きょうのことば「栄光の王の入城」
インマヌエル盛岡キリスト教会、2023年1月15日の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。呉からのズーム配信です。
説教題 「栄光の王の入城」
聖書引証 詩篇24篇
ダビデの賛歌
1 地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。
2 主が、海の地の基を据え、川の上に、それを堅く立てられたからだ。
3 だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいことに向けず、偽りの誓いをしない人。
5 その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち、あなたの御顔を慕い求める人々である。
7門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。
8栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
9 門よ。おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。
10 栄光の王、それはだれか。万軍の主、この方こそ栄光の王。
《メッセージ》
きょうは詩篇の24篇を、ともに味わわせていただこうと思っております。
すでに、私たちは詩篇23篇を中心にこの年恵みをいただいております。ここで、もう一歩下がって、この詩篇を見ますと、実は22篇、23篇、そして24篇と、これは一連の詩篇として学ぶことができる。するとまた一層味わいが増してくる。しかもそれは、イエス様に関わる、つまり、メシア、油注がれたもの、メシアに対する預言の詩篇でありメシア詩というように、学ぶ人たちは呼んでおります。メシア詩であるひとつが、実は、22篇に、はっきりと出てまいります。23篇は現在の良き牧者であられる救い主、メシアのこと、そして今日開こうとしているのは、未来に関わるメシアのすがたについてです。ですので、この23篇をとらえようとしておりますとき、22篇と24篇と、ちょうど23篇を間に挟むメシアに関わる詩、メシア詩をまとめて味わうということは、とても大切な意味のある事だろうと思うのです。
さっそくですけれども、三つの詩篇のうちの22篇。これは受難のメシアをあらわしていることを誰も疑うことができません。22篇の始めの部分に、
指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて、ダビデの賛歌。
とありますからこれは歴史的な事実として、ダビデが詠った詩であることは間違いありません。彼は自分のことを述べている詩篇の中に、さらに自分がメシアしての預言をする、そのようなことばであり、決してダビデ個人のことだけをいっているものではない。それ以上の意味を持つおことばとして1節をご覧ください。
1わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
これはもう、あのゴルゴダのイエス様の叫びの声です。つまりイエス様ご自身がこの詩篇22篇をご自分の預言のおことばとして理解をしておられたと見ることができます。
7節からをご覧ください。
7私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。
8「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
ここに十字架をとり囲む人々の嘲りが記されています。
18節ご覧ください。
18彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。
もう福音書で親しんでおられる方々は、22篇がまさに受難のメシアを指さしているものであることをご理解いただけると思います。
私たちのメシアは、このような十字架のお苦しみを受けて救いを成してくださった。みこころを成し遂げてくださった。イエス様は十字架上で聖書が成就するために言われました「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)。詩篇22篇15節の預言の成就です。
15私の力は、土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼りついています。
見かねた兵士なのか、酸い葡萄酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけてイエス様の口もとに差し出しました。すべてこれらのことを、私たちの救いのために成し遂げてくださったお方が22篇のイエス様なのです。
そして私たちが23篇に学んでいるお方は、この救いを成し遂げてくださったお方は、今も良き牧者として羊をねんごろにお取り扱いくださる。
1主は私の羊飼い。
4たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、……あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。
6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。
この23篇、私たちが今生きているときに、メシヤなるお方は、私たちが苦しむとき、私たちが渇くときに、知っているよ、あなたの苦しさを、あなたの辛さを、そう、私は知っているよ。イエス様はこれらすべてを経験して下さったお方です。そのお方がほんとうに今共に歩んでいてくださる。何とすばらしい23篇ではありませんか。
そして24篇のこのお方は、特に24篇7節以降をご覧ください。
7門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。
これは贖いを成し遂げて、そして私たちが地上にあるときに、私たちと共に居たもうお方は、やがて私たちを王の王、凱旋の王として来られる。父のみこころを全うするために来られたお方が見事にその使命を成し遂げ全うされたのは、この福音を信じ救われた方々を、つまり私たちを、勝利の証しとして凱旋の王の宝物のように、もっと世俗的な分かりやすい言葉で言えば、凱旋の王は捕虜を引き連れて、私たちは実際にそういう時代に生きてませんけれども。凱旋の王が、これだけのものを捕らえてきたという捕虜を引き連れて凱旋してくださる。どうぞこれを憶えてください。
主イエス様の凱旋の捕虜は、宝は何でしょうか。それは私たちなのです。イエス様が、尊い十字架の血潮の贖いを成し遂げて、私たちを罪の泥沼の中から、死と滅びの中から引き上げて捕虜として、凱旋の王として天に帰っていかれる。そのことを24篇の栄光の王の凱旋として私たちは味わうことができるのです。
もちろんこの詩篇24篇の1節2節は
1地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。
その時、さあいよいよ、この凱旋の主が、私たちを誇らしく、
7門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。
このさっき1節2節をお話しし、そして、3節、4節、5節、
3 だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいことに向けず、偽りの誓いをしない人。
5 その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。
ここで、羽鳥明先生がこの24篇をどのように扱っておられたかを調べてみました。すると、すごい実話が紹介されていました。
1960年だったそうです。南方のある島で、せいぜい10名の人たちが集まる小さな教会で起こったリバイバルのことが紹介されていました。24篇の3節、4節、5節
3 だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。4 手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいことに向けず、偽りの誓いをしない人。
このところを朗読していたクリスチャンの一人が、涙を流しながら、私はこのような者ではない。相応しくない者だったといって、イエス様の十字架の前に悔い改めのお祈りを捧げたというのです。そうしたらその僅かな10人ほどの人たちからリバイバルが始まったということです。すごいなーと改めて教えられたことでありました。
そうです。この小さな礼拝、この小さな私たちの集いですけれども、聖書のおことばの一つが皆さんのお心の中にしっかりとどまって、悔い改めが為されて、ほんとうに主の前に礼拝を捧げるものとなったのならば、何と幸いなことでしょう。
そして、いよいよ7節、これこそ実際のこの詩篇の歴史的なことでいうならば、ダビデがようやくサウロの跡を継ぐ王朝として、統一王朝として、エルサレムに自分は入れたけれども、しかし契約の箱はまだ入って来なかったという時、オべデ・エドムという所にその契約の箱がまだ置かれていたのですが、そのオべデ・エドムの家から契約の箱をいよいよエルサレムに入れるというそのときのことが、背景にあると多くの注解者はいっていますけれども。そのときに7節から10節を見ると、これは、ほんとうに一つのパターンですね。一つの流れのように。契約の箱を担いでいる行列の先頭の者が
「7 門よ。おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。」という。すると中の方から「8 栄光の王とは、だれか。」と。入ろうとする者の方が「8強く、力ある主。戦いに力ある主」と応じて、そして、「9 門よ。おまえたちの頭を上げよ。とこしえの戸よあがれ。栄光の王が入って来られる」。するとまた中から「栄光の王、それはだれか」。応じて「万軍の主、この方こそ栄光の王」
このようなやりとりがされている。私はその光景を、この小さな頭で思い切り想像しながら、ああ、イエス様が十字架の贖いを成して私たち一人ひとりを捕虜としてイエス様につくものとして宝物のようにして栄光の王が帰ってきた。栄光の天に、さあ、上がれ。私たちもその中にある、イエス様の凱旋した捕虜の中に入ってるんだ。もうほんとうに嬉しくて仕方がありません。
そして私は、今日のお話の締めくくりに、これを今の私たちに当てはめていきたい。それはどういうことかといいますと、先ほどメッセージに入る前に、ホサナ、ホサナという讃美歌を歌いましたけれども、皆さんご存じの通り、十字架に架かられる前に、イエス様はロバの子に乗ってホサナホサナと迎えられ、エルサレムに入城したのです。けれども、イエス様は人々からのけ者にされ、そして嘲られて十字架にお架かりになるのですけれども、まさにイエス様は平和の主としてエルサレムに入城されたわけです。そのとき、どうでしょうか。聖霊様は、私たちの心に
9「 門よ。おまえたちの頭を上げよ。とこしえの戸よあがれ。栄光の王が入って来られる」
私たちの心に、このお方が、22篇のこのお方が、23篇のこのお方が、私に「さあ、あなたの心を開きなさい。あなたの心を開きなさい。栄光の王が入って来られる」。私たちはこたえます「主よ、お入りください。ここにあなたの御座があります」。
コロサイ書1章27節「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」
これは、ほんとうに奥義だと思います。私たちの心の中に、このお方が、王としてお入りくださる。かたじけないことであります。
このお方は凱旋の主として、私たちの罪を滅ぼしてくださった。私たちは罪の虜になっておりましたけれども、罪の鎖を解き放ってくださいました。往々にして、何々したなら救われる、何々をしなければ救われないというように言いがちです。しかし、そうじゃない。救いは恩寵による。律法ではない、恩寵による救い。これがまさに福音です。そして私たちを惑わすところのサタン、それらのものをぜんぶ打ち滅ぼして、そして凱旋の主として宝物のように捕虜として私たちをたなごころにに刻んで握りしめて入って来てくださる。まさに「慈しみと恵みが私を追って来る」(詩篇23:6)。
私は間もなく盛岡の主任牧師を離れますけれど、私は皆さん方にこの福音を是非心の中にしっかりと捕えて、ともに生きていただきたいと心から願っております。どうぞ、23篇の主は、22篇そして24篇、栄光の主であるということを思って、共に地上生涯を歩ませていただきたいと思います。
※文責:中ぶんな
⏰5時41分更新
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