きょうのことば「神様の複縦線に思う」―呉からの礼拝―
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年11月06日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕を一区切り、現在は広島県呉市に在住。今朝は呉からのズーム配信です。
説教題 「神様の複縦線に思う」―呉からの礼拝― (國光勝美 牧師)
引証聖句 伝道者の書 3章11 節
11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
改めて皆様おはようございます。そして呉からこのような形で盛岡教会の礼拝を共に持たせていただくことが現実に行われている、夢のようなこの時代の恵みを覚えることでございます。後ほどズーム上でのお交わりのときにこちらのこともご紹介できると思いますが、はじめに大切なおことばに心を向けたいと思っております。
私は特に音楽を勉強している者ではありませんので、ネットなどで調べながらの楽譜の紹介でございます。複縦線という記号があるようです。私もあまり耳慣れない言葉でございました。
ご覧のように1本の縦線で区切られる小節と呼ばれるものがあります。ところが讃美歌の楽譜をご覧になりお分かりかもしれませんが、2本の線が縦に入っている、これを音楽用語でどうも複縦線というようです。そして一番最後の終止線、これで曲が終わりますよ、これはよく楽譜などで見ることができる、この曲が終わりですという記しです。小節を作るための線がある。
じゃ、どういうときに複縦線を使うのかというと、曲の変わり目、ここで曲が変わりますよという目安としてこの複縦線が登場するわけです。私はこれを盛岡教会と牧師である私たちの今回の出来事、まさに人生の変わり目を示す複縦線のところをいま共に通っている、そういう思いがしています。
そして作品がそうであるように、音楽が作曲家の作品といわれるわけですけれども、私たち人生、あるいは私たちの教会も神様の最善の作品である、このことをきょうは複縦線ということに合わせて味わいたいと思っています。
エペソ人への手紙の2章10節
実に、私たちは神の作品であって、よい行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちがよい行いに歩むように、そのよい行いをあらかじめ備えてくださいました。
実に私たちは神の作品なのだということ。神様の作品です。本物か偽物か、「開運!なんでも鑑定団」というTVの番組がありますけれども、それが、贋作なのか本物なのかということによって価値が違う。似て非なるものがあると私たちは知るのですけれども、どうでしょうか。私たちが神様の作品なのだということです。これほど尊いものはないでしょう。神様は私たちをご自身の手でお造りくださった。私たちはその意味ですばらしい価値を持っているものなのです。
「神は、私たちがよい行いに歩むように、そのよい行いをあらかじめ備えてくださいました」。この「よい行い」とは。ふつうは立派で道徳的な優れた生き方、行いということを先ず考えるものです。それはよくわかります。しかし、それにはるかに勝ってここでいっている良い行いというのは、神様のみこころに素直に従っていく、神のみこころに従っていくことをよい行いというのです。私たちはこの世に生まれ、私たちにはそれぞれの個性があります。神様の恵みのゆえにです。いろいろなタイプの人があって、そしてその個性を神様はご自身の手にあって、ああこの人はこういうものに、この人はああいうものに、というように神様がお造りくださる。
私はずっと以前、教派を超えた牧師たちの修養会に出たことがあります。そのときの講師の例話が思いだされます。その先生は「川に流木ってありますよね、流れ下って来て、それが川岸に打ち上げられて干からびて独特の趣を見せる」。先生はその流木を拾ってきて楽しむ趣味があられた。流木にもさまざまな個性がある。大きなものには節くれだった部分がある。大水で山の奥から大きな木が流れてきているんだけれども、それがくっと曲がりくねっているようなもの、これはもうとても柱なぞには使えない。材としては何の価値も無いようなもの。しかしそれがまた趣がある。ねじれているところを梁に使うととてもおもしろいと仰る。私もそれを想像しながら、なるほどなるほどと思いました。もうずいぶん前の話しですが。
あの人のようでない、この人のようでない、自分だけの個性、これが神様の手に拾われて、うんこれはいいものになるぞと神様が造ってくださる。作品として。そして造られる私たちは、あるときには痛いかもしれない、神様に扱われるときに苦しいかもしれない、だけれども神様はあなたならではのすばらしいものをといって私たちを造ってくださる。造ってくださったその神様のみこころに素直に従っていくときに、私たちは神様の最善の作品として作り上げられる。良い作品になる。このことを私は思ったのです。そして、それが実は今この複縦線という大きな転機を迎えようとしている時、私たちいよいよ神様がそのわざを為してくださるときでありました。
11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
それは大きなまとまりが終わる時、交響楽とか大きな大作のような、楽譜、スコアというのでしょうか、楽譜のところに複縦線があるとき、これはここまで、ここで段落が区切られました。これは神様がご自身の最善のわざをなさるために一つ区切ってくださった。その時に痛いかもしれない、苦しいかもしれない、だけれども、神様は私たちを最もよい作品とするためにこの通過点を与えておられる。楽譜で言うと、ちょうど調号が変わる時というのでしょう。私は音楽の専門家ではありませんけれども、同じようなメロディーの調子であったとしても、それが♯の調で歌われることになるかもしれず、ときとしては♭の状態でまたそのまま同じメロディーでかもしれないけれども、調号が変わると趣がすこし変わるようです。
いわんとすることは今までと同じ営み、だけれどもそこに調号が変わるということがある。複縦線。盛岡にいた時の礼拝と、今このように皆様は盛岡で私は呉での礼拝となっております。今までと調子が変わりましたでしょう。皆さん方、日曜日の朝おいでくださった方々は、やっぱりいつもの盛岡の礼拝と、調号が、拍子が変わっていたと思います。これらのことは神様が私たち個人にもそして教会にもターニングポイントとして今のきょうのこの時を与えてくださっているのです。また、複縦線が書かれている所には、何かしら大事な要素があるのだそうです。
これがきょうのおことば伝道者の書3:11
神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。
ほんとうにそうです。まさか私が呉で自分の生涯のコースを辿るということは想像すらできませんでした。しかし神様がこのように導いてくださった。人には分からない。しかし神様はわざを行われる。私たちの将来は神様が責任を持って造ってくださって、磨いてくださって、作品として完成させてくださる。私たちはそれを知らないけれども、見極めることはできないけれども、神様は最善のことをしてくださる。今私たちは神様の御手の中にあるのです。
私は説教者ですから、今までいろいろな説教を聞いたことがありました。その中でインマヌエルの創立20周年の大きな集会が持たれたときの宣教師の先生が説教に引かれた例話が印象的でした。先生がある織物工場に見学に行った時の話でした。案内されながら、今織られているものを上の方から見たところ、何かよく分からないいろいろな色の糸が複雑に絡み合っている。どんな柄を織り出そうとしているのか何か納得ができなかった。ところがこんど下の方に案内されて、さっきと同じ反物をこんどは下の方から見上げたときに、わーっと、驚くようなすばらしい模様が織りなされていたそうです。先生の著書には、それを見た時に「私は涙ぐんだ」と書いてあったと思います。上から見た時は何か複雑な色がいろんな糸が走っているだけのように見えたけれども、下から見た時に感動するような麗しい織物の模様がそこにあった。
私たちは永遠をおもう思いを持っております。その中で、なぜ? とすぐには得心のいかないこともあるでしょう。この盛岡教会の場合もそうかもしれません。しかし今盛岡教会は秋田から仙台から、また札幌から多くの御助力をいただきながら、神様の御手の中にあって織られているところです。「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない」。だけれども、神のみわざですから間違いは決してありません。良いわざを行う。神のみこころに従っていくのならば、永遠の角度からみたときに、何と麗しい人生を、何と麗しい教会を神様が建てて下さったということができるのです。今、私たちは複縦線、そこをお互い神様が造って下さる作品の複縦線に今差し掛かっているところです。どうか神のみこころに従うよきわざを行い続け、そして新しい地へと進みゆこうではありませんか。
※この毎日曜のページは、教会側から頼まれて行っているのではなく、自主的に行っているものです。
ズーム配信で自分で撮った画像などを使用しています。
文責:中ぶんな
⏰6時53分更新
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