きょうのことば「キリストのからだをたてあげる」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年11月13日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕を一区切り、現在は広島県呉市に在住。今朝は呉からのズーム配信です。
説教題 「キリストのからだをたてあげる」―呉からの礼拝― (國光勝美 牧師)
引証聖句 エペソ人への手紙 4章7~13 節
7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」
9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。
10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するのです。
<メッセージ>
盛岡教会を離れて、ようやく盛岡教会というものを客観的に見る立場になりました。きょうのおことばの一番の中心は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです」。このエペソ4章12節のおことば、今日はこれを中心に思い巡らしたく願っております。
教会はキリストのからだです。このおことばを思い巡らすときに、改めて、私たちが関わっている教会はイエス様ご自身のおからだであるということ。今まで字面では読んで、また牧師という立場で語ってはいましたけれども、イエス様のお体が教会なのだということを新たにとらえ直した時に非常な畏れを感じたのです。聖なる畏敬の心です。掃除をしたり、あるいはどなたかが司会のご奉仕をされるときに、私も皆さんもフローアより一段高くなっている講壇に上がるときがあります。この教会では、私も皆さんもいつものようにスリッパを履いて講壇に上がっております。ところがある教会では、講壇にのぼるときには、スリッパを脱ぐか履き替えるかしておられました。良い悪いの問題ではなく、何れにしろ聖なるものに対して畏敬の心を持つということはとても意味のある大切なことなのだと教えられ、そのことが非常に新鮮に思われました。どうか皆さん方、そういう心を持つべきであるということだけで、どうぞいつもと同じようにスリッパを履いて講壇に上っていただきたい。決してそこで脱いでくださいと言ってるわけではありません。ただいわんとしていることは、私たちが関わっている教会のお仕事というのは、キリストのからだに係るお仕事である。そのことを意識させていただいたことです。メッセージを準備しているときに、そのことにふと気が付いて、先ず序論のように皆さんにお伝えしました。
さて、先ほど申しました通り、盛岡にいたときには、教会と自宅が距離的に一体となっていたものを、客観視できる教会という時、私自身、教会とは何なんだろうか。教会には二つの面があるというようにきょうは分類してみました。
一つは公開性ということ。そして、一つは閉鎖性ということ。教会は公開性と閉鎖性という二つの側面を持っている。有名なマタイ11:28には「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます」とありますけれども、「さあ誰でもいらっしゃい。私のもとに来なさい」というキリストの招き、これは公開性の一つのおことばだと思うのです。ところが、閉鎖性というときに、ヨハネ15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えて下さるようになるためです。
このヨハネ15章16節のおことばは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。イエス様に招かれた者が教会なのです。その意味で、閉鎖性がある。閉鎖性というと良からぬイメージがわきますが、ここでいう閉鎖性はマイナス的なイメージではない。この教会の閉鎖性というのは何なのか。教会、これは生まれ変わった者たちが集まっているところ。そうです。すべての人にキリストの招きがなされています。そして聖霊の働きのゆえに、私はその招きに応じたい、行きたいと言っていらした方々はキリストに選ばれた人たちです。その意味で、十字架を見上げた人々を、イエス様は「あなたはわたしのものだ」と言われる。キリストのものになり生まれ変わった者たちだけが教会なのです。その意味で健全な意味で教会はキリストによって生まれ変わった人たちの集まり。こういってよろしいかと思います。この二つが矛盾しないで健全に一つとなる。これが理想の教会であります。
更に教会というものを思いめぐらすときに、教会が持つ個性、それは盛岡教会と具体的なことを念頭に置いていただいても結構です。教会が持つ個性、それは、教会は協力性を持つとともに、独自性を持っている。この二つの要素、これもまた聖霊によって麗しく調和していくということが大切です。これまで50年ご奉仕させていただいている中で様々な経験がありました。協力性ということがずっと前面に出ていきますと、私たちの教会というものが無秩序になってしまう。また、独自性ということが強く強調されるときに、私たちの教会こそがという独善的なそういった教会になってしまう。お分かりいただける一つの例としまして、今から11年前に3・11、あの大災害が起こって、教会もそれに貢献するべく「3・11岩手教会ネットワーク」というものが立ちあげられ、そしてビリーグラハム大会の組織がそのまま現在にも良い意味で継続しているその団体が「希望の祭典」というものを企画し、東北地方の教会はこの時こそ福音を協力して伝えて行こうというよい働きを推進したことがあります。このときに協力をするということは大きな意味のあることでした。その時に、いやそうではなく、自分たちは自分たちでやっていくんだという独自性を強調してしまうとそこに独善主義、自分たちだけがということになってしまう。ところがまた協力性というものがどんどん広がっていくとそこが無秩序な状態になってしまって、そのことから、たとえば沿岸地域に、いわゆる教会に大きな混乱をもたらす異端的なものがどんどんと入ってきてしまう。すると、協力していたのにそれが無秩序な状態になってしまう、そういう危険性がある。これはいつでも考えさせられたことです。教会にさまざまな協力を要請されることがありますが、私がいつも悩んでいるのは、協力性と独自性のどれだけの調和を持つことができるだろうかな。私はまだ答えが出ていないような気がするのです。いかにして健全に調和をしていくことができるかをまだ見極めてはいない。これは更に力をいれるべきことなのか、身を引くべきことなのか。知恵をいただきながらこれからも教会はこの要素をしっかりと把握し理解していきたいと思います。
幸いなことに私たちは教団というものに属しておりますから、正しい情報をもとにこれから秋田の神谷先生、仙台の細田先生の指導を受けることができます。きっと両先生方のご協力のもとに、この協力性と独自性のバランスのとれた教会として働いてゆくことができるようになるだろうと思います。
それから、こんどは個人の特性ということを見てみたいと思うのです。これにも同じように協力性と独自性というものがあり、これが無秩序になりあるいは独善主義になる、こういう個人の特性ということも、教会の牧師として私があったときに、自分の性格というものを、そしてこれは教会にどういう影響を与えたのだろうかと客観視し、思い巡らしているさ中であります。私は自分の性格を分析してみると、イエス様によってお救いに与った。その喜びとそれに信仰の憐みのゆえに救いに成長して、神様のためにこの自分の生涯をお捧げしたいという思いでそれを貫いてゆく道を選びました。その意味で私は自分の意志を自分の独自性を貫いてきている。しかし私は自分の性格をよく見ると、どちらかというと協調性があるということなんでしょう。別な言い方をすればリーダーシップをもって俺についてこいというタイプの私ではないなあと思っております。人それぞれまっすぐに貫いていくという面もあれば、しかしそうでなくやはり別の個性を持っている。複雑ですけれども人間の自分自身にある特性というもの、これを調和していかねばならない。これが盛岡教会にどのような影響を与えたのかを、ほんとうに考えさせられているところです。
皆さんはマルタとマリアのことをご存じだろうと思います。マルタというとかいがいしくイエス様にお仕えするのを喜びとする。マリアタイプというとイエス様のおことばにしっかりと沈潜していくことが好きなタイプ。それからたとえばペテロとヨハネという代表的なお弟子さんを考えてみるときに、ペテロは何といっても俺についてこいというタイプ、立場の人物です。それに対してヨハネはいつでもイエス様の懐近くあることを喜びとするタイプなんですけれども。しかしヨハネは別名あだ名は雷の子と呼ばれているように、爆発するようなところがあった。内向的な者であればあるほど、それがぐーっとたまって爆発してしまうことがある。またパウロとバルナバという人物を思い巡らしました。パウロは理路整然と、そして、リーダーシップを持って俺についてこいタイプを象徴して入る人かなあと私なりに思うのですが、一方、バルナバという人は慰めの子と呼ばれるようにそういうパウロとは逆な立場で傷ついている人を慰め励まし、弱っているものと共に歩むということが彼の特色だったのかなあと。いろんな人たちが聖書の中に登場します。これらの人たちが聖霊によって調和されていく。まさにキリストの体を私たちは建て上げていく。その奉仕に導かれています。ですから今、私は物理的に呉からズームでという立場を取っておりますけれども、やがて間もなく神谷先生が、そして細田先生が協力して盛岡教会を造っていってくださる。キリストのからだが建て上げられようとしています。一人ひとりみんな個性が違っている。だけれどもそれが聖霊による調和をもって一つとなっていったのならば、今までと違うすばらしい盛岡教会が建て上げられていくに違いありません。皆さん方が真実に労していてくださるすがたを、このように距離的には遠くからですけれども、近しく知らせていただくとき、はっとしました。イエス様が盛岡教会になさろうとしている、キリストの体を建て上げようとしている。今大きな大きな転機の中をお互い通っているのだ。このことを教えられたことでございます。そしてそれをお分かちをさせていただきました。
文責:中ぶんな
音声、イラストはズーム配信中、パソコンからとったものです。
⏰6時18分更新
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