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きょうのことば「エマオの道を辿る」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年911()の礼拝のおことばをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「エマオの道を辿る」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 ルカの福音書241327
13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エオマという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 

<先週の復習>

見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、
わたしは荒野に道を、
荒れ地に川を設ける。
イザヤ43:19

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「見よ」「必ず」、誰が。「わたしが」「わたしは」と神様が必ず「新しいこと」をしてくださる。「行う」「設ける」「新しいことを」。「今、それが芽生えている」。始まろうとしている。「荒野に道を」「荒れ地に川を設ける」。これはきっと皆さん方もアーメンと肯かれるものだと思っております。このことばを私は実感しております。


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 静かで確かな神様のみわざが、これはリバイバルの炎が、今盛岡にふさわしく燃え上がりつつある。
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 これは聖徒たちを整えて、私たちを奉仕をする者と聖別し、キリストのからだを建てあげるその尊いお仕事に私たちは携わることができているのです。
 前回は、これらのことを語らせていただきました。

 

<今日のメッセージ>

 私はよく鞍掛山の話しをいたします。今日もそのように導かれまして、このことをありのままにお証しをさせていただきまことが、「エマオノ道を辿る」お弟子さんとイエス様が二重写しのように私には思われまして、これを証しさせていただきたいと願っております。

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 鞍掛山は小岩井農場から網張温泉の方にクルマで数分ほど走った右側にある相の沢キャンプ場が登り口になっています。ここを初めて登ったのはもう何十年も前のことではありますが、しかし、ある時から非常な近しさを覚えながらこの鞍掛山の道を辿るようになり、そして今に至ったのであります。

 まだ登り始めて間もないときころ、ちょうど夕刻になりかけていたころかと思うのですけれども、山道を降って来る初老の人とお会いしました。まったく初めてお会いする人です。もう午後の道でしたので。ただその初老の方が、結構な坂道を降ってこられたときに、息も切らさずにさっさっさと非常にかっこよく降って来られ、私はすれ違ったものですから、「こんにちは」とあいさつを一言交わしました。過ぎ去った後、あの初老と思える方がこの坂道を何の息苦しさを感じさせない、ふつうのように歩いて降ってきたそれを見ながら、私も初老になったらこのような健康でありたいなと思うようになったのです。
 鞍掛山に登るようになったもう一つのきっかけは、これも今から十何年も前ですけれども、私は十和田教会を兼牧、牧師としてもう一つの教会兼ねるという意味の兼牧をしばらく続けてました。その時、クルマで何回か往復したのですけれども、もうすぐ十和田教会にあと10分か15分で着くという時に、もう街中近くでしたが、ものすごく腰が痛くなってきまして、必死にドラッグストアを探して、塗り薬を買ってようやく使命を果たすというようなそんな経験をいたしました。この腰の痛さというのは、けっこう厳しいものだなということをその十和田の時に経験いたしました。

山登りを始めてからというもの、鞍掛山は急な坂道もあるのですけれども、息も切らさず、腰もまったく痛くなく、登り降りできるということは私にとって健康的な良い調整の場所であったと、今振り返ってみてこういうよい影響があったということは証しさせていただけるかなあと思います。元気に今日までの奉仕ができております。
 でもある意味それ以上に、この道は私にとって大変意味のある道になってきました。何回かお話しをしたので、重複するかもしれません。
 私は神学院の同窓会で柄にもなくその責任を負わせられた時期が何年かありました。その時に、教団と神学院の同窓会、これは、神学院は教団創立のものですから、当然教団の系統図から見ればやはり含まれているのは当然なのですけれども、しかし、その同窓生の方々には委託生の方もあれば、そのほか教団を去られた方もいらっしゃるというような、ある意味複雑な、ちょうどその大きな問題が私の期間にありまして、のっぴきならないような大きな課題に直面いたしました。いわば、教団側にアクセントを置くか、それとも、同窓会というある意味独立した形のところにスタンスを置くのか、迷いに迷うような大きなことがあったとき、私は、この鞍掛山の道を歩きながら、ほんとうに神様の前に祈りを捧げたことがありました。その時に山道を歩きながら大きな問題を訴えて、そして神様に知っていただいて結局良い知恵が与えられて、乗り越えることができたという、そのところの知恵が良かったと見えて、それから以降の同窓会の方々も、そのとき与えられた一つのことばがずっと今も生き続けて、それによって衝突のような無用な緊張、衝突のようなところから守られているということを見た時、ああ本当に神様はよい知恵を与えてくださったなというように感謝をした一つがそれであります。

 また老後をも含めて今日的な大きな課題もございます。心の叫びのような祈りが与えられました。それが最近の事。
 これを通して教えられたことが、主が近づいて来て下さる道ということを実感しました。ちょうどこれは、エマオへの道という有名な絵があるのですけれども、この時に、お弟子さんたちは自分たちの生涯は失敗だった、つまりあのお方こそ私たちの救い主だと思って私たちはすべてをこのお方に賭けて歩んできたのに、何とあのお方は、という十字架のあのできごと。そして彼らは復活ということにまだ目が開かれていなかったので、もう絶望しながらエルサレムに背を向けてエマオという道を二人で歩いていた。なあおまえどう思う? そうだな俺たちは失敗だな。そんなときにどなたか分からない不思議な方が、「道々何を話しているのかね」と声をかける。イエス様ですけれど、このお方が現れてくださいます。そしてこれらのところにみことばを語り、そして内に心が燃えるという経験をさせてくださったことを皆さんはご存じです。みなさんは、エマオ途上にあるこの二人が、ちょうど自分自身の心の中とそれを表しているように思っているのです。一人の信仰者として、それは皆さんもそうです。いろいろなことどもを通りながら、歩んでいきますでしょう、日々。すると、あの時はああでもない、こうではなかったんだろうか、といろいろな心の中でやり取りが。しかも、非常にかまびすしい際限のない心の中のやり取りが、まさに二人のお弟子さんたちの中に表れています。ある時には自己弁明であったり、ある時には相手の誹謗となったり、ある時には、なぜこんなことが、或いは論じることもできないで、ただただ項垂れながらとぼとぼと歩くこと、ただただ涙するということだってありますよね。つまり、この二人のお弟子さんたちのすがたは、鞍掛山を歩んでる私の心の姿です。そのときに、主がともに歩んでくださるということを経験します。だいたい私は早朝です。一日のお仕事に支障がないように朝早くに歩く。すこし遅くなったとしても、とにかく朝食前に帰ってくるという、非常に朝早く出るものですから、するとそこに朝日がほんとうに輝いたり、季節によって緑が輝いたり、鳥の囀りがあったり、或いは道に季節の花々が次々と咲いてくる。道を歩きながら体が温まって来て、或いは汗が心地よく出てくる。そんな時にほんとうに無心になれる。これはメンタルな面でも非常に幸いなことでした。

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  主がともに歩まれる。これはもっと言うのならば、次々とみことばが与えられるのです。実は今日のメッセージの「エマオへの道」というのも、この前鞍掛山を歩いているときに、エマオの道、これがあなたの鞍掛山を歩いているときの姿だったねえ、とイエス様から言われたような気がするのです。はいイエス様そうです。ほんとうにあの時、心から祈って、その時に、
我はエホバにして汝を醫(いや)す者なればなり」(出エジプト1526) 
「汝我に龢(よび)求めよわれ汝に應(こた)へん又汝が知ざる大なる事と祕密(かくれ)たる事とを汝に示さん」(エレミヤ33:3)
 このようにイエス様がおことばをかけてきてくださるのです。それを信仰を持って握りしめる。このような繰り返しが、私の鞍掛山の山歩きです。ほんとうにみことばが与えられる時、心が燃える経験を致します。
 登り始めが600メートル以上のところですから、鞍掛山897メートル。そんなにきつくない。だいたいふつうに歩いて1時間半で頂上まで登れます。すると目の前にドーンと雄大な岩手山が存在感を持って現れてくれます。ここでしばし祈ります。この鞍掛の道で私が教えられたこと。それは、私たちは叫び求めること、これが私たちの為し得る領域のこと。叫び求めること。「なんじの口をひろくあけよわれ物をみたしめん」(詩篇81:10)、これが私たちの為すべきことです。そしてそれにどういう解決を与えてくださるかということは、神様の領域のことです。


 私はこれを思い巡らしながら、ふとヨブ記のことを思い起しました。なぜ正しいものが苦しみ、なぜ悪いものが富んでいくのですか。信仰者のほんとうに率直な疑問。ヨブは私は神様の前に正しいことをしていたのに、どうしてこんな理不尽なことをうけるのかとヨブは悩みに悩みます。それに対して近郊の友人たちが次々に現れては、ヨブを或いは慰め、或いはけん責し、などなど、これがヨブ記というところですけれども、私はヨブ記を十分に学びきってはいないのですけれども、私なりに与えられているのは、そうだ、ヨブはこれに対して何の解決も得られていないけれども、ヨブは神様と目と目を合わせてお会いした、それだけで十分だ。解決を与えてくださるのは神様であって、ヨブはいろんな解決していない問題、課題はいっぱいあるけれども、でもこのことを神様にほんとうに知っていただいた、それだけでヨブはもう十分です。私にとって鞍掛山の山歩きはまさにこれでした。
 解決は神様がしてくださる領域、どういう回答になるのかはもうそれは神様もうあなたに委ねています。でも私は叫びます。求めます。だって神様が何でも私の名によって求めなさい、そうすれば私は答えるとおっしゃっています。イエス様が何回もおっしゃっているのですから。神様に真剣に叫び、神様に真剣に呼び求めるということは、ほんとうに神様を信じているからできるのです。神様を信じていなければ本気になって叫び求めるなどということはしません。でも涙を流しながらでも、本気になって叫び求めるというこのことができているとき、答えは神様が相応しいように解決を備えてくださる。私はこのことを教えられております。

※データは教会からお借りしました。教会の内々の情報、個人情報に含まれる内容は割愛してございます。
文責:中ぶんな
⏰6時20分更新


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