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きょうのことば「必要なのは一つだけ」 

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1023()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「必要なのは一つだけ」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 ルカの福音書103842
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろともてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」


<メッセージ>
 きょうはマリア、マルタのあの場面です。二人ともイエス様を愛してイエス様にお仕えしている素晴らしい姉妹です。マルタの方はかいがいしくイエス様を接待することが得意。だけれども、マリアの方は動き回るよりもイエス様の恵みを慕う方が得意。どちらが良い悪いというよりも、イエス様の話しに耳を傾けそれを慕い求めることの方が大切だということなのです。このところ私は、自分自身がマルタのように動かなければ何もことが進んで行かないということでとにかく一生懸命に動きました。でもそんなときに、一瞬イエスさまのこのおことば、
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42
しかし、必要なことは一つだけです。」
 
このイエス様のお声、これが私の心に響きました。
 私は今いろいろなことに思い煩って心を乱している。けれども必要なことは唯一つ、それはマリアがそうであったように、主の足元に座って、主のことばに聞き入る。主の足元に座って主のことばに聞き入る、この思いを持ち続けなさい。これが大切なことですよ。これを思いました。
 考えてみると、牧師は聖書に四六時中接しているのがある意味普通の通常の生活であり、そのような中に過ごしておりました。しかし教会に集っておられる皆さん方は、まさに好むと好まざるに関わらず、世の中のあのことこのこと期限に追われ、様々な責任を負わされている中に懸命に労しておられる。この皆さん方が置かれていらっしゃるいつもの、それが皆さん方にとって当たり前である中に、私も一か月余り体験的にみことばの前に座るのがふつうではないような、そういう中で礼拝に集い、デボーションの時を持っておられる。そうだ、必要なことは一つだけですよ。それは、主の足元に座って、主のことばに聞き入ること。教えられました。そして、どうか皆さん方もこのイエス様のおことばをしっかりとご自分のものとして語り掛けとして受け取っていただきたい。私たちの人生で必要なことは唯一つ、イエス様の足元に座り続けることです。

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 その必要なことが一つだけということが聖書の中に幾つか、表現は多少変わっていてもあることに思い巡らしが行きました。へブル116にあるおことばもそうです。
6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 
このおことば、これも「必要なことは一つだけ」というテーマの中に入って来るおことばだなと思いました。信仰です。信仰がなければ神に喜ばれることができない。私はこの大切な大切なこの一つだけという思い巡らしの中に、それは信仰。これをダイヤモンドと、敢えていうのならばこの原石のように思いました。 

 簡単な知識でしかないのですが、私はダイヤモンドを知らないのですけれども、しかし、原石がどんなに尊いものであり、またカットによってどれだけきれいなものになるかということだけは情報としてはしらないわけではありません。そんなことを思いながら、いちばん大切なものは信仰でそれを自分の人生、クリスチャン信仰生活の中で21:13さまざまなことに直面して、カットされ、研磨され、それによって私たちは輝きを増してくる。神様によって磨いていただく、カットしていただく、これが私たちクリスチャン信仰ではないだろうか。このように思うのです。そんな中にある時は、それを信頼することなんだよ。大きな決断をしようとするとき、みことばをどれだけ信頼できるか、これは信仰という原石を、ほら、今あなたがこういう人生の課題に今あなたは直面しているね。さあ、ほんとうにみことばに信頼できるかねと神様から問われる。ついついいろいろなものに解決を求めようとあがくことが動くことが多いことですけれども、みことばに信頼を置く。或いはみことばのゆえに希望を持つ。もうこう言いますとみなさんはこの次にでてくることが、

いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これらの三つです。その中でも一番すぐれているのは愛です。(第一コリント13:13)

とあります。私はそれはコリントの書にはそう書いてあり、そういう表現がされているけれども、それは信仰というものが、麗しくカットされ研磨され、人生のさまざまな困難の中で磨かれ磨かれたカットされそれがきらっと輝くときに、いちばん見事に輝くのが愛なんだろうな、そのように思います。

 そして締めくくりに、必要なことは一つだけ。別の表現では、それは永遠のいのち、私たちにとって必要なことは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」(マタイ16:26)とイエス様が仰っておられますけれども、ここでいういのちは「永遠のいのち」のことです。永遠のいのちというのは、神様が永遠ですから、神様とつながる、神と交わるいのち。それを得ることが自分の生涯において唯一必要なことである。このように言うことができる。私はこのように導かれ、今日のメッセージの備えをさせていただきました。一生暮らすうちには様々なものが増えてきますけれども、裸で生まれ出てきた私たちは、また来た時と同じように裸で戻って行く。結局、人生で何を得るとか全世界を手に入れるといったこと、それがいったい何になるのか。必要なことは、神と交わるいのち、永遠のいのちを持つということに尽きる。このことを思いました。「必要なのは一つだけ」、この説教題にたどりついたのは、つい昨日のことでした。

 その昨日のことです。盛岡の方ではありませんが、ずっと前から知っているクリスチャンの方です。國光の関係者でずっとお世話になっているよい交わりの中にある私と同年の男性。その彼が東京におりますので、私が31日の新幹線に乗り、東京を経由することを言いますと、「ぜひ会いたい」と。「じゃ東京駅の銀の鈴で待ち合わせよう」となりました」。その時彼が「勝美さん、真剣に僕、教会のことを考えてるんだ」と言うのです。もうちょっとお話ししますと、彼は義母國光幾代子の甥であり、幼いころから教会学校にも行っていたし、そういう面でとてもまじめな青年で有能な人でもあります。ところがなかなかクリスチャンになるというところまで踏み込めずにいる。どこか違うんですね。その彼が今真剣に「いのち」の問題に向き合おうとしているのです。きっかけは、親しかった友人が最近山で死んでしまったことでした。聞けば秋田駒ヶ岳で。びっくりしました。遭難するようなところじゃない、ファミリー登山ができる山です。今月のはじめに滑落しているのを発見されたというのです。私はすぐにネットで見ました。年齢が76歳と出ていました。住んでいるところは淡路島。彼と私は同年ですから。で、遭難した彼も同年。「やあ勝美さん、一人で山にいくもんじゃないね。ショックでさ。僕も人生の締めくくりを考えなくちゃいけないなと思って、本気になって教会に戻るよ」。小さい時から教会に行ってますから、クリスチャン以外に信仰というのはないと思ってる人です。けれどもいわゆる新生経験というものを持つことがないままに来ていた彼ですから。彼が住んでいるところは、インマヌエルの聖宣神学院教会のある路線駅に一駅のところ。特に國光幾代子が神学院でお葬儀を持っていただいたとか、神学院に関わりがあったということなので、彼は神学院教会に行きたい希望があるようで、「できたら勝美さんから神学院教会の先生の方に一報入れておいてくれないか」と。ああ喜んでやりますよということで、さっそくそちらに連絡をしたわけでした。このことも思いながら、本当にほんとうに必要なのはただ一つだけ。永遠のいのちを持つ。このことです。このことをどうか大切なただ一つのこととして、これをもって旅立ちたいなとこのように思ったことであります。

 

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな

⏰7時3分更新

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