きょうのことば「主がお入り用なのです」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年8月14日(日)の礼拝のおことばをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

説教題 「主がお入り用なのです」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 ルカの福音書19章28~36節
28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
30 「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。
31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです。』と言いなさい。」
32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。
33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。
34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。
35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
この日は、「主がお入り用なのです」と題して、午後からは過密なスケジュールが立て込んでいる中に、メッセージを取り次いでいただきました。
《メッセージ》
牧師としての人生のこの時点において思いましたことは、こんな小さなロバのような私が50年近く主のご用をさせていただいたことです。この恵みを心から思い巡らしておりましたとき、「主がお入り用なのです」。文語訳では「主の用なり」、このおことばがありました。こんなものを主が、主の用なりといって召してくださり、そしてお忍のびいただき、一つの区切りをつけて新たな段階へと進みゆこうとしている、このようなことをいろいろ思い巡らしました。
私の郷里は長野の浅間温泉です。街からはすこし離れた商業のまちというよりは農業で成り立っているようなところでした。私の家はバス通りに面しておりました。そこに不定期ではありますが、音楽を鳴らしながらパン売りが来るのですが、ロバに引かせているんです。歌がありましたのでちょっとお聞きください。
♪ろばのおじさんちんからりん
ちんからりんのやってくる
ジャムパン、ロールパン
できたて焼きたていかがです。
チョコレートパンもあんぱんも
なんでもありますチンカラリン
かたいくるまをチンカラリン
チンカラリンの引いてくる
ジャムパン、ロールパン
あまくておいしいいかがです。
チョコレートパンにあんぱんに
どちらにしましょうチンカラリン
(以下省略)
礼拝中にびっくりされたでしょ。これもこの開拓教会ならでは、許されるでしょう。
ロバ。ロバがパンを乗せてきてたんです。懐かしいです。
思うに、私ほんとうにこの50年の日々、主のロバだったんだ。主のロバにさせていただいたんだ、そう思いました。
聖書でロバが出てくるところは、ゼカリヤ書9章9節
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。
これは紀元前の凡そ500年、ハガイ或いはゼカリヤという預言者が活躍した時代に、「やがてあなたがたの救い主があなたがたのところにやってくる」という私たちからいうと、まさにイエス様のことを、500年も前に預言していたゼカリヤ書のおことばです。
「あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って」
まさにこれが十字架にお架かりになられるイエス様をお乗せしたあのろばの出来事、それを預言していると言わざるを得ません。世の中の王は武力、力をもってやってくるでしょう。しかしこのお方イエス様は、まさに子ろばにまたがって、人々から「ホサナ、ホサナ」と迎えられる。我らの待ち望んでいた王がこのろばに乗って、エルサレムに王として、義の王、王の王としてやってこられた。このことを思いました。
「主の用なり」とご用に導かれて、私は何をこの50年間したのかを思い返しました。聖書の中で、ろばというとまさに柔和なりということのひとことで表される動物であります。柔和。ライオンやヒョウのように争いをするといった獰猛なものではなく、そうだ、ろばなんだと、ロバを思い巡らしますときに、もう一つ、ロバの事を英語ではドンキーといいます。そしてドンキーという言葉の意味は「まぬけ」「のろま」。これが英語のドンキーの意味ではありますけれども、私は自分にこれをあてはめて主の用に立たせていただきましたけれども、私はほんとうにまぬけなもの、のろまなもの、もうこれがぴったりだなあとつくづく自分を重ね合わせました。「主がお入り用なのです」。こんなまぬけでのろまな私を主は見出してくださいました。
私は自分がクリスチャンになるとは思っていませんでした。しかし遡ってみますと、不思議な気がするのですけれども、幼少の時、のばら保育園というところに通っていたのですが、園長先生やそこで働いておられた方がクリスチャンであったことがきっと影響したんだろうなあと思うんです。私たちの時代は後になって団塊の世代といわれるんですけれども、子どもがどんどんと生まれて来たそういう時代でありますから、保育園の特に浅間温泉は商業で成り立つようなところではなく、ほとんどが農業でした。そこに温泉があるというところでして、ガキ大将のような男の子、女の子がたくさんおりました。いまでも忘れられないのは、ある時保母さんが私の親に「勝美ちゃんがいてくれて助かります」と言ったそうです。「何でしょう」と尋いたら「勝美ちゃんは子ども同士が殴り合ってけんかしてるとそこに泣きながら入って行って『やめてよ、やめてよ』と止めるんです。なんてやさしい子でしょう」。私はほんとうに人が争うことが辛いことでありまして、そういう私の面からいうと柔和な面があったのかもしれない。しかしまあ、わがままで愚かでと言ったらいいのか、でもそんな幼い私が、絵本を見てイエス様の十字架を、「この人誰?」と尋くと保母さんが、この方はね、とイエス様の事をおはなししてくださった。みんなにも話してるんですが、私にはずっとそれが潜在意識にあって、家は仏教徒というほど仏教徒ではない、普通の家庭ですが、そういうイエス様への思いがあった。きっと主が「お入り用」と言っておられたのかなあと思うのです。
そんな下地があって、21歳の大学4年の11月に福音に自覚的にはっきり触れたのです。すでに就職が内定していました。音楽が好きなのでビクターに入りました。その時に人事の方に、「君は履歴を見ると長男ではあるけれども、お姉さんが家を継いでいるようだから、君はフリーなんだね」「はい」「じゃどこへ配属されてもいいね」と言われまして、「その通りですけれども、実はついこの前私はクリスチャンになりました。前に履歴書に仏教と書いてあるのをキリスト教としていただければ。そして丸の内教会というところに通うことになっているので、できたら丸の内にいちばん近いところに配属してもらえたら」と言ったのです。会社のいろいろな部門の一通りの学びを終えて正式な配属が発表になってみると、新橋の東京第一レコード新橋営業所というところでした。当時は日本ビクターは慶應閥でした。みんな慶應、たまに地方の国立大学。別な大学出身の者がいる。そんな中でみんなが狙っていたのが東京第一レコード新橋営業所だった。それは後で知りました。入っていきましたらば、「あなた大学どこ」、どこそこです、「ふーん」「あなた、そうか、あの人の次ね」。あの人というのは私の大学の先輩のことで、数年間そこで働いて音楽事業本部の方に行った方ですが、ざっとこんな流れです。新橋営業所に入りたいと思ったわけではなかった。ところが、「お前どんなコネ使ってここにはいってきたんだ」と言われました。「ただ丸の内教会に一番近いところがいいと言っただけなんです」「そうか」。こんなことも懐かしく思い出されます。
もし他の営業所に配属になったら、教会生活さえもままならなかったと思うのです。雪谷からも離れるでしょうから。ほんとうに丸の内に、雪谷に、守られ守られ、ほんとうに弱いろばのようなものでしたから、幾重にも守られ恵まれていたと思います。
そして、自分はどうしても会社で一生を送るようには導かれていないなあと思われました。クリスチャンになって、いよいよ神様の声を聞いた時に、聖宣神学院に入りました。まもなく蔦田二雄先生は天に召されましたけれども、神学院を卒業してすぐに盛岡の開拓という任命をいただきました。振り返ってみて、神様はこんな者を「主がお入り用だ」と用いてくださったのです。
じゃ私はこの盛岡で何をしたのか。まぬけでのろまなろばですけれども、しかし私が誇らしく思うことは、福音だけは語らせていただいたと思っています。もし盛岡の教会の会衆席にパウロ先生やペテロ先生が座っておられたとしても、語り方とか様々な聖書知識は浅薄なものですけれども、私が確信していることは、聖書の偉大な説教者ペテロもパウロも、そして何よりイエス様も、「そうだよ、その通りだよ」と肯いていてくれる福音を語らせていただいた、これは大きな喜びです。主はろばを用いてくださった。そしてこの盛岡にあるあいだ、50年の間に、このイエス様をご紹介させていただき、この福音の恵みに与った方々がおられることを思い、何という光栄、何という喜び。これを昨日このメッセージの準備をしながらつくづく思いました。主はこれまですべてを成し遂げてくださった。「あなたの恵みはとこしえにあります」。「あなたの御手のわざをどうか辞めないでください」。「エホバは我に係れることを全うしたまわん」。「エホバよ汝の憐みはとこしえに絶ゆることなし」。「願わくは汝の御手の諸々の御業を捨てたもうなかれ」。
この教会、この盛岡教会はあなたの教会です。全うしてくださるのはイエス様です。必ず主は成し遂げてくださるし、そして、「わたしを呼べそうすれば私はあなたにこたえあなたの知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げよう」。きっと私はここにリバイバルを起こしてくださる。もしこの盛岡教会、もしというよりも、福音によって主の上に成り立っている教会ならば、仮に私というろばがいなくなっても、それで倒れてしまうことがあるでしょうか。福音によってこんなろばをさえ用いてくださるということを皆さんお分かりいただいたならば、皆さんお一人お一人が、「私がロバになりたいです」、こう仰るでしょう。そうです。イエス様、あなたをお乗せするろばですと仰る方々によってこの教会がリバイバルの始めになるのではないか、なってほしい、なるものだと心から祈るものです。
⏰文責:中ぶんな
掲載の画像は説教中にパソコンから撮らせていただいたもの、音声データは自らのICレコーダーで録ったものです。
9時更新
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