きょうのことば「まことの光の来臨」ー第三アドベントー
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年12月11日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、ひろ子牧師は、現在、広島県呉市に在住。きょうは呉からのズーム配信です。
説教題 「まことの光の来臨」―第三アドベント― 國光勝美牧師
聖書引証 ヨハネの福音書1章9~18節
9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
17律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
《メッセージ》
クリスマスにはキャンドルがよく似合います。きらびやかなイルミネーションは風物詩、心をなごませてくれます。世の中の人たちにとっては賑やかできれいなものですけれども、クリスチャンたちにとっても、やっぱり、嬉しいものです。
でも私たちにとってクリスマスの光というのは、あの羊飼いたちにあらわれたみ使いたちの大合唱。「今日ダビデの町で、なたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。み使いたちの夜空に輝く大合唱。それからもう一つ、前回、東の博士たちのことをお語りいたしましたけれども、救い主に導く輝く星の光、これに、やはり私たちは思いを致すことです。
私はこのクリスマスの光を思い巡らしますときに、ヨハネ伝の第一章、ここからクリスマスのメッセージをともに与らせていただきたいと導かれてお開きいたしました。
ヨハネ伝の1章の1節から
1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、
このように書き記されておりますが、私はこの「ことば」に強く心が向けられました。
皆さん、ここで使われている「ことば」というのは、「ロゴス」という意味が使われている。一体「ことば」とは何でしょう。
小学生の頃の記憶ですが、先生が「人間だけが言葉を使うことが出来るのです」と教えてくださった。妙に納得しました。そうか、言葉を使えるのは人間だけなんだと思ったのですが、それから様々研究が進められているようで、どうも、言葉というのは人間特有のものではなさそうです。いろんな動物も言葉を話していることが分かってきている。しかしそうであればあるほど、一体言葉って何なのだろうか。
それは、交わりをする手段。そうです。交わりをする手段として言葉があります。そして、さらに考えると、ここで言われている「ことば」というのは、交わりの手段というよりもそれを超えて、交わりそのもの。「ことば」というのはそういうものです。
このように思索を発展させていったのです。すると、「ことばは神とともにあった」。もちろん「この方」とありますから、イエス様のことを指しているわけですけれども、そして、「ことばは神であった」。交わりをもっておられる。そして、これと非常に並行して思い起されることばは、神様、天地創造をなさったとき、神様はことばによってこの全地宇宙を造られていかれました。そして神様がお造りになられた中で、ご自身に似せて造られた最高のものとして人間を造られたということは、人間こそ神様の交わりの対象として最も優れたものである。神様は人間を造って、人間と交わることを最終目的として天地宇宙を造られたのだ、こういって間違いないと思いました。神は人をご自身の形として創造され、男と女にこれを創造された。ですから、神様は人間と交わることを何よりの目的としてこの世界をお造りになられたのに、罪を犯してしまった人間が神との交わりを失ってしまった。そのことを心から悲しまれたお方が、人間との交わりの回復の最終手段として、あろうことかご自身の愛してやまない第二位格の神ご自身であるイエス様を私たちの交わりを回復させてくださる手段として、まことのことばなるお方が人となってくださって、十字架の贖いを為して交わりを回復させてくださった。このように聖書は理解することができます。
私はクリスマスの時に、み使いたちがほんとうに嬉しそうに大活躍をしながら、登場してくるのを見ます。ガブリエルが、或いはみ使いの大合唱が。それは何でしょう。み使いが堕落してしまったのがサタンです。いわゆる悪魔は、み使いが堕落をしてしまった。で、そのみ使い、堕落したみ使いを救うために神様は何かをなさったのではない。人間が堕落したときに神様は御子をお降しくださった。み使いはそれがほんとうにある意味羨ましがった。これほどまでに神様に愛されている人間を。だからみ使いは人間の救いのために執られた非常手段を、妬ましいというと言葉は正確ではないでしょう。だけども、み使いとすれば本当に人間の救いの為に神様がこれほどのことをしてくださったという喜びをもってお仕えしてくださったんでしょうね、神。そんなことを思うのです。 ☆
4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
わたしは「いのち」ということばが、しばしばゾーエイということば、ビオスということば、ギリシャ語にはいのちをあらわすことばとして、少なくともこの二つがあって、ということをしばしば今までもお語りしたので、もう一度初心に帰って、このヨハネの1章4節の「いのち」ということばにどんな言語が使われているのかと思って、今はこういうネットの時代ですので簡単にギリシャ語にたどり着くことができますので、それをさがしてみましたらば、確かにゾーエイという言葉が使われていました。それは人格的ないのちを持っている。そしてもう一つ、ビオスという言葉は「命」という言葉であるのですけれども、これは生物学的な意味の命、生物の持っている命といったらいいでしょう。人間は生物的な命を持っていると同時に、人格的ないのち、これは何かというともう神様と交わることが何よりのいのちでありますから、いのちとは何かというと交わりですから、神様との交わりを持っているゾーエイ。
聖書に伝道者の書がありますが、「空の空、空の空かな、すべて空なり」(伝道の書)ソロモンが詠んだ詩だと言われていますが、人間の栄華、世の中的な人間が望んでいる栄華をぜんぶ満足させた。つまりビオスの望んでいる動物的な生物的な満足、快適な環境、美味しいもの、本能を満足させるすべてのもの、これで人間は満足するかというとそうじゃない。伝道者ソロモンは言います。「ことはすべて言い尽くされた。神を信じる事、これが人にとってすべてのすべてだ」と。つまり神様との交わりがなかったのならば、人間は決して満足しない。「このいのちは人の光であった」というときに、「すべての人を照らすまことの光」。それ対して偽りの光がある。それがビオスの光であると言ったらいいでしょう。
☆
しかしそこに、すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。
神様との交わりの光、これを回復させてくださるために、ことばなるお方がこの世においでくださった。
この方はもとからよにおられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
私が丸の内時代に聴いた忘れられないクリスマスメッセージがあります。それは二重のnotがあるのだということ。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
(He was in the world, and the world was made by him, and the world knew him not.)
11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
(He came unto his own, and his own received him not.)
世はこの方を無知から拒絶した。この方はイスラエルの待ち望んでいるメシアとして来たのに、いいやこんなのを受けたくはないと言って、ご自分の民はこれを意志的に拒絶した。knew him not そしてreceived him not 。世の中はこのことばを受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
「受け入れた人々」、これは意志的に受諾することです。つまり私にはこの人が必要だ。このお方を私は受け入れますと意志的に受諾することです。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権が与えられた」。
使徒の働き20章21節に
「パウロは、ユダヤ人にもギリシャ人にも、つまり、すべての人々に対して、神に対する悔い改めを宣べ伝えた」と言っています。そしてパウロは、「主イエスに対して信仰することを私は証ししてきたのだ」と宣言しています。
同様に、私たち、神を知らざる異邦人であった私たちが、ああ、私は誤っていた、間違っていたといって悔い改めること。そして、私たちの罪の為にこのお方が十字架に架かってくださった、罪の解決をしてくださった。そしてこのイエス様が、神との交わりを回復してくださる。このお方を見上げるとき、私たちは神の子どもとされる特権を与えられました。 ☆
神の子どもとなる特権です。当たり前のようですけれども、当たり前のようにイエス様の聖名を使っていますけれども、これは途轍もないことです。生まれながら神の怒りを被るべきものが、あろうことか、私を救ってくださるために、神様はイエス様の命さえも見捨てて下さったのです。引き換えにしてくださったのです。それほどまでに私たちは神様に愛されている。で、私はキリストの贖いのゆえに神様の子どもとされた。神との豊かな交わりを私たちは得ることができました。
クリスマスはある意味子どもの時の方が楽しいかもしれません。それはこれが欲しい、あれが欲しい、サンタさんこれ持ってきてくださるかな。じゃお手紙に書いておこうか。甘えて、期待して、そして、眠ったその時を皆様方覚えておられるでしょうか。それは、お父さんお母さんたちに対する心からの信頼とそれから甘え、それがここにあったんですね。私は神の子どもとなる特権が与えられたというときに、そうか、私は神様に思いっきり甘えてみよう。だって、そうなることを期待して神様はイエス様をこの世にお降しくださったんだから、もっともっと神様の前に信頼を持って甘えてみたい。良い意味で思いっきりダダをこねてみたい。それを神様は願っておられる、このように思います。
聖霊によるいのちの賦与、自分でこのようになったのではない。これは神様によって私が罪びとであるということを自覚させられ、神様の恵みによってイエス様の十字架のすばらしさというものに膝まづかせていただき、有難うございますと受け入れたとき、荒野で蛇を揚げたごとく人の子もまた揚げられる。滅びの中に死んでいた者に新しいいのちが与えられる。それは「神は実にその一人ごを給うほどに世を愛されたそれは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
どうかことしのクリスマス、この神様の命あふれる祝福のクリスマスを持たせていただきたいと存じます。
10節11節の英訳はお訊きしたところ、King James Bibleからということです。
文責:中ぶんな
⏰5時11分更新
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