りもしました。またこの会堂で結婚式を挙げて家庭を持たれた愛兄姉方のゆえに御名を崇めます。教会に子どもたちの声が響きました。


 近年、コロナ感染の拡大のために海外宣教の働きに加わりたいと願って始めたバザーができなくなり、トーン・チャイムの練習ができず、クリスマスの一大イベントであったトーン・チャイムの演奏のチャンスが失われ、今も失われているのは残念です。

 それから個人的なこと家庭的なことを申し上げれば、二人の子どもが与えられました。成長の過程で皆様の愛の心遣いをいっぱいいただき、お交わりをいただきましたことを心から感謝しています。初めの頃を思い出します。娘が誕生していよいよ退院となりました。当時私たちはクルマを持っていませんでした。そんな時、棟割りのお隣のご主人が、自分が迎えに行くと申し出てくださり、お仕事の道具満載のクルマで迎えにきてくださいました。びっくりしたり感謝したり。その温かいお気持ちを今も思い出します。後にご主人はこんなことを言われました。「うちの家内は泣き声が聞こえないと心配して、寒い時でも窓の外で耳を澄ませて泣き声を聞いていたよ」と仰ってくださいました。皆様に可愛がっていただいたこと、教会での皆様方とのお交わりの思い出が、成長した二人の今でも心の安定の大きな助けとなっていると思っております。

 

 私の個人的なことは皆さん方もよくご存じで、どれだけ多くの熱いお祈りをいただいたか、今更申し上げるまでもありません。心から感謝いたします。ただ、一度きちんとまとめてお話した方が良いと思いますので、お証しさせていただきます。

 2008年の年会中に、2008年といいますと、ちょうど私が60歳になったころでした。そのころから今に至りますまで、何も病気がなかったという時がなかったというくらい、いろいろな病気で入院したり治療を受けたりしておりました。
 ちょうど2008年の年会でのことですが、主人が歩くスピードについていけない自分がありました。何回も休みながら一生懸命についていこうとしましたけれども、それがなかなか難しかったということで、病院に行って診ていただきましたが、何ともないといわれました。けれども、教会のみなさんに、「セカンドオピニオンというのがあるんだから、ちゃんと先生に紹介状を書いてもらった方がいい」との後押しをいただいて、紹介状を持って岩手医大に行きました。水曜日の祈祷会のときでした。何ともないよと先生に太鼓判を押してもらいたいと思って病院に行きましたが、診ていただきました結果は即入院でした。そして4月の末には狭心症との診断で、心臓冠動脈の一本にステントを入れる手術をいたしました。
 そしてそのちょっと後ですけれども、まだ治療が続いております最中に「あなたはバセドウ病になっている」との先生の診断を受けました。通院による治療で完治することができたのは、ほんとうに感謝でした。
 さらに2017年にはしばらく前から耳の下にしこりがあることに気が付いていましたが、何人かの先生にそのことはお話ししましたが、「だいじょうぶでしょう、様子を見ましょう」というのが先生方の回答でありましたが、掛かりつけの先生に診ていただきましたら、一度専門医の先生に診ていただいた方がいいということになりました。そして、専門の先生に診ていただきましたら、すぐに切除した方が良いと言われ処置を受けました。結果は悪いものではありませんでしたので、以来、そのままになっていました。
2019年8月、岩上祝仁先生をお迎えして恵みの東北聖会を終えてほっとしていました。翌週、胃の痛みがなかなか治らず、いつもと違うものを感じて病院へ行くことになりました。ちょうど岩手医大の矢巾への移転のために、私は市内のクリニックに転院していました。そのクリニックで見ていただきますと、血液検査の結果、数値がすごく悪いという連絡を受けました。すぐに県立中央病院に行きなさいと言われました。そして県立中央病院での診断は、1膵臓癌であること、2ステージは2-B、3膵臓がんの5年後の生存率は20%、そして最後、これからの治療は延命治療になると告げられました。

 ステージは2-Bなのにそんなに大変なのかなあと思いましたが、すぐに抗癌剤治療が始まりました。そして、12月の手術に備えることになりましたが、抗癌剤の服用が始まりますと、ほんとうにたくさんの患者に出る副作用、色素沈着や、発疹も盛大に出ました。0.3パーセントの人に出るという間質性肺炎にもなりました。間質性肺炎については、頻度はごく少ないものの、時に重い症状になる恐れがあり、特に注意すべき副作用ですと説明書きの通りでありました。私の場合も重い症状になり自分でも、もう教会には戻れないのではと思いました。
 しかし、ここからが私の本領発揮です。戻れないかもと思いながら、意識がどれほどはっきりしていたか分かりませんが祈りました。「神様、あなたは私を盛岡に任命されました。でも私はまだあなたからの任命を果たし終えておりません。どうぞ私に任命を果たさせてください」。神様は、もうしばらくの命をお許しくださいました。クリスマス、年末年始を教会で過ごすことができました。1月30日には念願の膵臓癌摘出手術をしていただきました。コロナ感染の規制が厳しくなる直前でしたので、東京の娘や、糸魚川の息子も駆け付けてくれました。その少し後の2月7日、同じ病棟のすぐ下の階からT姉が天にお帰りになったことは、大きな大きなことで言葉では尽くせない悲しみでした。その後、抗癌剤の服用と、副作用が続く中2022年の年会で翌年の引退を決意しました。
 22年5月本部主催の「一歩先の未来を考える研修会」に参加。研修会は強制の出席でしたが、そこで、岩上祝仁代表と厚生委員長と面接し、引退を踏まえた呉ベタ二ヤホームへの道が開かれました。教会員の役員の兄姉方のご理解と賛同をいただき、教会の皆さまのご理解をいただき、呉行きが決まりました。
 直後、工藤弘雄先生、澄子先生のズームによる東北聖会の基地教会に指定していただいた盛岡教会への祝福がいかに大きかったかを思います。
 その後、教会の皆さんを巻き込んで怒涛の如くに引っ越し作業が続きました。そんな中、肝臓への転移と間質性肺炎の恐れがあるので、命を優先するためにと、抗癌剤の停止が告げられ、「次に飲む薬はありません」ということでした。「呉へ行くまで健康が持つだろうか」とも言われました。
 思い出しても恥ずかしく申し訳ない引っ越し作業でしたが、10月30日の送別礼拝の翌日、盛岡駅のプラットホームで皆様の祈りと賛美に送られ、任地盛岡を発ちました。その日、呉到着。翌日引っ越し荷物と共にベタ二ヤホームに入りました。手伝いに同行してくれた娘の助けを得て、荷物をほどき整理に数日かかりました。

 11月8日何通もの紹介状を持って国立病院機構呉医療センター中国がんセンターに行きました。ホームから歩いて20分ほどの距離です。消化器内科の医師は、膵臓癌を幾つも経験し、研究もしておられる先生でした。私をご覧になった先生の感想は「膵臓癌が転移してこんなに元気な人を見たことが無い。膵臓癌が転移したらあとは秒読みに入る、それが膵臓癌というものです」ということでした。医師の申し出で、もう一度納得がいく検査を受けることになりました。CT、MRI、超音波の検査を受けましたが、異常は見当たらず、転移も再発もない。間質性肺炎にもなっていない。腫瘍マーカーも問題ない。ゆえに、「抗癌剤を飲む必要が無い」との結論でした。ただただ驚いて御名を拝め皆さんのお祈りを感謝するばかりでした。その後念のために受けたペットCTでは、膵臓癌に関する問題はありませんでしたが、以前摘出した耳下腺の腫瘍跡が問題になりました。心配ないがしばらく定期的に検査を受けることになりました。最後には結核菌をもっていることが判明、これも発症してはいないので、今まで通り普通に生活してよいが、定期的な検査は必要ということでした。徹底的なていねいな検査を受け有難く思いながら、これからの検査、資料をすべてお委ねいたしました。
 神様に導かれて膵臓癌という病を抱え、全く未知の地である呉に行くことになってから、ネットで呉の街を調べ、ベタ二ヤホームのすぐ近くに国立の癌センターがあることを知りました。この病院があるから呉に来たわけではありません。主が導いてくださったから来たのです。来てみたらば、そこには国立がんセンターがありました。
 来週2月5日の教会総会後、引退させていただきます。盛岡教会への任命が完了いたしました。まだ主の任命を果たし終えておりませんと訴えて命をいただきましたが、これからは、任命を果たし終えた者として、将来を主にお委ねしたいと思っています。主の恵みの証人として用いていただくのも恵み、医師もおっしゃるように転移したら後は秒読みとなるのも恵み、最善しかなさらない主にお委ねし、残る生涯を全うさせていただきたいと願っております。

詩篇136:1主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
詩篇103:1わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。2わがたましいよ、主をほめたたえよ。主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。3主は、あなたのすべての咎をゆるし、あなたのすべての病を癒し、4あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、5あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。
詩篇130:7イスラエルよ、主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
詩篇54:4見よ、神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。
 

 このようなみことばが与えられて、このようなみことばに支えられて今まで来させて  いただきました。ほんとうに皆様のお祈りを心から感謝いたします。有難うございました。

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ひろ子牧師の思い出深い写真をご紹介いたします。

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※文責:中ぶんな
⏰6時9分更新

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