きょうのことば 「わたしの時は御手の中に」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年7月月10日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「わたしの時は御手の中に」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇31篇14~18節
14 しかし 主よ 私はあなたに信頼します。
私は告白します。
「あなたこそ私の神です。」
15 私の時は御手の中にあります。
私を救い出してください。
敵の手から 追い迫る者の手から。
16 御顔を しもべの上に照り輝かせてください。
あなたの恵みによって 私をお救いください。
17 主よ 私が恥を見ないようにしてください。
私はあなたを呼び求めていますから。
悪しき者どもを辱めてください。
彼らが黙って よみへと下るように。
18 偽りの唇を封じてください。
それは 正しい者に横柄に語っています。
高ぶりと蔑みをもって。
《メッセージ》
きょうは「わたしの時は御手の中に」というメッセージを共に味わわせていただき、恵みをいただきたいと願っております。
「わたしの時」、これはいったい何を意味するのでしょうか。
この詩篇に直接関わる本ではありませんが、「時」には二通りあると書かれてございました。生きること死ぬことに於いて、人間は時というものを非常に意識するという文脈の中でのことです。一つは、ギリシャ語で「クロノスChronos」。もう一つは「カイロスKairos」です。クロノス時間は過去から未来へと一定速度、一定方向で機械的に流れる。カイロス時間は速度が変わったり繰り返したり逆流したり止まったりする、人間の内的な時間。
クロノスは、時計の針が刻む量的な時間。ここでは物理学で言う時というのとは一切離れて、私たちが常識的にこの世に生きている意味の時ということで、ご理解いただきたい。時計の針が刻む秒的な時。標準電波は、どうも福島県のおおたかどや山と、福岡県と佐賀県の境にあるはがね山の送信所から出されているようです。誤差がほとんどない。その正確なクロノス。
私にとってのクロノスは、よく書類に書くのが1947年3月1日。私の誕生日です。多くの書類に記載を求められます。これは私が生まれる意味がどうであるかには全く関係ありません。因みに芥川龍之介も3月1日生まれでした。そんな程度です。クロノスという以上ではない。
カイロス時間といえるのはもう一つの私の誕生日で、イエス様を自分の救い主として受け入れた時です。誰にもクロノスとカイロスがある。
今日ここで扱うのはカイロスです。
説教者ならではの「時」を申し上げますと、信仰を持ち献身を決意し、会社に辞表を出し、牧師になるべく神学校に進もうと、これは反対されてもその決意は変わらないのですが、人としてのけじめとして両親に報告するわけです。退社するけれども、これからの半年間を神学校に入る準備に使うつもりであること。両親は自分の決断が翻るものではないということを知ってくれました。帰る時、松本駅までの路線バスで、母が隣の座席に座ってくれました。実家から松本駅まではバスでは30分かからない。そのバスの中ですけれども、ふと横の母の顔を見ると、目からあふれる涙を抑えている。ああそうだったな。今思い出してもそういう時がある。決してクロノス時間ではない時間。一人ひとりにそれぞれの意味のある瞬間がある。
もう一つ、私どもが盛岡に教会開拓に来て、皆さん方とともに教会を建て上げ、会堂ができた後だったと思います。毎年年会があって上京するわけですが、その年も東京に出て、教団んの総会、年会に出席しました。それから松本を経由して盛岡に戻ります。その時に松本で数日過ごしたときの思い出です。どうも男の子というのは折に触れて思い出すのは決まって母親の方なんですけれども、その松本でのことです。話の流れは覚えていません。覚えているのは、私が母に「私を産んでくれてありがとう」と心からそれを言ったんです。ふつう男の子はそんなことは言わないでしょう。しかし、そういうことを心から言う時の流れだったのでしょうね。そうしたらその時の母が、こんなに幸せそうな母親の顔を見たことはない幸せそうな表情になりました。すごい親孝行をしたという感じがいたしました。
「時」、私の時ということをメッセージのために思い巡らすのですけれども、この「わたしの時」というのは、自分にとっては、カイロス、質的な非常に意味のある神様の時であるというそれが「わたしの時は御手の中にあります」という言葉の秘めている意味であると思われます。私の人生、そして私の歩んできた一つ一つの場面、それは、神の御手の中にある。この自覚が私たちクリスチャンにはあるのです。今たまたま私は語る立場で印象的なことを皆さん方にお話ししました。だけれども、皆さん方にはそれぞれに、あの時の事あの場面、今メッセージに触れながら、きっと皆さん方は今クリスチャンとして、あの時、カイロスという響きで理解する、納得する経験があられる、それが「わたしの時」だと思います。
クリスチャンたちにはどうしてなのかわからない、辛い悲しいできごとに遭遇することがありますけれども、でも心の中に、私は神様の御心の中に生きている存在なのだという、このことが確かであるならば、「今あなたは知らなくてもいい後に悟ることになる」というイエス様のことばがありますけれども、神様が私の明日を握っていてくださるのです。今知らなくてもいい、またわからない。けれども、振り返ってみると、最善の時が成る。神様がなさったことだから。
こんな思い巡らしの中にやはり私には、忘れられない一つの瞬間があるのです。それは前回もたしかお話しさせていただいたでしょうか、あの元気な蔦田二雄先生が、前の週は講壇に立って、一週間経ったらば居られない。突然天に召されたのです。インマヌエルという存在をよくご存じの方々、インマヌエルの群れ以外の方々教団のいろいろな人たちは、悪意でもなく、客観的に見て、ああインマヌエル終わったなと感じられたそうです。それほどに蔦田二雄という方の存在は大きかった。しかもその1967年に日本の福音的な教会の大きな集会、ビリーグラハム大会の実行委員長をされていた。あの時蔦田二雄というあの人が実行委員長であるからできたという、人間的な表現でいうならば、それは確かで、だから皆もそれを認めざるを得ない。私を導いてくださりお世話になった後藤牧人先生は、神学的に言うのならばカチカチのカルビン派 の先生です。ホーリネスはその反対側の立場にあるのですが、私がインマヌエルに導かれるようになったのは、あの会館でお救いに与って、その後こういうことでインマヌエルの教会に行けることになりましたと後藤牧人先生にご挨拶したとき、後藤先生が仰いました。「僕が導いた人たち、みんなインマヌエルに行っちゃうんだよな、どうしてだろうな」。ちょっと苦笑いをされながら。 ちょうど私が救われたのが68年、ビリーグラハム大会が67年で、蔦田二雄先生という方の存在が、ただ一つの小さな教会の指導者ということではなく、日本のキリスト教会の指導者であると皆に認識されてきたときに、後藤先生が、本心だと思うんですけれども、インマヌエルに対しての「みんなインマヌエルに行ってしまう」というようなそういう印象を持たれていた。そのような恵みの中に蔦田先生とインマヌエルはあった。だからこそ、突然蔦田先生がぱっと天に召されたとき、皆様方よくご存じの羽鳥先生、本田浩司先生にしても、ああインマヌエルはこれまでかなと思われたとしても無理はないかと思うのです。 しかしその後、私が忘れられないこととして、今脱線をもとに戻しますが、ずっと後になって、竿代信和先生と私は、本部の方でお仕事をご一緒させていただいたことがあります。その時に信和先生がいろいろなことを話して下さった中で、「君どう思う」。つまり信和先生が私に対して、蔦田先生の突然のあれは衝撃的な出来事だったけれども、しかし今になってこうしてようく考えてみると、神様の最善の時だったかもしれないよ。もし蔦田先生があのままずっとお元気で指導して行ったならば、インマヌエルは蔦田二雄の教団となってしまう。神様は「わたしの時」、そのときに、もうお前の仕事は終わった、もうここまででいいと神様はぱっと誰の何の了解も得ずして神様の専権事項ですからぱっと蔦田先生を取ってしまわれた。その後しっかりと朝比奈先生が引き継がれ、藤本先生が引き継がれ、河村先生が、信和先生が、群れを本当に神様が願っているように導いていかれたということを思うときに、神様の時というものがあるのだということを改めて心に留めたいと思うのです。
とても良い讃美歌があります。ご一緒に賛美し味わいましょう。どうぞお聴きください。
♪In His Time
In His time, in His time
He Makes all things beautiful in His time
Lord, please show me every day
As You're teaching me Your way
That You do just what You say
In Your time
In Your time, in Your time
You make all things beautiful in Your time
Lord, My life to you I bring
May each song I have to sing
Be to You a lovely thing
In Your time
御(み)手(て)の中で すべては変(か)わる 感(かん)謝(しゃ)に
わが行(ゆ)く道(みち)を 導(みちび)きたまえ
あなたの御(み)手(て)の中で
御(み)手(て)の中で すべては変(か)わる 賛(さん)美(び)に
わが行(ゆ)く道(みち)に 表(あらわ)したまえ
あなたの御(み)手(て)のわざを
この讃美歌を参考にしたいと思うのです。
「わたしの時」を教えている聖句を幾つか挙げましょう。
☆マタイ26:18イエスは言われた。「都にはいり、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟☆子たちと一緒に過越を祝いたい。と先生が言っております。』」
☆ヨハネ20:4イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
☆ヨハネ7:6そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。
☆ヨハネ7:8「あなたがたは祭に上って行きなさい。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
イエス様はいつでも「わたしの時」それを自覚し、そのすべてを神様にお委ねして神のなさることはみなその時にかなって麗しい。ということばがありますけれども、十字架に向かって主は麗しい時を御手の中にお過ごしになられたのであります。このところは、省略させていただきます。
☆民数記9章
15幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。16いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。17いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。18主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。19雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。20また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。21雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。22二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは、旅立った。23彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。
「御手のうちに」、「神様の時に」ということを思い巡らすとき、教会員の方々にも、自らにも、神様は最も良い時に神様の最善を成してくださる。このように思うのであります。
※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰8時1分更新
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