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きょうのことば「恵みの良い管理者」 

 インマヌエル盛岡キリスト教会2022年821()の礼拝のおことばをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「恵みの良い管理者」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 ペテロの手紙 第一 4711
7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
9 不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。
10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
11 語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。

 

 きょうは「恵みの良い管理者」という説教題で、御用を果たさせていただきたいと思っております。
 この10節のおことば「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」。このおことばに集中します。

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 ここに第一番目に「それぞれが賜物を受けているのですから」。この「賜物」と「恵み」は、ここでは、等しい意味合いで用いられております。私たちは等しい神様の恵みを受けてお救いに与り、クリスチャンとしての歩みをさせていただいております。その時に私たちは賜物を神様から受けている。それぞれが賜物を受けていることを、そのまま受け入れたく存じます。謙遜と不信仰は違います。私はそんな賜物など、そんな畏れ多いことは、というような謙遜をしてしまう気持ちがありますが、神様が賜物をくださるというときには、有難うございますといって素直に感謝して受け入れることです。私たちが救いの恵みを受けたとき、そうでした。受ける資格があるからではない。ほんとうに自分の現状を認め、神の御子の十字架のご愛というものを知ったときに、こんな者に主が与えてくださった恵みを、私たちは有難うございますと受けました。それを信仰と言います。有難うございますと謙遜に、またある場合には、もう縋りつく以外にないというような切実さをもって、私たちはそれを受けました。その時、神様は、あなた方一人ひとりに賜物を与えてくださる。そしてそれは神様にお仕えするための賜物である。


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 そしてもう一つ、神のさまざまな恵みの良い管理者として、既に受けているはずのその恵みの良い管理者であるように。「善良なる管理者」とちょっと固い表現を使いましたけれども、善良なる管理者。与えられている賜物を善良な管理者としてこれを管理する、用いる。福音書にはタラントのたとえ、それからミナのたとえがあります。今日はこれを取り上げて大きく学ぼうとするのではないのですが、皆さん方、ああそうだったと思い出していただくためにもマタイ伝2514節からのところを画面には出しませんので聖書を開いていただきます。


マタイ25:14
14天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
16五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
17同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
18一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。

 時代にもよると思いますが、一タラントを今ではだいたい3,000万円としてみましょう。いちばん少ない金額を預けられた人も実は3,000万円です。そして二タラントは6,000万円。五タラントは15,000万円です。大きな恵み、賜物です。これを管理するようにとあります。それぞれが与えられたそれぞれをベストを尽くして管理する。
 一タラント受けた人は、ご主人様から何か文句を言われるといけないからというので、「地面に穴を掘り、主人の金を隠した」。マタイ2525節を見ますと、主人が帰ってきたときに、「はい、ご主人様あなたに預けられました一タラントはここにあります」と言って出して見せたというのです。ところが主人は彼に「悪い、怠け者のしもべだ」と激怒したのです。
 これは分かりやすいたとえばなしです。せっかく賜物を用いて最善に管理するようにと言われたのに、与えられているものを用いずにいるときに、大きな失望を神様に与えるどころか、何という奴だというお叱りを受けてしまう。


 それからもう一つ、ミナのたとえがあります。ルカ1911節からのところにありますが、
特に13「 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
 ここに10人に10ミナを与えたとあります。1ミナは今でいうと50万円相当です。ただ金額がいくらかということは、ここではそれほど大きな問題ではありません。それぞれ同じように10ミナを与えてやったのにそれを活用したか、活用しないのか。
 20節を見ると、「ご主人様、ご覧ください。あなた様の1ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです」。

「布に包んで」という。つまりこれは善良な管理者ではありませんでした。私たちは一人ひとり能力も違います。違って当然です。預けられているものの多い少ないはあるでしょう。問題はそういうことではない。与えられているはずの神様からの賜物を積極的にそれを用いるか、それとも何もしないままにしてしまうのか。そのことを思いながら、どうか私たちがそれぞれ神様の良い恵みの管理者として、どうか与えられている賜物を用いましょう。活用しましょう。

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 そして最後にもう一つ申し上げたい。
それは、その賜物を用いて「互いに使え合いなさい」というこのおことばです。これを思い巡らす中にいただいた大きな語り掛けとしては、ヨハネ13章のおことばであります。
 
 ヨハネ13章、イエス様が最後のお別れの晩餐の席にあったとき、4節を見ると、
「4イエスは夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」。イエス様が奴隷の仕事を自らなさった。「5弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭きはじめられた」。イエス様がなさいました。イエス様はこのことを通して、互いに仕え合うべきであるという、奉仕をするときもこの大切な心構えを教えてくださいました。
 互いに仕え合う。このイエス様のほんとうの謙遜が、賜物を用いて互いに仕え合うという時に、あの人この人ではなく私自身が主が弟子になさったようにさせていただくことが特権なのです。そのように心から思って主にお仕えすることができたら、何と幸いなことでしょうか。このことが私たちの教会になされていくのならば、本当に主のお喜びになるリバイバルの火がここから始まるように思います。


※資料はズーム礼拝に参加のときPC画面から録りました。
このほかにもさまざまお話しがありましたが、ポイントを記させていただきました。
文責:中ぶんな
⏰5時50分更新


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