きょうのことば「クリスマスの星に思う」第二アドベント講壇
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年12月4日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。きょうは呉からのズーム配信です。
説教題「クリスマスの星に思う」―第ニアドベント― 國光勝美牧師
聖書引証 マタイの福音書2章1~12節
1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。」
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
《メッセージ》
皆様、おはようございます。
ともにアドベントの良い時を持たせていただく幸いを心から感謝しつつ、今日のご用に当たらせていただきます。
私はこの度、ひろ子先生の上に神様の大きな恵みのわざを目の当たりにさせていただきながら、聖書の中の奇蹟ということを深く思う時がございます。この奇蹟という言葉を使ってよろしいのか、それとも奇蹟的な神様の恵みと申し上げた方がよりぴったりするのか、そんなことを思いながら、クリスマスにあらわれる奇蹟を、改めて考え直す時を持ちました。そんな中で今日のメッセージが導かれたように思っております。
聖書の中には、誰でもが気づく圧倒されるような奇蹟があります。劇的なところはいくつもあるのですけれども、旧約聖書を見ると、エジプトのパロの圧政から逃れた、モーセに率いられたイスラエルの民が、紅海に道を閉ざされてしまう。後ろからはパロの軍勢が追い迫っている。切羽詰まったイスラエルに、もう皆さんよくご存じ、海がパーッと分かれて新しい道があらわれる。考えたこともないような道が開けました。そこをイスラエルの人々が主をほめたたえながら渡るあの出エジプトのできごと。これも誰しもが聖書の中の奇蹟と言うでしょう。また新約の時代では、あのイエス様が死人をよみがえらせる奇蹟、あるいは嵐の湖を静めるられる奇蹟などなどあります。つまり誰もが認めて圧倒されるような奇蹟を聖書は記しています。
ところがその一方で、そういう大々的な奇蹟ではないのですけれども、日常生活の中にひっそりと示される奇蹟もあります。それに気づく人たちはほんの限られた人たちだけであるという奇蹟があります。旧約聖書のエリヤが、あのカラスによって食物が備えられたというひっそりとした奇蹟。でも彼にとってはそれは大きな大きな奇蹟であるように、華々しい奇蹟ではありませんけれども、しかし、その中を通った人たち、それに気づいた人たちは、まさにそれが夜空にひときわ大きく輝く星のように、神様の恵み、憐みというものをはっきりと認めることができる奇蹟の星を見るように思います。そして、その人にあらわされた奇蹟の星は、間違いなく私たちを救い主、イエス様のところに導いていく、あのクリスマスのときの星のようです。
今年、クリスマスをともに皆様方と迎えているとき、神様がこのたび、この小さき者に示してくださったキリストのもとに導くクリスマスの星、これを証しさせていただきたいとこのように思っております。
この聖書の中には、やってきた博士たちが三人であるとは書いてないのです。人数は書かれてない。けれども、黄金、乳香、没薬をそれぞれ捧げたというそのところから、いつの間にか博士は三人となり、東方から、これはペルシャ地方ですが、東方から旅してきた。その時代は占星術というものがあり、それに携わっているのは、然るべき学識や地位、名誉のある王様、あるいは、それに準ずるような権力者であった。そういう博士たちが特に導かれてやってきました。どういう星だったのだろうかと思います。誰にでも分かるような星であるならもっともっと、当時は占星術というのは今の科学のような意味を持っていたはずですから、もっと気づく人々があっていいはずなのに、不思議なことにこの人たちだけがこの星を見ている。これは一体どういうことなんだろうか、そんな思いを持ちながら、この特別な星のことをお分かちしたいと思っております。
まず舞台を、ペルシャの方から導かれて来たエルサレム。ベツレヘムというところを心にとめたいと思います。
イエス様の時代のパレスチナです。赤の実線で囲まれた、緑色と青色に染められている部分がヘロデ王が統治していた領域です。そしてベツレヘムは、死海の西にあるエルサレムの南にあります。
星によって博士たちがエルサレムまでやってきた。そしてまた星に導かれてみどりごのいるその家まで導かれたとあります。まさにこれは奇蹟的な現象と言ってよろしいでしょう。
聖書に親しんでいる多くの方々が、一体この星が何だろうかということで、真実な探求心から解明しようとしています。たとえば超新星の爆発ではなかっただろうか。今の私たちが多少なりともそういう情報を知ってますので、なるほどそうかなと。超新星、ちょっと興味のある方々は、平安、鎌倉時代の歌人である藤原定家の「明月記」に、異常に輝く星があったという記述があるなどということを知っております。博士たちが見たのも或いはそういった超新星の爆発だったのかなあ、あるいは、惑星だとか、木星だとか火星だとか、一列に並ぶような大きな現象が起きてそうだったんだとか、あるいは私もハレー彗星の回帰の話しを35,6年前でしたでしょうか、今は亡きT姉の家庭集会で話題にしたことが思い出されます。このほかにもいろいろな幾つかの現象を絡めて、奇蹟的なこのクリスマスの星について論じているものがいっぱいあります。
しかし私はこのクリスマスの星に関して、もう盛岡で開拓以来49年のあいだ、クリスマスのたびに扱うのですけれども、実は、扱えばあつかうほど私にはぬぐい切れない積年の疑問があるのです。
東方で星が昇るのを見た博士たちが、ヘロデ王のところに救い主がどこにおられるのかを訊きにくるわけです。それがヘロデ王にはまったくわからない。王が律法学者、祭司長たちを集めて訊くと、ユダヤのベツレヘムです。それでベツレヘムに向かおうと外に出ると、かつて昇るのを見たあの星がまた現れ、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまったというのです。
素直に読めばまさしく何の疑問もないかもしれませんが、私には正直分からないなあという思いがあるのです。それはわたしの幼いころの実際の経験でありまして、生まれ育った松本でのこと。幼い頃、夜母親に手を引かれながら夜道を歩くのはやはり嬉しい思い出です。「見てご覧、お月様だよと」と言われ、空を見上げると大きなお月様が頭上にあるんですね。よし、あの月のあるところまで行ってみようと、前方にありますから一生懸命下駄をからから鳴らしながら走るんですけれども、走っただけ月が向こうに行っちゃうんです。あの家の下になかなか行かないのはどうしてだろうなと。その時に植え付けられた不思議なことでした。
家を特定できる星の動きっていったいあるのだろうか。これが積年の疑問です。正直解決されていませんでした。
実はきょう、これで積年の疑問が解決したと思ったので、私はこのお話しをするように導かれているのですけれども。
もう一つの疑問は、猜疑心の塊であるヘロデが、なぜその星をたよりに行く、星をたよりにしてというか、博士たちが行こうとしたときに、東方で見た星が再び現れて、博士たちが導かれたわけでしょう。私は思うのです。あの猜疑心の塊であるヘロデがユダヤ人の王と生まれたものを礼拝すると、彼にとってはとんでもない、平安ではとってもいられないような、そんなことを聞いてもう殺してしまう。ユダヤ人の王として生まれた者は絶対殺さなければ、自分の王位が危うくなる。もうヘロデが、言葉では「わたしも行って礼拝するから」と言ってとり繕って博士たちが出て行くというときに、もう私だって、「おい、奴らの後を追え、絶対逃すな」と私なら絶対命じたと思うし、ヘロデがそう命じないはずがないと思うんです。しかもそろってヘロデに仕える学者、律法学者たちは、ベツレヘムで生まれるって聖書に書いてありますよ。ミカ書を御覧なさい、そういって分かっている。ベツレヘムということが分かっている。しかも生まれた。どうしてヘロデはあの後を追わせなかったんだろうか。しかも星に導かれていく博士たちでしょう。博士たちの後をヘロデに命じられてついていったとするならば、その追手も星を見たはずです。けれども彼らはその星に導かれていない。もちろん追手がいたと聖書には書かれておりませんが、様々に想像され考えるわけです。
不思議な星だなあ、そう思ううちに、ああ、そうか、と分かったのがひろ子先生の癌がどこにも見当たらなかったことでした。積年の疑問が晴れた瞬間です。もう皆さんはよくご存じですけれども。どれほど皆さん方から祈っていただいたか、そして私も祈って祈って迎えた今回の診断でした。呉の国立病院の一室で、担当医師がにっこりと笑顔になって、「よかったですねえ。CTで見ても、MRIでみても、超音波で見ても見つかりません。腫瘍マーカーも正常範囲です」。こう聞いた時、ああ、祈りが聞かれるってこういうことなんだ。神様はこういうお方なんだ! 奇蹟を待ち望んでいた者たちには、はっきりと救い主に導いてくださる星なんです。しかし他の人たちには、片隅で起こった小さなできごとでしかない。数値云々といっても、画像云々といっても、そうでない人たちには何でもない。つまり、ほんとうに神様を待ち望んでいる人たちに神様は奇蹟の星をあらわしてくださる。あるいは羊飼いたちのことを例にするのならば、羊飼いたちが世の中から疎外されて、軽蔑されているようなお仕事だったかもしれない、しかし、そのお仕事をしている羊飼いたちが、私たちはこうやっていけにえに捧げる羊を飼っているけれども、やがて、本当の小羊が、私たちの罪のいけにえとなってくださる神の小羊が与えられるんだよといって、子どもたちに話している羊飼いたち、それを想像するときに、ああ、この羊飼いたちに、御使たちの大合唱が聴こえてきた。天に鳴り響く神をほめたたえる天使たちの歌声が、この人たちには聞こえてきた。だけど、他の人たちには何にも現れていない。私はヘロデ王が当然、絶対に追跡隊を送るはずなのに、送っていないというところに、そこにこそ何か私は、天的な奇蹟的な神様のバリアを感じるのです。
東方の博士たちは、どうしてユダヤ人の王となる救い主が生まれたからといって、ペルシャからはるばる、しかも自分のすべてを投げ捨ててまでも礼拝にやってきたのでしょう。それは本当に救いを待ち望んでいた真実な人たちだったからです。本当に待ち望んでいる人たちには、その星があらわれるのです。ヘロデ王のところに行って、さあベツレヘムに行こうとしたときに、再び彼らにあの星があらわれた。そうです。待ち望んでいる人たちには現れるのです。ほら、ここだよ。しかし、それだけはっきりとした奇跡であるにも関わらず、他の人たちにはぜんぜん分からない。それがクリスマスの星ではないでしょうか。クリスマスのできごとは、救い主を真実に待ち望んでいる人たちにだけ分かる、そういうものではないでしょうか。
ヨハネ1章9節
9すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
このメッセージでいうなら、「まことの光」、これはまさにクリスマスの星と言っていいでしょう。「世はこの方を知らなかった」とあります。多くの人々にはクリスマスの星が見えないのです。遮られてしまっているのです。「この方はご自分の所に来られたのに」、これは、律法が与えられ、ユダヤ人としての特権が与えられている己の民ユダヤのところに来たのにです。星は、はるか彼方のペルシャの何の関係ないようだけれども、真実に待ち望むその人たちには現れたのです。
世はこの方を知らなかったのです。この方はご自分のところに来られたのに、民はこの方を受け入れようとしなかった。そういう人たちにはクリスマスの星は見えないのです。
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも、人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
そうです。私の罪の身代わりとして十字架にお架かりになった神の御子を心から信じて有難うございます。罪を悔い改めてこのお方を受け入れ罪ゆるされたのは、それは、あなたがしたことではない、神によって生まれた人、これは私が願ったから私が望んだからというのではなく、ただ、神によって生まれる。
私は決してカルビ二ストではありません。選ばれたものだけが救われるなどというつもりはさらさらありません。けれども聖書を見るときに、私はほんとうに、ああ、これは神によって生まれる。このような恵みに与った者たちにだけ、クリスマスの星というのは見える、導かれるのだ、そのことに打たれます。
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
そうです。あの神の御子がこの世に来られたのに、こんな大きな奇蹟があるのに、多くの人たちは今の時代に到るまで、どれだけの人々がこの奇蹟を見ましたか、知りましたか。ほとんどの人は知らないでしょう。けれどもほんとうに生まれ変わりの恵みを受けた人たちは、このイエス・キリストに見るクリスマスの恵みを、もう心の中にあふれるほど感謝にあふれて受け入れることができているじゃありませんか。何と幸いな私たちでしょう。クリスマスの星が見える者とさせていただいた。ですから、神様はイエス様をヘロデの手からもお守りくださるし、そしてこの神様はこの私たちを守り続けていてくださるお方なのだということをアーメンと皆さん方と一緒に心に留めさせていただきたいと思います。私は、今回このクリスマスの時、積年の疑問がそうか!と晴れた思いが致しました。
※データは呉の國光先生の音声データ、地図は新改訳聖書2017から、イラストはズーム配信から撮りました。
文責:中ぶんな
⏰6時42分更新
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