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きょうのことば「インマヌエルの主」ー第一アドベントー

 インマヌエル盛岡キリスト教会の2022年1127()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、現在は広島県呉市に在住。きょうは呉からのズーム配信です。

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説教題 「インマヌエルの主」―第一アドベント― 國光勝美牧師
聖書引証 詩篇23篇
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに、あなたは私の前に食事を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。

<メッセージ>
 おはようございます。
 呉の方は暖かいと言っていいのでしょう。暖房を点けるかどうか迷う、そのような中にあります。先ほど、ズームで、礼拝の準備をしていてくださる盛岡の様子を、ああきっと寒いんだろうなあと思いながら拝見しておりました。特に今日は第一アドベントの聖日、クリスマスを直前にしていることを思いながらおります。

 皆さんにお祈りいただいておりますひろ子先生の最終的な診断が、22日の昼に呉の国立がんセンターの先生からございました。それは本当に驚くような内容でございました。盛岡では、膵臓癌の手術の後、肝臓に転移したということがありました。そしてそのための治療が行われたり、また、その治療薬の副作用で間質性肺炎も起こしました。盛岡の診断では、抗がん剤で癌の進行を抑えて寿命をどこまで延ばせるかということでした。また間質性肺炎がこのまま進んでいくのならば、癌の進行よりも、間質性肺炎から来る寿命の方が短くなってしまうだろうということで、もう抗癌剤は使えない。使わない。間質性肺炎を止める方に舵を切りましょうということになりました。
 ちょうどそれと前後して、私たちは5月末に、呉への導きがございました。呉のベタニアホームが空いて、主がこちらにお導きくださいました。 さて次に行ける病院はとグーグルの地図を見たところ、すぐ近くに国立がんセンターという中核的な病院が徒歩圏内にあると分かりました。ゆっくりひろ子先生と一緒に歩いて20分の距離です。
 盛岡からの紹介状と病状の資料を持って、国立がんセンターで新たに診ていただくことになりました。遠く盛岡からの紹介状とデータを持ってきたものですから、私たちにとっては初めての先生です。インターネットで、呉、国立がんセンター、消化器内科と検索すれば主治医の先生たちの何人かが出ています。その中の山口先生とおっしゃる方です。その方がどうも主治医になる。名札を見て緊張して行きました。
 お会いして、先ず向こうの先生が仰ったことは、「膵臓癌というものは、私はたくさんの例を見ていますけれども、そう長く生きられるものではないということが前提となった治療になる。極めて厳しいかというとそれは言い過ぎかもしれませんけれども」。医師として告げるべきことは告げねばとデータをご覧になって、「それが膵臓癌というものなんです。改めてこの病院でCTを先ず撮ってみましょう。そしてそれからMRIとか超音波とか、そしてもし気になるところがあったら細胞を取って検査をしましょう」ということでありました。
 一応これからの治療方針を仰った先生は、「ところでどうしてあなたたちは盛岡から呉に来たんですか?」。訊かれてはじめて「私たちは二人とも牧師をしておりまして」と言いますと、感染防止のアクリル板で隔てられてはいましたが、先生が一気にリラックスなさったらしく、「二人共ですか?」。「そうです」。「えー」。本当にのけぞって「カトリックですか? プロテスタントですか?」。「プロテスタントです」。「そうですか」。ふつうの患者さんであれば生きる死ぬということに対しては非常にナーバスにならねばならない、それを告げねばならない先生ですけれども、もう私たちがそういう生きる死ぬということもある意味納得し、それをテーマとして生きていることを知られた先生が、「おー」とそれから非常にフレンドリーに今後の方針をお話しくださいました。すぐCTを撮らせていただきました。
 そして一週間後にCTの結果をご覧になって「見当たらないなあ」と言うのです。「見当たらないけれども、盛岡のデータを加えると、これはもっと慎重に見なければいけないから、MRIの方を早速撮りましょう」ということで、MRIのスケジュールは詰まっていたようですが、係に「そこに悪いけど割り込ませてくれよ」と順番を取ってくださいました。それからそのまた一週間後、こんどは先生がMRIも参考にして先に撮ったCTも参考にして、診察をされる前に超音波診断を撮って、そのことも合わせて見てみましょうということになりました。
 ですので私たちは22日に超音波の検査を受けてから、いよいよ最終的な先生の判断をいただくということになったのです。
 超音波を録ったひろ子先生に聞いたのですが、録り終わった後に老先生と若い先生の会話が聞こえてきたのだそうです。「見当たらないな」というような会話をしていたと言うのです。
 それはそれとして、超音波も終わって、必要なデータがまとまったのがお昼過ぎだったと思います。いよいよ山口先生のところに行きました。先生は笑顔で「良かったですね。どこにも転移していませんし、それから間質性肺炎もまったく問題ないし、それから腫瘍マーカーも大丈夫ですよ。だから抗がん剤の治療は必要ありませんね」。付き添っていた私が「先生、本当に間質性肺炎大丈夫なんですか?」 と訊くと「だいじょうぶですよ」。そして仰いました。「ただこれまでの盛岡のデータもあるから、ちょっとこれは放射線がきついんですが、PET-CTを撮りましょう」。クリスマス前にこの検査を受けることになり、後で看護師さんがこのPET-CTの説明をしてくださいました。
 説明くださった後で看護師さんが、「ところで岩手からこちらの方にいらした國光さんですね」。と言うのです。どうも看護師さんの中でも、岩手から来たことは、よほど話題になっているらしい。仰るに「良かったですね。この先生はすい臓がん専門に研究している先生なんです」。「私たちも光栄です」と看護師さんも非常に喜んでくださった。岩手からここに来て、膵臓癌が意外な展開となったということが非常に大きなできごとなのだろうと思うのです。その意味で「光栄」と仰った、そう思うのです。「私たちも嬉しいことです」といってお別れをいたしました。

 私は誇張もせずありのままをお話しいたしました。私たちは一週間前あたりから、ようやくがんセンターの構造やらいろいろなことに慣れました。地下通路を通って正面玄関の方に來るんですが、その地下通路のところに絵が掛かっていることに気づきました。気持ちに余裕が出てきたのだと思いますけれども。地下通路に掛かっている大きな油絵、上高地から奥穂高を見るいちばん有名な景色です。なるほど、まさかここで見ることができるとは! と思いながら、長野県の松本出身の私は、ちょっと嬉しい気分になりました。近づいて油絵を見てびっくり。それがどう見ても常念岳の絵なのです。郷里の懐かしい山。なんでここに常念岳の絵が? 間違いない。へー、呉に来てこういう油絵に出会えたんだという驚きと喜び、そしてさらに話題が岩手山を望める鞍掛山につながるんですが。これは本当に神様のふしぎな導きと言ったらいいのでしょうか。雲の柱が動いて、神様がここの病院に、この先生に、導いてくださった。絵画も含めて何か不思議な神様の導きを感じたその出来事を、きょうのメッセージを語る前に、背景のような思いで語らせていただきました。

 それできょうのみことばからのお話はすこし短めになりますが。

 私たちはしばしば詩篇を取り上げます。それは詩篇には私たちの信仰生涯のありのままの姿が出ている。そこに共感を覚えるのです。飾らず率直です。ある時には失敗があり、ある時には嘆きがあり、ある時には悲しみがある。ある時には怒りがある。ある時には憎しみさえ出てくる。歯に衣着せずして信仰者の心の動きが素直に出ている。その中に私たち自身が投影されているような気がいたします。
 ただ詩篇を見るときには、ああなるほど、こういうことが書いてあるなあというような意味の字面という意味の二次元的な理解。その二次元的な理解から、こんど私たちが現実生活を生きているときに、いろいろなつらいこと、悲しいこと、嬉しいこと、そんなことをも経験しながらそれで詩篇を見るときに、そこに何か浮かび上がってくる。ああそうだ、三次元的な詩篇の理解がやってくるのです。ですからクリスチャンたちが詩篇を好んで読むというのは三次元的な理解が深まって来るからなのです。
 それとともに、もっと言うならば、これを通して神様との交わりがいよいよ豊かにされるという意味で三次元の上といえば四次元、つまり詩篇を通して神様との深い交わりが強められていく。これが詩篇の持つ無限の魅力だと私は思うのです。
 繰り返します。詩篇は二次元的理解から始まっていいのです。でも二次元的な理解から自分たちの信仰生涯を重ね合わせるとき、立体的にそれが捕えられてくる。ああそうだな。でもその三次元的な理解をさらに超えて、「ああ神様」となり、そこに四次元的な深みと或いは飛躍といったらいいのか、その中で神様に扱われる。これが詩篇の魅力だと思います。詩篇の22篇、23篇、24篇を見ましょう。

 



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 まず詩篇の22篇、これは四次元的な意味でいうのならば、ここに受難のキリストを見る。それは何かというと、まず1節に
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」
もう皆さんお分かりになりますね。イエス様の十字架上でのおことばです。つまりイエス様は詩篇の22篇をそのまま生きたお方なのです。
敵は8節のように言います。
「主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
22
篇には人々の嘲りのことばまである。

これが私たちの地上におけるさまざまな出来事、悲しみ、辛さをぜんぶ経験されたイエス様です。私たちの救い主は私たちのすべてを経験されたお方なのです。受難のイエス様と私たちの心が結びつきます。

 


Img_20221202_163258 そして詩篇の23篇、これは復活のキリストです。22篇が受難のキリスト、十字架のキリストであるなら、23篇を復活のキリストというように味わうことができます。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」。「私はいつまでも、主の家に住まいます」。
これは復活のキリストを私たちに証しするものです。

 

 

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そして24篇、これは凱旋のキリスト、
地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。
だれが、主の山に登り得るのか。
門よ、おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入って来られる。
 これがまさに凱旋のキリスト。
これが私たちが22篇、23篇、24篇の中で、四次元的に捕らえられることです。

 

 

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 今回アドベントの時、このイエス・キリストご自身というものを心に留めるとき、受難のキリスト、凱旋のキリスト、というこのお方が私たちの為に人となってくださった。私たちとこの救いのために、このお方が人となって下さったというこのことにあらためて思いをさせていただきたいとこのように思うのです。

 

 

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 ダビデは少年時代、羊飼いをしていました。ダビデは誰よりも羊飼いをよく知っているそのダビデが、23篇で「主は羊飼いだ」。動物の中でいちばん小さい者弱い者、それが羊。おろかなものが羊だということを、ダビデは少年時代からよく知っていた。そしてダビデは、「私の主は私の羊飼いなのだ」。そしてよき羊飼いは「いつくしみと恵みの神」。この23篇の6節。「いつくしみと恵みが私を追ってくる」。「いつくしみ」。これは神様が天地宇宙を造られたときに、「それは非常に良かった」と仰られたそのことばと同じことばが使われているということを、いつか皆さんと一緒に心に留めた記憶がございます。神様が天地宇宙を造られたときに、「それは非常に良かった」、文語訳では「甚(はなは)だ善(よか)りき」と仰ったその神様が私たちの羊飼い、そして恵みという言葉が6節にありますけれども、「いつくしみみと恵み」とありますけれども、これは、まったく同じ意味で「憐れみ」ということばです。神様は慈しみと恵みに富んで私たちをあしらってくださる。そして6節に私を追って来るでしょう。影が私たちが逃げようとしても離れずについてくるようについてくる。「追って来る」、これは「付き纏(まと)う」という意味が使われているようです。
 今回のひろ子先生のことを通して、神様のいつくしみと恵みがまさに追ってきてくださった。ほんとうに主が私の羊飼い、よき羊飼いであってくださいました。主がよき羊飼いであられることを心からアーメンと肯ける人々、それは、イエス様のお誕生を知らされたほんの一握りの羊飼いであったり、星に導かれた博士たちであったり、世の中から見たのならば、ほんの世界の片隅で起きた小さな取るに足りない小さな出来事、でもそこに神様のいつくしみと恵みがある。

 私が今日のメッセージの序論でひろ子先生のことを証しさせていただいたのは、祈っていてくださった皆さん方に、ほらね、主はほんとうに導かれたでしょう。皆さんは、ほらね、と言って分かっていただける方々なのです。他の人たちには、こんなことは世の中の片隅で起きた小さな取るに足りないことなんです。でも、神様に祈っている人たちにとって、ほら、神様ってすばらしいお方でしょう。私がこのようにお話をし、皆様方が、そうだ、ほんとうに私たちの主は私たちに良き羊飼いでらっしゃるんだということを肯いてくださるのならば、今年に相応しいアドベント第一回目になるのではないか、このように思っております。

 

※データは会員の方が記録した動画から撮っています。
文責:中ぶんな
⏰6時26分更新

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