きょうのことば「この福音によって」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年10月9日(日)の礼拝のおことばをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「この福音によって」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 コリント人への手紙第一 15章1~5節
1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたがその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかりと覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
<メッセージ>
きょうのメッセージを祈り求めまして、「この福音によって」というテーマでご用を果たさせていただきたいと願っております。
「この福音によって」。私たちが主食としておりますご飯、これを美味しく食べられる、それはほんとうにけっこうな良い状態でありますし、この主食のご飯を、時には味の変わった調理法で食べる、するとまたそれも美味しくなる。それがちょうど教会でいつも牧師のお話、そしてまた時には、意味が異なった味付けの先生のお話をうかがったりということになる。それぞれが大きな恵みになると思いますけれども、いちばん大切なのは「この福音によって」福音が語られるところが教会なのです。そのことを改めて今日心にとめながら、今日のメッセージの場所は聖書のどういうところにあるのかを見て見ます。聖書は旧約聖書、新約聖書と分かれております。まず新約聖書と呼ばれる、もちろん何が旧約で何が新約なのかということ、聖書全体がイエス様が救い主であることが記されている。旧約聖書とはやがて救い主がやってくる、このことを記しているのが旧約聖書。それに対して新約聖書は、その救い主はあのイエス・キリストであったということを記しているのが新約聖書。旧約聖書がやがて救い主が私たちに与えられる。新約聖書は、そのお方はイエス・キリストだった。そして、この新約聖書の中のお手紙、教会への手紙にパウロによる手紙がありまして、幾つかあります中にコリント人への手紙第一があり、そこから今日の箇所が開かれております。導入から始まりまして、きょうの一番大切なところ、「この福音によって救われます」。非常に明確です。錨のマークをイラストに使わせていただきました。この確かな福音の錨が天にちゃんとおかれていると揺るがない。このしっかりと錨を天に、錨は本来下にむかってなんでしょうけれども、福音は発想を変えて、私たちの天に望みの錨をしっかりと置いて、これによって救われます。
「この福音によって」。私はへブル人への手紙9章26~28をきょうは開かせて示しました。
へブル9:26~28
しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪をおおうために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためにではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
つまり、「この福音」というのは、イエス・キリストは私たちの罪を取り除くためにこの世に現れてくださった。つまり、お生まれくださったということ。そして、このお方が私たちの罪の為にご自分が十字架の上で命を賭して私たちの救いを為し遂げてくださったということ。そしてこのお方は、よみがえって三日後に復活してくださり、そして今天におられて、もう一度私たちのところにおいでくださる。これが「この福音」というものです。
「この福音によって」。そうです。このお方は現れてくださいました。これは架空の事ではなく、ほんとうに私たちの救いの為に神が人としてこの世に受肉、人となっておいでくださった、天来のプレゼント。神様から私たちへのプレゼント。これが福音です。
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「この福音によって」。この福音というのは、このお方は、私たちの罪の贖いの為に、救いの為に、何の罪のないお方が、身代わりとして十字架に架かって死んでくださった。私たちの罪の為に死なれたこと。イエス様は十字架の贖いを成し遂げたときに、「ことは成就した」。人の救いのために必要な一切のことを私はここで成就した、成し遂げられた満足をもって頭をたれなさった。「我が霊を父に御手に委ねる」この福音によってのみ、私たちは救われるのです。
そして「この福音」は、よみがえり、栄光にあふれているものです。「この福音によって」。皆様ご存じの通り私はこの1か月ほどの間にお葬儀に係ることを集中して関わらせていただいております。その時に、私が皆様方にお伝えしているのは、この福音なんだ。これをしっかりと皆さん方にお伝えするのが、私のお仕事なんだ。もし私たちがこの地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、地上の命においてのみ朽ちる。その肉体の命においてのみキリストに望みを抱いているのならば、私たちはすべての人の中で一番哀れな者だ。しかしこの福音は永遠のいのち、ビオスという動物的な生物的な命、これだけでキリストに望みを抱いているんじゃない。もしそうだとすれば、私たちクリスチャンは地上で一番哀れな者なんだ。そうじゃない。ビオスというそれだけではなくして、ゾーエイという永遠の神につながるいのち、神につながるいのちをイエス・キリストによる福音によってしっかり持っているから、「この福音」。お葬儀をさせていただきながら、何回も親しい方をお送りしながら、そうだ、ビオスの命だけではない。そうではなくして、神につながる永遠のいのちを持っている、これを伝えてきているのだともう一度、もう一度自分自身に納得をさせていただいているところです。
「この福音によって救われます」。
イザヤ45:22
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。
「仰ぎ見て救われよ」なのです。神様の思いがイエス・キリストのご生涯によって私たちの目の前にはっきりとしめされたときに、自らのほんとうのすがたを聖霊によって神の憐みによって、自分の滅ぶべき裁きであることを自覚したときに、ああ、主よ、有難うございます。あなたのプレゼントを私は受け入れますと仰ぎのぞむということは信仰を持つ、それに委ねるということです。イエス・キリストの誕生、十字架・復活というこのイエス・キリストご自身に私はすべてを委ねます。そう仰ぎ見るとき、どんな人であっても救われる。どうでしょう、皆さんもう一度このおことばを読ませていただこうじゃありませんか。
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
教団で出しております「つばさ」という小さな冊子が月刊で皆さんのところに届けられております。その今月の言葉という一番最初の大きな記事のところに、梅田先生が、たまたま國光幾代子先生の事に言及して、思い出を短くですけれども書いておられました。
「その先生が98歳で亡くなる数日前、消えゆく意識の中で語られたメッセージを忘れることはできません。その内容は、イエス・キリストのご生涯に於いて大切な点が三つあります。それはキリストの誕生、十字架、復活です。この三つをしっかりと捕らえ、信じることがクリスチャン信仰にとって重要なのです」。薄れゆく意識の中でこのことを語られたとお見舞いに行かれた梅田先生が、これが非常に印象的だった。最期まで福音を伝え続けるそのお姿に、私は、圧倒され深く教えられたことですとございました。
私も盛岡で皆様方に「この福音」これを精一杯乏しい歩みでしたけれども、伝えさせていただきました。どうかこの福音をしっかりと皆様方ご自分のものとし、これに生きる者としてくださいますように、それが私の心からの願いであります。
※データは教会からお借りしました。⏰7時28分更新
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