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きょうのことば「雲が上がれば旅立った」―送別礼拝― 

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1030()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「雲が上がれば旅立った」―送別礼拝―  (國光勝美 牧師)
引証聖句 民数記91523
15 幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。
16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
17 いつでも雲が天幕から上るときには、そのあとでイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。
18 主の命令によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。
19 雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。
20 また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。
21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。
22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。
23 彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主の務めを守った。

<メッセージ>
 あらためて皆様おはようございます。このように送別礼拝を、主にある兄弟姉妹方とともにまもることができますことを深く深く心から感謝を覚えております。
まさに今雲の柱が動いて、それに遅れないように出発しようとの準備の段階にあることであります。私はいつものようにネクタイをしておりますが、慌ただしかったことを証ししなければなりません。うっかり礼拝用のネクタイも荷造りしてしまい、すぐに司会の兄弟に電話をして事情を話したところ、ネクタイを下さいました。教会のバザーで買ったものなので返さなくてもいいということでした。ネクタイ無しのニューファッションでやろうかとも思いましたが、兄弟に助けられました。
 今回の移動は数か月前から分かっていたことですけれども、ご存じの通りこの数か月は突然の葬儀が入り、またその後も結局お葬儀関連が3回続きました。しかしこれもみな私が盛岡でご奉仕させていただく必要のある方々として主が導いてくださった方々であったと改めて深く覚えております。
 ひろ子先生は病の中でありますけれども、引っ越しというとそれなりの大きなストレスと疲労があるのが当然のところ、不思議なように支えられております。ほんとうに感謝なことでありました。
 私はと言うと、やはり教会の事務的なこと、また多くの方々の訪問をいただきましたりで、なかなか書斎の辺りが片付きません。「あなただいじょうぶなの?」とひろ子先生に言われるんですけれども、慌ただしい中にも詩篇1388「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます」「エホバはわれに係れることを全うしたまはん」(文語訳)というおことばが胸中にございました。
 そんな中でようやく最後の最後に長らく開けたことのなかった机の引き出しを見ますと、東京の丸の内教会の渡辺倉造勧士、勧士というのは信徒の立場であってもご用をする資格を持っているのですが、その渡辺倉造勧士の達筆になる栞が出てきました。私たちが盛岡で開拓をすると知り、「もし洗礼者が与えられたらば、その都度、受洗者の栞を私が作るから楽しみにしていてください」と仰って、受洗者が出ることを楽しみに待っていてくださいました。そして第一号の方から、次つぎに作ってくださった。勿論その都度栞は関係した方にはお配りしてあるんですけれども、その中の一枚一枚が奥の引きだしの中にありました。感慨深いことでした。初めての第一回開拓のとき1974年の夏、そしてクリスマス、洗礼を授けてくださったのは当時の教区長の川村襄先生でありました。私の初めての盛岡の冬の経験がこの1974年。たしか12月の11日から一泊二日の河村先生の巡回をいただいたそんなとき、大雪が降りまして、結局その雪が春まで解けずに根雪になった。あの当時は寒さが厳しかったなとそんな思い出があります。
 また栞が入っていた引き出しに一枚のメモを発見したんです。もう茶色く色が変わってますが、一枚のメモ。見たとき記憶がよみがえってきました。
 私たちが初めて盛岡に赴任したのが1974413日でしたが。その当時春闘が年中行事のように交通機関を、特に国鉄を巻き込んで、国鉄と言っても今の方はピンとこないでしょうけれども、ストライキで東北に限らず列車が動かないんですね。盛岡で初めて説教をしなければならない、その聖日に間に合うか間に合わないかの瀬戸際です。そのとき、今日ズームでこの礼拝に参加してくださっている橋本兄が「俺の友達に交通公社の人がいるから、発売になったら真っ先にキーをポーンと叩いて発券してもらうようにするから」と機転を利かしてくれたのです。それでやっと夜11時上野発十和田行の急行に乗ることができました。盛岡駅に着いたのが土曜日の朝。小雨そぼ降っていました。昔の盛岡はご存じの通り、駅前には日通の倉庫が幾つかあって、ここが県庁所在地の盛岡? しかしちょっと行きますと開運橋というのがあって、それを渡ってみると、あ、街なんだということが分かって。開運橋のこっち側はもう倉庫のようなところだったのですが。教区長の河村先生から「あなたの行くところはここだから」と受け取った住所、交通などを書いたメモを頼りにバスに乗りました。夕顔瀬という橋があり、へーロマンチックだな。ところが川を見たところ、ちょうど線路の石が茶色くなっているように川が濁っている。北上川だというけれども水際の石が線路わきの石のように錆びついて見えるのにはびっくりしました。後で訊くと松尾鉱山から出る強酸性水が流れているということでした。後には清流化されましたが。そして前九年というバス停を聞いたときに、たしか歴史の教科書でやったよな、ここだったのか、などなど。
 私とひろ子先生は神学院を卒業して、初めてお昼を婚約式か何かの時に御茶ノ水の駅の近くのレストランでスパゲティを食べた。それぐらいしかないのですが。そのひろ子先生と盛岡に着いたのが土曜日。そして翌日はいよいよ日曜日、聖日です。説教をしなくちゃいけないわけです。私は初めて自分の妻となった人を前に置いて日曜日の説教をしたわけです。その説教のメモ、走り書きのメモ、第一回説教の走り書きした原稿なんですけれども、それが引き出しから出てきたんです。
 そうだったなあ。出エジプト記の17章ヨシュアにアマレクが攻めてきて、そしてそれと戦わなくちゃいけない。若いヨシュアが闘ってその大先輩であるモーセは山の上で祈っている。モーセは山の上で手を挙げて祈っていると、山の下で戦いが進められている。戦いはヨシュアの方が優勢になる。だけど、モーセが疲れて祈りの手が落ちてくる。するとアマレクが優勢になる。その聖書の箇所を私は第一回の盛岡の礼拝で開きました。ヨシュアにとっては初めての戦い。モーセにとっては初めて自分が戦闘に加わるのではなく、一歩退いて祈る。ヨシュアにおいてはほんとうに初めての戦い、まさにそれは私が置かれている盛岡の戦いと同じだなと。その時に盛岡のためにモーセのような祈り手がちゃんと祈っていてくださる。とりなし手がいらっしゃるということなどなど。聴衆は空席の座布団を前にしたひろ子先生一人、大説教をしたのは私一人。それを思い起しながら、このメモを見つめ、これは大切にとっておこうと思いました。


 差し迫った引っ越し準備のさ中に、今日私は皆さん方と一緒にこの民数記9章の15
、途中からなんですけれども、皆さん方はイスラエルの民が出エジプトというできごとを通ったとき、後を追って来るパロの軍勢、前には紅海が彼らの行く道を塞ごうとしているときに、モーセが杖を。そして祈ったとき、そのモーセの祈りの手が先ほどの話しとつながるんですけれども、その時に、つまり、この雲の柱、火の柱、これは神様のご臨在の可見的といったらいいか、ご臨在が目に見えるしるしとして、雲の柱、そして夜はそれが火の柱として彼らをまもってくれるものであります。聖書はこの雲の柱という神のご臨在をもって民を導いてくださいます。

 きょう開きました民数記9章には、神のご臨在を示す雲の柱がとどまっているのならば、ずっとそれが長い期間であっても彼らはそこに止まっていた。1721節と、イスラエルの子らは、雲の動きに即刻に従っていきました。22節を見ても、二日でも一月でも、あるいは一年でも雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。つまり、神様の臨在の中に彼らは導かれていきました。同じように私は神様のご臨在の雲の、神様のご命令の雲の柱の、決して先走りはしてはいけない。しかし雲の柱が動いたのならば、遅れてもいけない。主の命によって動くということを、これまでもしてきました。50年近くというのはほんとうに長い期間でありましたけれども、神様は、よし、さあ動きなさいと応援してくださいました。それをひしひしと感じ、これが神様の時であると、様々なことの中に経験してまいりました。
 そして皆さん方が、牧師が去った後の神の教会の維持、管理、活動のために本当に一つとなって動いていてくださる。これは私がいつまでもこの教会にいては決してできることではない。見ることのなかった光景です。さあ、雲の柱が動いた。私はこれを皆さん方の人生の信仰生活の尊い一つの事例として受けとめ、そうだ、もう次の地に行ってもよいのだと。私も実際そうさせていただきます。皆さん方も臨在の雲に従ってそれをしっかりと捕えて歩んでいくならば、ぜったいに間違いはなく神様が導いてくださる。
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 時として、私たちは神様の臨在の雲を見失ってしまう時があります。どんなときなのか、自らの焦りなのか、あるいは生き方がすこしずれてしまっているのか。そのことに気が付いたのならば、そこでいつでも悔い改めて、もう一度主の前に膝を折って祈ることです。そのようにして進んでいくのならば、ああ神様はちゃんとおられた。ただ私は気づかなかっただけだ。だいじょうぶです。導かれていくことができます。


 この教会の入り口にはS兄が色紙に書き額装した書「大路」が掛けられています。清々しい品格のある書です。S兄がマリオスで個展を開いたとき、「先生どれでも一つ差し上げますから」と。そのときに譲り受けたものですけれども、「大路」。イザヤのおことばを思いながら、このように雲の柱に導き続けられ天にお帰りになられた信仰の勇者です。まだまだおられました。そのような方々を思いながら歩ませていただきたいと思うのです。

 先ほどの橋本真理姉の賛美のビデオの中に、鞍掛山の頂上から見た景色が映っていました。私が鞍掛山が好きな理由はこの写真一枚でもおわかりいただけるでしょう。この写真の記録を見ますと、去年の1028日、ですから凡そ1年前の鞍掛山です。私は朝はやく家を出るものですから、この日は659分に頂上に着いております。岩手山が目の前に見えている。雲を通して太陽が朝日をさしてくるところです。私は雲の導きというのは、経験的に言って、これは妙な神秘的な意味で言うのではなくして、神様は導かれる。大きな選択しなければならない課題があるときには、私はこの頂上の地点で祈り、「汝我前に行(あゆ)みて完全かれよ」という創世記171節のおことばが心の中に通いました。またひろ子先生が病という大きな闘いの中にありますけれども、その時にも、私は雲に導かれるかのごとくに、そこで祈りをなし、そして皆さん方にも祈っていただきながら今日このような道筋を迎えることができている。私の場合には鞍掛山の朝の祈りの時がシンボリックなデボーションのひと時でした。


 証しはそこまでにさせていただいて、これに従って、私どもはこんど盛岡から広島の呉の方に移転させていただきます。週報にもございますが、引っ越し業者さんとの打ち合わせで、今日の午後4時にこちらに来て搬出してくださるということでありました。呉の方には111日の午前中に着き搬入を終わらせるという予定です。
 神様の雲の臨在は語り掛け、私たちを導いてくださいます。導きの先走りをしてはいけない。しかしそれに遅れてもいけない。これを心にとめながら、今回のおことば
エホバはわれに係れることを全うしたまはん
エホバよなんぢの憐憫(あわれみ)はとこしへにたゆることなし
願わくはなんぢの手の
もろもろの事跡をすてたもふなかれ
              詩篇138篇

「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください」詩篇138
 このおことばを握りしめて、またこのみことばの雲に導かれて行きたいと思っております。本当に皆様方の尊いお祈りをいただき、今日までありましたこと、深く深く感謝を申し上げます。有難うございました。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆
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國光ひろ子先生のご挨拶
 皆さまほんとうに50年、長い方で50年、そうでない方たちもいらっしゃいますけれども、ほんとうに小さな者のためにお祈りいただき、お心遣いをいただき、本当に感謝しております。まだ移動するという実感はまったく湧かないのですけれども、明日にはこの盛岡を発たなければならない。いまいちはっきり自覚できておりませんが、でも現実には、そのようになると思います。私たちが思うよりも願うよりもはるかに勝ることをしてくださる神様を信じて、さらに進んで行きたいと思っております。
 私、こんなことを申し上げていいかどうか分かりませんけれども、私が皆様と次にお会いするのは天国という方が現実的だなあという思いはしておりますけれども、もしゆるされましたら、呉の方にいらしていただきたいと思います。私、近所の方や、いろんな関係の友達がいて、話が終わるところで「絶対倉敷に行くからね」「行こうね」と言ってくださっているので、とても嬉しく思っております。皆様もどうぞお大事にしてくださって、この寒い冬を乗り越えて行っていただきたいと思います。私は暖かいところにいて申し訳ないと思うのですが、ただ暑いのは苦手なのでどうしようかと思うのですが、主が導いてくださったのなら逃れる道をも備えてくださると信じておりますので、尚お祈りを宜しくお願いいたします。また折々にズームでお会い出来たら嬉しいと思っておりますが、それは際限なく許されることではなさそうですので、とりあえず2月まではズームでお会いしたいと思っております。有難うございました。


※このたび、牧師夫妻が盛岡を離れ、広島県の呉に転居することとなりました。キリスト教関連の多くのページは、イエス様があがめられるようにということで、牧師個人のご忍耐やご苦労、写真などはほとんど掲載されておりませんが、私が個人的に思うところは、経済的困難があろうとも生涯を神に捧げた先生方については、そのご労を讃えてもいいし、そうあってよいとの思いから、また一人にでもキリスト教を知っていただくことができれば、またどなたかの人生の何らかの一助になることができればと、このブログを書き続けてまいりました。先生方の移転で、レコーダーから起こすことは一区切りとなります。今後はできる範囲以内で無理をせずにということになりますが、どうぞ宜しくお願いいたします。
先生方は9月31日、9時50分発の新幹線で、日常の勤務のある方々はやむを得ず新幹線ホームで送る事はできませんでしたが、それ以外の方々皆の讃美歌に、握手に、お一人おひとりの感謝のことばに労われ発たれました。ー中ぶんなー
⏰6時40分更新

 

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