インマヌエル盛岡キリスト教会2023年1月29日の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。この日は呉からのズーム配信で、ひろ子牧師のお話です。
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説教題 「恵みはとこしえまで」
聖書引証 詩篇136篇1~4節、23~26節
1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
2 神の神であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
3 主の主であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
4 ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。主の恵みはとこしえまで。
23私たちが卑しめられたとき、主は心に留められた。主の恵みはとこしえまで。
24 そして、主は私たちを敵から解き放たれた。主の恵みはとこしえまで。
25 主はすべての肉なる者に食物を与える方。主の恵みはとこしえまで。
26 天の神に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
《メッセージ》
みなさまおはようございます。今朝は、小さい者が講壇に立たせていただいております。
この49年、あるいは大雑把に言いますと50年を振り返って、一つのみことばが心にあるとするならば、神様への感謝を表すという意味で、今開かせていただきました詩篇136篇の1節でございます。
(新改訳2017)主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
(新共同訳聖書)恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
(口語訳聖書) 主に感謝せよ、主は恵みふかく、 そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
そして長く親しみました文語訳では
(文語訳聖書) ヱホバに感謝せよヱホバはめぐみふかし その憐憫はとこしへに絶ることなければなり。
それぞれの訳がこのように出ておりますが、どのように訳されても、主の恵みはとても深く、そして決して絶えることがないのだということを、この詩篇136篇は語っております。解説を見ましたならば、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。」というこの前半の部分を、一人あるいは聖歌隊の人たちが歌って、会衆がそれに合わせて「主の恵みはとこしえまで」とリズミカルに応答するというように朗誦されていたのではないかと書かれておりました。私たちもそれに倣わせていただけたら嬉しいなと思いまして、このメッセージの最後に、皆さんと一緒に、詩篇をこの形式で読ませていただくことができたらと思っております。
一人でこの詩を読んでおります時、実感としてしみじみこのみことばの確かであるということを納得しました。
ヱホバはめぐみふかし その憐憫はとこしへに絶ることなければなり。
引退を前に50年の恵みを振り返る時が与えられておりますことを心から感謝いたします。
振り返って一番最初に心に掛かりましたのは、私たちが盛岡に来てすぐのころのこと、それから、盛岡を発って呉に来る直前の事です。ほんとうにそれをまざまざと思い出しました。特に昨年の8月頃から始まった引っ越しの準備の中で、私は不思議なほど体は元気なのですけれども、頭がぼーっとして行動に付いてきていないという感覚でした。一生懸命考えてしたことが、後で考えてなぜこのような結論に達したのか分からないと思うことが度々ありました。自分に自信も確信も持てなくなった一時期があり、特にS姉には迷惑をおかけしたこと、ほんとうに申し訳なくお詫びいたします。
今からそれこそ50年前、1974年4月。正確に言えば49年前の4月の直前の年会において、思いがけなく盛岡の開拓を命じられました。その開拓というのは簡単なことではありませんで、教団で一つの県に一つの教会をという大きな目標がありました。そしてその中で最後に残ったのは岩手県でした。その岩手県の盛岡に開拓を命じられたのです。緊張しながら日曜日の晩、国鉄のストライキの直後の夜行列車に乗って私たちは岩手に参りました。すこしでも早く盛岡に来たいと思ったからです。そして盛岡駅に、今とは全く違う昔の盛岡駅に到着して、当時、この教団の教区長であられた河村襄先生に教えられたとおりのバスに乗って天昌寺前で降りて、地図を頼りに前もって用意されていた家にたどり着くことができました。周囲は家が少なく、田や畑が多くありました。
先ず日曜日の礼拝を二人で終えて午後から生活するための準備を始めました。何もありません。水道も出ません。電気は点きましたけれども、水道も出ないような状況でありました。近くにお店がありませんので、バス停近くのタバコ屋さんで尋ねますと、「舘坂橋の交差点のところに食品と衣料雑貨のスーパーがあるからそこに行くといい」と言われました。さっそくバケツや箒、塵取りなど、先ず掃除用具を買ってきました。そして、教会での営みがスタートいたしました。
初めに教会学校から始めました。小さなポスターをベランダに一枚貼りだしましたが、50人ほどの子どもたちが集まってきました。小さな6畳間がぎゅうぎゅうでした。そのうちの10名ほどが毎週日曜日の朝になると集まってくるようになり、教会学校は順調にスタートしました。けれども、手製のトラクトを配布し始めましたが、教会にいらっしゃる方はありませんでした。そんな中で、はじめの3か月ほど、日曜日の朝の礼拝は、座布団を2枚敷いて向かい合って座り、一人は説教者、一人は聴衆ということで、ほんとうに何をしてるのかというような感じの礼拝でありましたが、みことばが語られていますので、恵みをいただくことができました。そんな中である時、これでは、はじめから誰も来ないと決めつけているように思いましたので、日曜日の朝は、その当時会堂として使っていました2階の6畳間、そこにあるだけの椅子を並べました。あるだけといっても10客ほどですけれども並べておりましたら、外で声がして、近くの看護学校の寮から教会の案内を見た看護学生の方々が3、4人いらっしゃいました。私たちがもしこのときも座布団を2つ並べて礼拝をしていたら、ほんとうに大慌てになったと思います。それをご覧になった学生さんたちも気まずい思いに戸惑われたのではないでしょうか。
まもなく神学生の夏期実習が始まり、3人の男子神学生が、これから新しく始まろうとする教会のために一生懸命に労してくださいました。また、開拓伝道集会の会場をどこにするかも、怖いもの知らずの新米の牧師の大胆な交渉によって決まりました。農業協同組合の会館ホールだったと思います。そこで初めての開拓伝道集会を開きました。多くの方が来てくださいました。そのような中で、最後の締めくくりの日曜日の礼拝はまた教会に戻って礼拝を守ることになりました。その時に洗礼式が持たれました。ほんとうに奇跡的なことだと思いますし、河村先生があんなことは初めてだと仰いましたが、開拓伝道集会をしたその最後の日曜日教会に戻って、その時に洗礼式をすることができました。この時に洗礼を受けられたのが、当時のN姉、現在のK姉と老ご夫妻の3人でした。その年のクリスマスに洗礼を受けられたのが当時のA姉、現在のS姉です。お二人の姉妹は、私たちもまだ新米の時から教会と私たちをほんとうに支え続けてきてくださいました。洗礼を受けられた老ご夫妻のことが気に掛かると思いますが、その老ご夫妻はご自分の意志でもなく家庭の事情で教会にいらっしゃることができなくなりました。本当に長い間このお二人のことは心から離れたことがありませんでしたけれども、今から2年ほど前に、イースターの午後の墓前礼拝の日、穴口の墓地にあるOさんの墓地に行きました時、偶然その方のお二人のお名前を墓地の墓標の中に見つけました。ほんとうにびっくりしながら喜びました。そして、何と神様は深い憐れみを持って私たちを見ていてくださるものだろうかと、ほんとうにそういう思いがいたしました。
私たちが開拓のために盛岡に来まして、初めての教会は、棟割りで二軒の家が壁で仕切られて別々の家になっておりました。半分を教会が使い、そのもう半分はあるご夫妻がお使いになっておられました。その方々はほんとうに親切な優しい方々で、私たちが盛岡で生きていくための術を教えてくださいました。それから盛岡弁の特訓も受けました。ほんとうにそのようにして、私たちは愛に囲まれて伝道に力を注ぐことができました。三年間はその棟割りの住宅に住んでいましたが、夜になると辺りは真っ暗になります。教会員でも道に迷い、教会にたどり着くことができないこともありました。そんな折に、何とか新しい場所をと祈り始めました。ある時、酔っ払いの男の人がやってきました。「こんなところではだめだ。ここよりいいところがあるぞ」と天昌寺交差点近くにある一戸建ての住宅を紹介してくださいました。その北天昌寺で7年間のご奉仕をさせていただきながら、こんどは皆様方とともに、何とか自分たちの教会堂を与えていただきたいと切に祈りました。その願いの通り、次も不思議な方法で主の導きの地を示されました。そして大館町の現在の地、大館町12-26 に、皆さんの祈りと力を合わせた献金で、教会が建て上げられました。
小さな教会の働きでしたが、一人、また一人と愛兄姉方が教会に加えられていきました。それと同じように愛する方々を天にお送りもしました。またこの会堂で結婚式を挙げて家庭を持たれた愛兄姉方のゆえに御名を崇めます。教会に子どもたちの声が響きました。
近年、コロナ感染の拡大のために海外宣教の働きに加わりたいと願って始めたバザーができなくなり、トーン・チャイムの練習ができず、クリスマスの一大イベントであったトーン・チャイムの演奏のチャンスが失われ、今も失われているのは残念です。
それから個人的なこと家庭的なことを申し上げれば、二人の子どもが与えられました。成長の過程で皆様の愛の心遣いをいっぱいいただき、お交わりをいただきましたことを心から感謝しています。初めの頃を思い出します。娘が誕生していよいよ退院となりました。当時私たちはクルマを持っていませんでした。そんな時、棟割りのお隣のご主人が、自分が迎えに行くと申し出てくださり、お仕事の道具満載のクルマで迎えにきてくださいました。びっくりしたり感謝したり。その温かいお気持ちを今も思い出します。後にご主人はこんなことを言われました。「うちの家内は泣き声が聞こえないと心配して、寒い時でも窓の外で耳を澄ませて泣き声を聞いていたよ」と仰ってくださいました。皆様に可愛がっていただいたこと、教会での皆様方とのお交わりの思い出が、成長した二人の今でも心の安定の大きな助けとなっていると思っております。
私の個人的なことは皆さん方もよくご存じで、どれだけ多くの熱いお祈りをいただいたか、今更申し上げるまでもありません。心から感謝いたします。ただ、一度きちんとまとめてお話した方が良いと思いますので、お証しさせていただきます。
2008年の年会中に、2008年といいますと、ちょうど私が60歳になったころでした。そのころから今に至りますまで、何も病気がなかったという時がなかったというくらい、いろいろな病気で入院したり治療を受けたりしておりました。
ちょうど2008年の年会でのことですが、主人が歩くスピードについていけない自分がありました。何回も休みながら一生懸命についていこうとしましたけれども、それがなかなか難しかったということで、病院に行って診ていただきましたが、何ともないといわれました。けれども、教会のみなさんに、「セカンドオピニオンというのがあるんだから、ちゃんと先生に紹介状を書いてもらった方がいい」との後押しをいただいて、紹介状を持って岩手医大に行きました。水曜日の祈祷会のときでした。何ともないよと先生に太鼓判を押してもらいたいと思って病院に行きましたが、診ていただきました結果は即入院でした。そして4月の末には狭心症との診断で、心臓冠動脈の一本にステントを入れる手術をいたしました。
そしてそのちょっと後ですけれども、まだ治療が続いております最中に「あなたはバセドウ病になっている」との先生の診断を受けました。通院による治療で完治することができたのは、ほんとうに感謝でした。
さらに2017年にはしばらく前から耳の下にしこりがあることに気が付いていましたが、何人かの先生にそのことはお話ししましたが、「だいじょうぶでしょう、様子を見ましょう」というのが先生方の回答でありましたが、掛かりつけの先生に診ていただきましたら、一度専門医の先生に診ていただいた方がいいということになりました。そして、専門の先生に診ていただきましたら、すぐに切除した方が良いと言われ処置を受けました。結果は悪いものではありませんでしたので、以来、そのままになっていました。
2019年8月、岩上祝仁先生をお迎えして恵みの東北聖会を終えてほっとしていました。翌週、胃の痛みがなかなか治らず、いつもと違うものを感じて病院へ行くことになりました。ちょうど岩手医大の矢巾への移転のために、私は市内のクリニックに転院していました。そのクリニックで見ていただきますと、血液検査の結果、数値がすごく悪いという連絡を受けました。すぐに県立中央病院に行きなさいと言われました。そして県立中央病院での診断は、1膵臓癌であること、2ステージは2-B、3膵臓がんの5年後の生存率は20%、そして最後、これからの治療は延命治療になると告げられました。
ステージは2-Bなのにそんなに大変なのかなあと思いましたが、すぐに抗癌剤治療が始まりました。そして、12月の手術に備えることになりましたが、抗癌剤の服用が始まりますと、ほんとうにたくさんの患者に出る副作用、色素沈着や、発疹も盛大に出ました。0.3パーセントの人に出るという間質性肺炎にもなりました。間質性肺炎については、頻度はごく少ないものの、時に重い症状になる恐れがあり、特に注意すべき副作用ですと説明書きの通りでありました。私の場合も重い症状になり自分でも、もう教会には戻れないのではと思いました。
しかし、ここからが私の本領発揮です。戻れないかもと思いながら、意識がどれほどはっきりしていたか分かりませんが祈りました。「神様、あなたは私を盛岡に任命されました。でも私はまだあなたからの任命を果たし終えておりません。どうぞ私に任命を果たさせてください」。神様は、もうしばらくの命をお許しくださいました。クリスマス、年末年始を教会で過ごすことができました。1月30日には念願の膵臓癌摘出手術をしていただきました。コロナ感染の規制が厳しくなる直前でしたので、東京の娘や、糸魚川の息子も駆け付けてくれました。その少し後の2月7日、同じ病棟のすぐ下の階からT姉が天にお帰りになったことは、大きな大きなことで言葉では尽くせない悲しみでした。その後、抗癌剤の服用と、副作用が続く中2022年の年会で翌年の引退を決意しました。
22年5月本部主催の「一歩先の未来を考える研修会」に参加。研修会は強制の出席でしたが、そこで、岩上祝仁代表と厚生委員長と面接し、引退を踏まえた呉ベタ二ヤホームへの道が開かれました。教会員の役員の兄姉方のご理解と賛同をいただき、教会の皆さまのご理解をいただき、呉行きが決まりました。
直後、工藤弘雄先生、澄子先生のズームによる東北聖会の基地教会に指定していただいた盛岡教会への祝福がいかに大きかったかを思います。
その後、教会の皆さんを巻き込んで怒涛の如くに引っ越し作業が続きました。そんな中、肝臓への転移と間質性肺炎の恐れがあるので、命を優先するためにと、抗癌剤の停止が告げられ、「次に飲む薬はありません」ということでした。「呉へ行くまで健康が持つだろうか」とも言われました。
思い出しても恥ずかしく申し訳ない引っ越し作業でしたが、10月30日の送別礼拝の翌日、盛岡駅のプラットホームで皆様の祈りと賛美に送られ、任地盛岡を発ちました。その日、呉到着。翌日引っ越し荷物と共にベタ二ヤホームに入りました。手伝いに同行してくれた娘の助けを得て、荷物をほどき整理に数日かかりました。
11月8日何通もの紹介状を持って国立病院機構呉医療センター中国がんセンターに行きました。ホームから歩いて20分ほどの距離です。消化器内科の医師は、膵臓癌を幾つも経験し、研究もしておられる先生でした。私をご覧になった先生の感想は「膵臓癌が転移してこんなに元気な人を見たことが無い。膵臓癌が転移したらあとは秒読みに入る、それが膵臓癌というものです」ということでした。医師の申し出で、もう一度納得がいく検査を受けることになりました。CT、MRI、超音波の検査を受けましたが、異常は見当たらず、転移も再発もない。間質性肺炎にもなっていない。腫瘍マーカーも問題ない。ゆえに、「抗癌剤を飲む必要が無い」との結論でした。ただただ驚いて御名を拝め皆さんのお祈りを感謝するばかりでした。その後念のために受けたペットCTでは、膵臓癌に関する問題はありませんでしたが、以前摘出した耳下腺の腫瘍跡が問題になりました。心配ないがしばらく定期的に検査を受けることになりました。最後には結核菌をもっていることが判明、これも発症してはいないので、今まで通り普通に生活してよいが、定期的な検査は必要ということでした。徹底的なていねいな検査を受け有難く思いながら、これからの検査、資料をすべてお委ねいたしました。
神様に導かれて膵臓癌という病を抱え、全く未知の地である呉に行くことになってから、ネットで呉の街を調べ、ベタ二ヤホームのすぐ近くに国立の癌センターがあることを知りました。この病院があるから呉に来たわけではありません。主が導いてくださったから来たのです。来てみたらば、そこには国立がんセンターがありました。
来週2月5日の教会総会後、引退させていただきます。盛岡教会への任命が完了いたしました。まだ主の任命を果たし終えておりませんと訴えて命をいただきましたが、これからは、任命を果たし終えた者として、将来を主にお委ねしたいと思っています。主の恵みの証人として用いていただくのも恵み、医師もおっしゃるように転移したら後は秒読みとなるのも恵み、最善しかなさらない主にお委ねし、残る生涯を全うさせていただきたいと願っております。
詩篇136:1主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。
詩篇103:1わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。2わがたましいよ、主をほめたたえよ。主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。3主は、あなたのすべての咎をゆるし、あなたのすべての病を癒し、4あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、5あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。
詩篇130:7イスラエルよ、主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
詩篇54:4見よ、神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。
このようなみことばが与えられて、このようなみことばに支えられて今まで来させて いただきました。ほんとうに皆様のお祈りを心から感謝いたします。有難うございました。
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ひろ子牧師の思い出深い写真をご紹介いたします。
※文責:中ぶんな
⏰6時9分更新
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