きょうのことば「あなたの前に道を開く」
インマヌエル盛岡キリスト教会2023年1月22日の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。呉からのズーム配信です。
説教題 「あなたの前に道を開く」
聖書引証 箴言4章12節
あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。
《メッセージ》
きょうの聖書の箇所は箴言4:12です。
(新改訳 2017)あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。
(文語訳) 歩くとき汝(なんぢ)の歩(あゆみ)は艱(なや)まず趨(はし)るときも躓(つまづ)かじ。
これはアラム語訳が英語に訳されたおことばです。
あなたが歩む 一歩一歩 わたしはあなたの前に 道を開く(シリア訳)
これをテキストにメッセージをと導かれております。上の写真は、このおことばを、焼き絵のように大きな板に彫り込んだものです。
写真の後列中央が渡邉佐次郎さん。ご夫妻で盛岡においでくださったことがあります。渡邉さんが焼き絵をなさるので、私が勝手に、渡邉さんが、このシリア訳をウェブスター・スミス先生に記念として作って差し上げたのだろうと推測しております。その左の方が後藤牧人先生です。こんど私がこのように呉の方に来たということを牧人先生に連絡したとき、最初は驚かれたんですけれども、心から祝福を祈ってくださいました。前列の女性の方がウェブスター・スミス先生。どういうわけか私その隣に座っていますが、座らされたのであったかどうか、そんなことを思いますが。
皆さんがたご存じの通り、私は松本で育ち、東京の大学に進みました。そして、お茶の水学生キリスト教会館で信仰に導かれました。その時にはもう既に就職先は内定していたのです。お茶の水学生キリスト教会館の集会のチラシを持って会館に行った、その1枚のチラシを通しての神様の導き、また雪谷大塚駅でいただいた一枚のチラシの導きで丸の内教会へ、インマヌエルへと導かれたことを思います。
あなたが歩む 一歩一歩 わたしはあなたの前に 道を開く
open、「開く」はわかります。でも、これが、open upという動詞で使われるときに、これはただ窓を開けるというような意味のopenではなく、「切り拓いていく」「切り開いていく」。これがオープン・アップという言葉なんだそうです。これを知ったときに恵みをいただきました。まさに「あなたが歩む 一歩一歩 わたしはあなたの前に 道を開く」。これを思いつつ今ご用に与らせていただくことであります。
私は三つの聖書のことばによって道がオープン・アップされました。
一つのおことばは、創世記12章1節でした。
(新改訳2017)主はアブラムに言われた。あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。
当時は文語訳聖書でありましたので、
(文語訳)爰(ここ)にヱホバ、アブラムに言(いひ)たまひけるは汝(なんぢ)の國(くに)を出で汝の親族に別れ汝父の家を離れて我が汝に示さん其(その)地に至れ
このおことばが、私にとって一つの開かれた道でありました。
ここに私宛の古い書簡があります。宛先は「日本ビクター第一清和寮」。差出人は「雪谷伝道所」から。毎週送られてくる集会案内の葉書に書いてありました。「創世記12章1節、2節」、「神様が一歩一歩導いておられるかに思われます。お祈り申し上げています」。私がちょうど丸の内教会で真剣に自分の将来を祈り求めていたときでした。雪谷伝道所での祈祷会の後、國光幾代子先生が、「祈って葉書に書いたおことばだけれども、何を書いたか忘れたから、帰ったらきっと届いていると思いますから」ということでありました。このおことばが道を切り開いてくださった。まさに、国を離れ、親族を離れ、父の家を離れ、というできごとでありました。
雪谷伝道所は今から10年ほど前に幾代子先生のご高齢から閉じられましたが、ほんとうに多くの働き人たちがここから起こされました。その末席を汚しているのが私たちなんですけれども。多くの伝道者を送り出しております。たとえば、私は教会総会が終わると盛岡教会を正式に引退しますが、それをご存じの広島教会の宮島先生から一か月ほど前に連絡がありました。「先生、是非2月の第二日曜日、もう皆さんにアナウンスしますからぜひメッセージお願いします」と。この宮島先生も実は雪谷伝道所出身の先生でらっしゃいます。そんな雪谷の使命が10年ほど前に終わりました。
その雪谷伝道所の片付けに盛岡からクルマを走らせて二回、三回と行きました。これでいよいよだいたいケリがついたかなあという時に3人で撮った写真です。真ん中が國光幾代子先生です。後ろの高い位置にある額「栄光全地に満つ」、これは、雪谷が献堂されたときに蔦田二雄先生が揮毫された額です。それから、幾代子先生の背後にある額ですが、光って一部見えませんが、これは幾代子先生のお母さんにあたる國光良子という方の書です。この方は國光家の信仰のルーツでアブラハムというべき存在であります。この國光良子という人は非常に達筆でした。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)と書かれています。
幾代子先生の妹の美知子も献身し、戦前の蔦田二雄先生が寮監をしておられた茂呂の神学校に学びましたが結核に罹りまして結局退学を余儀なくされました。戦後しばらく療養していたのですけども、ほどなく天に召されなさいました。
この献身をした國光美知子を記念して、雪谷伝道所が國光によって神様に捧げられました。ご婦人の先生方がご高齢になられた時の住まいにという趣旨もあったようです。二階と会堂のすぐ横には何人か住もうとすれば住めるスペース。二階もそれなりの小さなスペースでしたが何人かは宿泊できました。これが雪谷伝道所のそもそもでした。しかし、もう10年ほど前に解体されて、今は別の世の中のものが建っております。その雪谷伝道所にあった記念のみことばの額二つが、皆さんご存じの通り、今は盛岡に飾られております。
もう一つのおことばが創世記17:1であります。
(新改訳2017)主はアブラムにあらわれこう言われた。「わたしは全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」
(文語訳)エホバ、アブラムにあらわれてこれに言いたまいけるは、「われは全能の神なり。汝我が前に歩みて全かれよ」
このおことばは、鞍掛山の頂上で祈っております時に与えられ、私は大きな励ましと導きをいただきました。いつごろから鞍掛山に登っていたのだろうかと振り返ってみたのですが、たぶん25年ぐらい前からです。以来、私は盛岡での牧会生活で、鞍掛山の道ほど神様にお取り扱いをいただき、恵みをいただいた道はございません。25年ぐらい前という決め手は、野田秀(しげる)先生が東北聖会でご用をして下さったときが2回ありましたが、そのうちの一回で、私が司会をすることになったり、やはり現地であり若手でもありましたから、いろいろと準備をしていくときに、聖会のために祈らなければと鞍掛山の上で祈りました。後日野田先生に「朝に鞍掛山で聖会のために祈っていた時に、熊にばったり遭ったんです」と申し上げたことを思い出します。そんなことから親しく、ことあるごとに祈りました。
そして何よりも、私が神学校の同窓会の責任を持たせられていた時期、大きな祈りの課題がありました。この時に与えられたのが、創世記の17章1節
我は全能の神なり汝我前に行(あゆ)みて完全かれよ
解放をいただきました。そしてまた、最近のことでいうならば、ひろ子先生の大きな病を得た時、私はこの鞍掛の道で、どれほど祈り、また力をいただいたか。
鞍掛山について書いた投稿をラジオの音楽番組「きらくら」に取り上げていただいたこともございました。
盛岡の「山好きかっちゃん」(國光牧師のブログ名)さんです。
パッサカリアの道というのがあるのをごぞんじでしょうか。おそらくどの地図にも掲載されてはいません。しかしそれは確かにあるのです。2019年6月10日の朝、前日の本放送を聴き逃し、スマホに取り込んであるきらくら美作市公開録音を楽しみに聞きながら鞍掛山の道を登りました。木々の新緑が朝日に輝いて木漏れ日がその道に彩を添えています。バイオリン松田理奈、チェロ遠藤真理によるヘンデルのパッサカリアが流れてきました。その第一音を聴いた瞬間からすっかりパッサカリアの世界に引きこまれてしまいました。私を囲んでいる木漏れ日がパッサカリアとともにおどりだしました。演奏が終わったときには、私はうっすらと涙をたたえ、美作の公開会場の皆さんと一緒に拍手をしました。それ以来私は、この道をパッサカリアの道と呼ぶようになりました。春に、夏に、秋に、パッサカリアの道は私に慰めや励ましを与えてくれます。鞍掛山の頂上から見る岩手山はなかなかの存在感があります。近くには有名な酪農の牧場があり、牛や羊たちがあそんでいるようです。盛岡でのきらくら公開は残念ながらありません。たのしい番組をほんとうに有難うございました。ー以下省略。
このように紹介していただきました。
ほんとうに一歩一歩歩むとき、神様はその祈りの課題に豊かにオープン・アップ、切り開いてくださるということを思います。
そしてもう一つ、私にとりましては、詩篇の138:8、
主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。
これは私にとりまして、今も、そしてこれから盛岡がまた新しい新発をいたします。私もまたこちらの方で新しい歩みを始めることになります。この二つのことを思いつつ、
ヱホバはわれに係れることを全うしたまはん ヱホバよなんぢの憐憫(あわれみ)はとこしへにたゆることなし願くはなんぢの手のもろもろの事跡(みわざ)をすてたまふなかれ
このおことばは、まさに其のとおりであります。この度のこのような突然と思われる神様のお導き、これは、私たちにとりまして、突然のことではありますけれども、神様の前では突然のことではなく、主がなさったこと。
私どもの引退に際し、神様は、Iご夫妻を、この教会の会堂の管理者としてくださり、パソコンの機器の設定、操作のためには大曲から素晴らしいYさんが指導してくださっております。またお別れの時には新幹線ホームにも駆け付けてくださいました。それらの恵みを一つ一つを思いながら、神様は道を開いてくださるってこういうことなんだ。呉に導かれ、そして、ご存じの通り、ひろ子先生が、この前の月曜日に最終的な、首の方のペットCTで肝臓の方には転移していない。そして間質性肺炎の方も大丈夫。ただ首の方に要注意のサインがある。耳鼻科の方で生検というんでしょうか。実際にその細胞を採りだして悪質か良性かを確認する、結果を見ていただくことになったのですが、結果、この前の月曜日、大丈夫悪性のものは見つかりませんでした。ただ数年前にこのリンパの耳下をやっていたので検査、しかしこれも悪性のものは見つかりませんでした。
繰り返しのようになりますが、工藤弘雄先生が夏に東北、盛岡においでくださったときに、先生が真史さんと一緒に常念岳をご覧になった話しが。真史さんが、ここからがいちばんきれいに見えると仰ったという話しを、聖会が終わってお帰りになる別れ際に聴いた時に、私にとっても常念岳は特別な山ですから、それが一層思い出深くなったのですけれども。まさかその常念岳の絵が、呉の病院で出会うことがあるとは! ほんとうに驚きました。
あなたが歩む 一歩一歩 わたしはあなたの前に 道を開く
スミス先生を導いてくださったというおことば、シリア語訳の聖書を私もアーメンと心から肯きつつ、これを皆さんにもご一緒にアーメンと肯いていただき、皆さん方も同じこの道を共に歩ませていただきたいと思います。
※データは國光牧師に申し出、お借りしました。
文責:中ぶんな
⏰6時15分更新
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