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きょうのことば「キリスト・イエスの心」ー第四アドベントー

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1218()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。呉からのズーム配信です。

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説教題 「キリスト・イエスの心」―第四アドベント― 國光勝美牧師
聖書引証 ピリピ人への手紙 2章1~11節 

1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

《メッセージ》

 改めて皆さんおはようございます。
 今窓の外を見ますと、明るい日差しが入ってきております。東北にある皆さん方の真冬の状況を知れば知るほど、どうか祝福が盛岡教会に豊かでありますようにという思いを持ちながら、このご用に立たせていただいております。
 「キリスト・イエスの心」。このおことばに導かれたのは、実は自分自身の心の在り方、在り様に弱さを感じることがございました。自分の感情をコントロールすることができない自分の弱さを改めて知らされたのです。具体的にあのこと、このこと、というわけではありませんけれども、少なくとも私の心の中では、これでいいんだろうか。自分自身に?を投げかけたのがきっかけでありました。
ちょうどクリスマスです。イエスさまを格別に深く思う時期に、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。私には文語訳の方がぴたりと嵌ります。このことばをふと思い、申し訳なく思ったのです。自分と、それからヨセフあるいはマリアを対比して、クリスマスの恵みを味わってみようと思います。神様がこのことに気づかせてくださった、そのように思いました。
 もっとはっきり言いますと、ヨセフさんを例にとってみましょう。責任感の強いヨセフは、許嫁の妻マリアがいよいよ出産が間近になっている。その時のマリアの不安な心。マリアがロバに乗せられたかどうか分かりませんけれども、そのような旅の辛さ。できるだけ速く進みたいのに思うにまかせない。お産までにもうすこし間があるなら、もうすこしはましな宿屋の手配ができるだろうに。しかしもうどうしてもここで泊まらなくちゃいけない。休ませなくちゃ。思うようにならないヨセフの思い。ベツレヘムに着いた時にはもうすっかり暮れてしまった。あっちの宿に行って断られ、こっちに行っても断られる。身重の妻がいると事情を話してもダメ。クリスマスの劇ですと、人のいいヨセフさんがそれでもあちこち宿を回って歩く。そして、よくあるヨセフとマリアとイエス様の光に包まれた誕生の場面がすぐ思い浮かぶのですけれども、実際にはどうだったのか。
 私はヨセフさんの気持ちを察するに、そんなにニコニコなんかしてられない。自分の妻をこんなところで出産させなければならない自分自身に対する苛立ち、不甲斐なさ。そして宿屋の人たちの思いやりのなさ。ヨセフの心はどんなに傷つき、それだけではなくイライラしてしまう。クリスマスの誕生劇を理想的に思いがちですけれども、現実問題うまくいかないことがある。あっちに行ってもこっちに行っても、この問題も、あの問題も。そういう時に、私たちは感情を持ってる人間なのです。生誕劇の劇中人物じゃないんです。その時の自分の感情を、また今ヨセフの事だけを言いましたけれども、マリアのことも考えてみてください。ヨセフさんを信頼していたけれども、こんなことになってしまってと愚痴の一つも言わなかったんだろうか。どうしてもっといいところが見つからないの、そんな思いがなかっただろうか。マイナス感情ばかり言ってしまうと申し訳なく思うのですけれども、私は、ヨセフも人の子、マリアもいわんや初めての出産の時でしょう。誰も手伝ってくれる人なんかいないのです。どんなに心細かったかなどなど、それを思うと、あの生誕劇で見る麗しい場面ではない、現実の生活の中に生きている私たちはこの感情をいかにコントロールするかということ。これは大きい問題だろうなあと。自分自身が通った、ほんの小さなできごとではありましたが、それを通ったとき、「キリスト・イエスの心を心とする」ということを、もう一度しっかりこのクリスマスの時に心に銘記したい、そのように導かれたのでございます。

 

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ピリピ2章5節には
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」
とございます。ピリピ2章6~11節は、偉大な聖徒たちがここに注目して説教をしている聖書の中でも非常に有名な箇所です。
 笹尾鉄三郎という人物、これは中田監督とコンビを組んで良き働きをした、ほんとうに素晴らしい代表的な聖徒といっていいでしょう。聖徒というに相応しい人物の名前を挙げるならば、笹尾鉄三郎。少なくとも私は蔦田二雄先生が、「私は笹尾鉄三郎さんにほんとうに会ってみたかった。彼はほんとうに聖徒と言われる人だった」と授業で聴いたことを思い出すのです。
この笹尾鉄三郎さんが、このところを説教している部分があると聞いておりました。私は盛岡にいたとき、あることがきっかけで、笹尾鉄三郎全集をもらったことがあります。なかなか読む時間を持てずにおりました。それでも取っておきたいと思いまして、本をばらしてパソコンに取り込んでおきました。スキャンしてデータ化する自炊です。まず蔦田二雄全集も取り込み、その後、笹尾鉄三郎全集を取り込んでおきました。
 笹尾鉄三郎さんがこのピリピの2章をどのように扱い説教しているかを見たところ、「七つのへりくだり」、それから七つの上に揚げられるという意味、高められるという意味の高揚、「七つの高揚」でした。多くの方々が、この先生の影響を受けているのです。バークレー・バックストン先生はどうかを見ますと、やはりバックストン先生も笹尾鉄三郎先生もこの7つのポイントをしっかりと押さえている。

 

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①キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、
これが天から降ってこられたイエス様、つまりクリスマスのまさにこのときのイエス様の謙遜、謙卑ということばを私たちは使いますけれども、イエス様の謙卑。神ご自身であられるのに、創造者であられるのに、そのお方が、その立場をかなぐり捨てるという、人の罪からの救いは、ここから始まったのです。そして
②ご自分を空しくして、
神様の属性、神の神たる属性、全能全地、偏在、あらゆる神様のもっておられる属性というものをイエス様はぜんぶかなぐり捨てた。そしてイエス様はそれだけではなく、
③しもべの姿をとり、
④人間と同じようになられました。
⑤人としての姿をもってあらわれ、
⑥自らを低くして、死にまで、
⑦それも十字架の死にまで従われました。

 神様が人となられるときに、大帝国の王子として生まれるならば、それはすこしでもバランスがとれるかと思うのですけれども、そうではない。仕える者の姿をイエス様はお取りになった。そして、同じ人間になられました。
 ホーリネスで小林先生とおっしゃる神学院の院長をしておられた先生も、やはりバックストン先生、笹尾先生のこのところを引用しておられ、「人間と同じようになられた」、これをポイントとして語っておられました。そして小林先生はこんなことを仰っていました。「皆さん、皆さんがもし、夜眠って翌朝目覚めた時に、自分が豚のようになっていたらどう思いますか」。豚とは!そういう例話は自分にはできなかったなあと思いましたが。神様が人となった。神様から見たのならば、ほんとうに豚のような、その姿になった。人間と同じようになった。被造物になった。
 地域で、春、秋に清掃があります。教会の前の下水道の蓋をあげて、泥をすくって掃除をしました。ふだん開けない下水道のふたを開けてみますと、そこに見たくもないような虫が、私がぞっとするようなミミズのようなのがのたうちまわるんです。神様が人となられる、それはこういうことなのかとも思いました。極限までの遜り。このイエス様が被造物として人の姿をもって、そして死に至るまで、それも十字架の死にまで従われた。これがイエス様のお姿です。クリスマスの時に人として生まれてくださった、これがクリスマスの心なんだよ。説教の準備をしながら、私はそう思いました。

 

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 そして笹尾先生もバックストン先生も、小林先生も、七つの謙卑があったとき、七つの高揚、つまり高められていくという神様のステップがあることを語っています。

①それゆえ神は、この方を高く上げて
②すべての名にまさる名を与えられました。
③それは、イエスの名によって、天にあるもの、
④地にあるもの、
⑤地の下にあるもののすべてが
⑥すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、
⑦父なる神に栄光を帰するためです。


 みなさん、どうかもう一度、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」、このおことばに心を向けましょう。私も語らせていただきながら、もう一度皆さんとご一緒に天から降られたこのイエス様の心を心としたいと切に願ったことです。

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 そしてこの時、私にはもう一人の尊敬する器の言葉があります。
工藤弘雄先生です。工藤先生はこのところを説き明かして、「キリストの心臓を私たちの心臓として移植せよと命じているようなみことばの迫りを覚えます」。こう説教しておられます。「いいですか、あなたの心臓をキリストの心臓に移植してもらいなさい。あなたの心臓じゃだめだ。キリストの心臓を移植してもらうんです。そのように神様は迫っておられるんですよ」。
 私は「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。アーメン」と思ってはいましたけれども「あなたの心臓じゃダメなんだ。キリストの心臓を移植してもらいなさい」とパウロは命じている。そうか、そうなんだ。まねをしてできるようなことじゃない。そしてそのキリストの心臓を私たちに移植してくださるお方は、聖霊なる神様です。私たちの心臓をキリスト・イエスの心をほんとうに自らのそれにできるように悔い改め祈り求めるとき、聖霊なる神様はそれをして下さる。イエス様は、そのことのためにこの地上に来てくださいました。このクリスマスの恵みをアーメン、主よわたしのためにあなたは降って来てくださいました。自らを捨てて空けわたすとき、ご聖霊様が、そうだよ、よく空けわたしてくれたね。名医中の名医であられる聖霊さまは、キリスト・イエスの心を私たちに与えて下さいます。

 ピリピの2章のところ、1節から3節4節のところを見ると、ああこうありたいな、ほんとうにそうありたいと思います。私たちのあるべき姿がそこにあります。私が一番初めに申し上げました感情の部分、それが解決された姿がそこにあります。今、イエス様の心臓をいただいた者として、この部分こそまさに成長していく部分だと思うのです。
 すぐに素直に砕かれることです。主よあなたのご栄光をあらわすことができないこんな者ですとすぐに砕かれることです。そしてもう一度主を見上げて、決して失望しない。だって私の心臓にはあのイエス様の心臓が入ってるんだもの。どうして失望しなくちゃいけないの。聖霊様によって、このイエス様の心を移植していただいた者として「われすでに得たり、すでに全うせられたりと言うにあらず。これを得んがために」生涯この地上にある限り成長し続けていく、このことのためにイエス様がおいでくださったクリスマスです。この意味を、もう一度皆さんとともに、この朝、確認をしたいと思います。聖霊によって移植していただく者とし、いただいた者としてお読みし、メッセージを締めくくりたいと思います。
それでは最後にご一緒に文語訳でこのおことばをお読みいたしましょう。


汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。

 

※データはズーム時に録りました。文責:中ぶんな
⏰6時22分更新


 

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