きょうのことば 「大いなる光景を見る2 リバイバルの幻」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年6月26日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「大いなる光景を見る2 リバイバルの幻」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇126篇1~6節
都上りの歌
1 主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。
2 そのとき 私たちの口は笑いで満たされ
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき 諸国の人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなった。」
3 主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ。
4 主よ ネゲブの流れのように
私たちを元どおりにしてください。
5 涙とともに種を蒔く者は
喜び叫びながら刈り取る。
6 種入れをかかえ 泣きながら出て行く者は
束をかかえ 喜び叫びながら帰って来る。
《メッセージ》
きょうは先週に引き続きまして「大いなる光景を見る2―リバイバルの幻」というテーマでご用をさせていただきたいと願っております。
「リバイバル」という言葉は「信仰復興」という意味を持っております。
「神の恵みと力が特に著しくあらわれてクリスチャンたちを鼓舞、激励し、不信仰な人々が信仰に導き入れられ、回心の経験を与えられ、また、信仰から離れていた者を再び信仰に立ち返らされるような状況に対して用いられる。それは聖霊の働きによるものとされている」
前回はこの定義を紹介いたしました。そして、特に蔦田二雄先生がおられました時代の日本橋教会のリバイバルについて、もう時を経てセピア色になっている教報に大橋武雄先生が日本橋のリバイバルのことについて記されたお証し、感動を覚えつつ読んだそれをお伝えいたしました。
蔦田先生はカミソリ蔦田といわれるほど理性的なタイプの先生でありまして、感情に任せて集会を導くということには非常に慎重な先生でした。ある時、丸の内の時代に、ほかの背景を持っている団体の先生が講壇に立たれました。非常に恵まれたメッセージのその後で、「さあ、皆さん、手を叩いて賛美しましょう、さあ、」と盛り上がる集会指導をなさいました。その一週間後かの聖日だったかに蔦田先生が仰いました。「皆さんは前回のあれ(在り方)を見てどう思うか。ああいう感情的な」、しかもこういう表現をなさってましたね、「もし、自分が心理学的に人の心を操るようなテクニック、タンタンタンタンというような単調な音、この単調な音がずっと響き続けると、それだけがまた今一つの意味を持ってきてしまう。感情の高ぶりとか、或いは、マインドコントロールとかそういうところに陥ってしまう」。特に宗教ということに於いては、あの先生は非常に慎重な方でありまして、「むやみに足を踏み鳴らしたり手を叩いたりするもんじゃない」と仰いました。
蔦田先生はご自身がホーリネスのリバイバルを経験しておられる。本当のリバイバルとは感情に衝き動かされたものではない。感情を全くは否定しないけれども。ホーリネスのリバイバルの非常な恵みとともに、時として無作法な、常軌を逸したような振舞になることがあることも、蔦田先生はやはり直に見てきておられたのです。それを経験しておられた器だからこそ、神様は、戦後にインマヌエルの創設というときに、福音の中心は何か、それは聖潔(きよめ)であることを弁え知っておられた蔦田先生をお用いになられました。そして蔦田先生は、かつて経験した危うさというものをできるだけ排除していった。そんな背景があったということを前回は立ち入ってお話しをさせていただきました。
リバイバル、まずこれは個人的信仰の復興です。ゼカリヤ書12章10節
10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に」、もし今の私たちがここから恵みをいただこうとすれば、つまりこれは「神の民」です。「ダビデとエルサレムの住民」とあるときに、今私たちが恵みをいただこうとするならば、実にそれは私たちお救いに与っているクリスチャンたち一人ひとりです。私たちのこととしてこれを味わうことができるのです。ゼカリヤは言います。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ」。つまり、聖霊が注がれる。リバイバルで、「彼ら」は、つまり、これを、今の私たちというように。くどいようですけれども、恵みをいただこうとすれば、そして、「彼ら」というのは、イエス様の十字架以前の、まだイエス様がお生まれになるよりも200年も300年も前のできごとです。あたかもそれが今のように彼らは自分たちが突き刺したもの、私を仰ぎ見て。もう皆さん、私たちはこれを過去の出来事として知ってるわけですよね。イエス様の十字架の事です。彼らにとっては、未来のことでしたけれども、今の私たちからはそれは、イエス様の十字架以外何でしょう。
「彼らは、自分たちが突き刺したもの、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く」。
今私たちがこれをリバイバルとして味わおうとするならば、神様が今救われている今教会員である私たちに、もう一度格別な恵みと嘆願の霊を、つまり、見てお分かりの通りに、ああ私はイエス様の十字架の贖いに与っていながら何と不信仰な、何と不徹底な者だったたんだろうか、これほどまでに神様のご愛を知っていながら。そうなんです。リバイバルが起こる時に、クリスチャンであったはずの私たちが、もうひとたびあの鮮血流れる主イエス様の前に、聖霊様が持って行って、ほら、あなたのために神様はこれだけのことをしてくださったんだ、分かるか、そのところにご聖霊様は私たちを連れて行ってくださる。
主よお許しください。この時に、彼らはひとり子を失って嘆くかのように、その者のためにイエス様の十字架を嘆き泣くのです。そのために激しく泣く。もうひとたび、私たち主イエス様の十字架の前に、自らの信仰の姿をしっかりと聖霊によって直面させていただきましょう。
同じくゼカリヤ13章1節
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
きよめの恵み、
先ほど♪インマヌエル讃美歌293「とうときいずみあり」を歌いました。
尊き泉あり そのうちより
インマヌエルの血ぞ 溢れ流る
罪に悩む者 潜り入らば
汚れは洗われ 染みは消されん
ほんとうにこのような恵みが私たちに約束されているのです。
私はこれを味わいながら、以前に観た映画の感動的な一場面、あの場面がネットのどこかにないかと探し回りました。それはベン・ハーの一番終わりに近い部分で、イエス様が十字架にお架かりになって、大嵐の雨、十字架から流れる血潮が雨水に混じって流れくだる。その時、ベン・ハーは、自分の愛する母と妹をフィアンセを迫害した親友メッサラ、憎んでも憎んでも憎み切れない男、そのベン・ハーの心の中にある憎しみにあの血潮が流れこんだときに、ベンハーの内に赦しと信仰の回復、復帰がもたらされました。
多くの人たちの回心、信仰の回復、復帰、これを詩篇126篇1節では、
「1 主がシオンを復興してくださったとき 私たちは夢を見ている者のようであった」
このように表現されております。
またしてもこのメッセージを語らせていただきながら思い起しました。昭和40年代半ばでしたが、蔦田先生が、丸の内の講壇で日本橋時代のことに言及したのです。
「日本橋のリバイバルの時にたくさんの人たちが悔い改めてお救いに与った。しかし間もなく太平洋戦争になり教会が閉鎖され、敵国の宗教であるとクリスチャンたちが迫害されて、あの日本橋時代に悔い改めた多くの人たちがやがて去って行ってしまう。あのかつて教会で恵まれて、一緒に主を礼拝した人たち、今どうしているのか。だから日本橋のリバイバル、リバイバルというけれども、あんなのはほんとうの救いじゃなかったんだ。このように言う人たちがいる。」しかし、先生は仰いました。「ところが、こんどリバイバルが起きた時、真っ先に悔い改めて帰ってくるのはそういう人たちなんだ。だから一生懸命に種をまいて、一生懸命に福音を伝えていたら、ほんとうにリバイバルが起きた時、涙と共に悔い改めて帰ってくるのはこういう人たちなんだ」
多くの人たちが回心し、かつての信仰の友たちが涙を流しながらかえってくる。
「私たちは夢を見ている者のようである」、そうです。「主がシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった」。まさしく今の言葉で言えば、ウッソーと感嘆の声をあげるだろうリバイバルの時に、そういったことが為されるのです。そしてその時、
「私たちの口は笑いで満たされる。舌は喜びの叫びに満たされる」。
感情的なことには慎重になるべきとさっき言ったばかりじゃありませんかと言われるかもしれません。矛盾するとお思いになりますか。
蔦田先生によって船橋でインマヌエルが発祥し、やがて丸の内に移り、それから神学院を浦和に移して、という活動をしていたときに、非常に大きな経済的ピンチがやってきた。神学院建設のために土地が必要でした。 浦和の県庁跡でしたでしょうか、そこが売りに出されている。先生が現地を見てきて「あそこは神様の器たちを訓練する場所にふさわしい。あそこを購入する」と。本当にこれを無茶と言わずして何を無茶というかと思うんですが。いよいよ返済の期限がやってきたとき、不足分のお金がどうにもならない。御名が汚されてしまう。祈りに祈ったところ、外国からの電報が届きました。「日本の蔦田がこれだけの金額を送ってくれと」。不足分が間に合いました。蔦田先生の喜びよう! 子ども時代にそれを見ていた、もう大きくなっていた蔦田真理先生、そして牧師になられている方々が、「あの時の父の姿、足を踏み鳴らして大喜び!」。それこそヤッターという場面。これは矛盾しますか? カミソリ蔦田がやっちゃけないんでしょうか。お祈りをして、だいじょうぶ、これは神様の御業だからと言って祈って祈って、大丈夫だと待っていた時に電話がかかってきた。取ったらば、「蔦田のために」といって期限のその時に送られてきた。その電報を見て踊りあがったといいます。ほんとうのことです。「私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」のです。リバイバルの時、このような恵みをいただきたいのです。
その時諸国の人々は、神を知らない人たちは言った。「彼らが信じている神様は大いなることをなさった」。神を知らざるものたちが、「あの人たちの信じてる神様すごいよ」。そして「主が私たちのためにおおいなることをなさった」。これは、諸国の民ではなく恵みの中を通っている私たちのためにこれをなさったと言って喜んだ。それは主がなさることなんです。主がなさったこと。
ネゲブの流れのように私たちを元通りにしてください。
文語訳ですと 詩篇126篇4節エホバよ願はくはわれらの俘囚(とらはれびと)をみなみの川のごとくに歸(かへ)したまへ
新改訳2017では 詩篇126篇4節主よ ネゲブの流れのように 私たちを元どおりにしてください。
ネゲブの場所は、こちらの地図でご確認ください。エルサレムの辺です。この辺りがネゲブといって荒野、荒れ果てたユダの荒野と言われているところです。そしてこれは乾燥して水もなく、だけれども一度雨期になってみると、今まで何もなかったところが何と大きな川になる。その川を「みなみの川のごとく」という。今までからからで、教会が、そして今キリスト教がそういわれております。救われる人たちが、牧師になる人たちが少なくなってきている。ああ主よ、みなみの川のごとくに私たちを元通りにしてください。
どうかこのことばのごとくにならせていただきたいのです。
詩篇126篇5、6節
5涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。
6種入れを抱え 泣きながら出て行く者は
束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。
※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
今朝もホトトギス、そして今低くはありますけれどもカッコウの声がしています。この清涼なひとときに更新することができ感謝です。
⛳5時41分更新
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