きょうのことば「岩の上に建つ教会」
きのうきょうと工藤弘雄先生方ご夫妻をお招きして聖会が開かれておりますが、このページは1週間の時間をいただいて掲載しておりますので、聖会メッセージは来週になります。おそらくはユーチューブにアップされるかと思います。
☆ ☆ ☆
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年7月月24日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「岩の上に建つ教会」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 マタイ16章13~20節
13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
《メッセージ》
けさの説教題は「岩の上に建つ教会」です。
この教会に開拓当時からいらっしゃる方々は、またかと思うようなお話しになってしまうでしょう。しかし、私にとりましては、振り返ってこの50年、多くのよい出会いに恵まれました。それゆえに私は「岩の上に建つ教会」というこの恵みの嗣業を受けて、ここまでさせていただいたという思いが深くございます。
その出会いなのですけれども、それは1枚のチラシからでした。私はたまたまこのチラシを街頭で受け取りました。御茶ノ水キリスト教会館で、1968年11月12~16日まで伝道集会があるというのです。
チラシとデヴィッド・マーチン先生
私はこの最終日に行ってみました。説教が終わりました。すると「きょうイエス様を信じたいと思う人はいますか。誰も見ていませんからどうか手をあげてください」と促しがあった。私はこの時だと思って手をあげましたらば、「いま手をあげた人は前に出て来て下さい」と言われて、良い意味で嵌められたのかなあと。この言い方はあまりに失礼なことではありますけれども。しかし手をあげたからには、前に出て行かないでは男が廃るといったらいいんでしょうか。しかし真面目にこの時に前に出て行きました。悔い改めのお祈りをさせていただきました。幼稚園の子どもがひと言ひと言、先生の祈りの言葉をなぞっていくと同じような祈りでありましたが、最後に「アーメン」と初めて自分自身の祈りで付け加えた時、非常な印象深い思い出がございました。
そしてこの写真、後ろのご夫妻はスタッフの渡辺佐次郎さんご夫妻でありました。もうずいぶん前から長野県の上田の方にお住まいですけれども。このご夫妻を一度盛岡教会にお招きいたしました。その時に渡辺佐次郎さんが、「このチラシと写真、先生、持っている?」とお持ちくださったのです。知りませんでした。後ろの一番左が後藤牧人先生で、それから前に座っておられるご婦人の方がウェブスター・スミス先生であります。この方々のとの出会いが大きな大きな一つの祝福になったということを思います。
そしてこれが、まさにその当時の御茶ノ水の学生キリスト教会館の建物であります。因みにこの建物のすぐ左隣が明治大学の生協があったところでした。そしてもうちょっと行くとすぐ明治大学のキャンパスになっておりました。御茶ノ水駅から歩いて数分、大きな交差点を渡ってすぐの所がここでありました。でも「ここは教会ではなくして会館である。君たちはよい教会に導かれるようにそのお手伝いをしているのがこの会館なんだ」と後藤牧人先生が言われました。そしていくつかのすばらしい教会を紹介されました。その時にたまたま私の心に深くのこったのは、私の下宿の近くにあるインマヌエルでした。
雪谷伝道所と当時インマヌエル綜合伝道団丸の内教会があった新国際ビル
駅を降りるとしばしばインマヌエルという名前の教会のチラシ。それがインマヌエル雪谷伝道所です。雪谷伝道所は丸の内教会の支部であり、日曜礼拝はインマヌエルの本部、新国際ビルの9階であるということでした。これがインマヌエル綜合伝道団丸の内教会でした。
先ずは下宿のすぐ近くにありました雪谷伝道所に行くようになりました。どうも白黒のこれを見ると、クリスマスのあたりだったのか、リースがドアのところにあるんですけれども。何れ雪谷伝道所に導かれて今日のスタートになったということを思います。
そして丸の内教会、新国際ビルの9階にありました。私が出席したその時に、ちょうど蔦田二雄先生がマタイ伝の連続公開説教をなさっておられ、ちょうどそこがマタイ伝16章で、きょうお開き致しましたこの場所でありました。
ご想像いただけるでしょうか、信仰に導かれた御茶ノ水の会館は初心者の人たちにできるだけわかりやすくという内容でした。そういう意味の幼児を成長させるそういうメッセージ。だからこそ育つことができたのだろうと思います。しかし丸の内教会の礼拝に出た時のショックは非常に大きなものでした。それは、その学生キリスト教会館の初心者の人たちを対象とした優しいメッセージというのをはるかに超えて、これ以上ないほどストレートに福音というものを語ってくださった、あの時の衝撃は大きいものでありました。しかもそのときの聖書の箇所がよかったですね、マタイ16章15~18節。しかも驚いたことには文語訳聖書を使っている。
16:15らに言ひたまふ『なんぢらは我を誰と言ふか』
16:16シモン・ペテロ答へて言ふ『なんぢはキリスト、活ける神の子なり』
16:17イエス答へて言ひ給ふ『バルヨナ・シモン、汝は幸福なり、汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父なり。
16:18我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教會を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべし。
講壇で語られるものすごい迫力に圧倒されました。この小さいおじいちゃん誰なんだろう、ほんとうにそう思いました。この小さなお爺ちゃんは、いつかの週報には蔦田二雄総理と書いてあった。総理というと、総理大臣? ふつうは宗教界での肩書では総理なんて言わないだろう。しかし週報にはそう書いてある。会員の方々が言うのが耳に入って来るのは、やはり蔦田総理が、総理が。あたり前に総理、総理と言ってるものですからほんとうに分からなくなってしまって。でもそれが職制だということに気づいたのも驚きでありました。そんな戸惑いもいっぱいありましたけれども、しかしそこで、ほんとうに私が心から納得できたのは、
汝はキリスト。生ける神の子なり。
というこのペテロの信仰告白でした。この告白は、私的な、そして人間的な意味の合理的判断でイエス様が救い主だというようなそういうレベルの理解ではなくして、ほんとうに根源的なところから
「あなたは、生ける神の子キリストです。」
このように告白をする。
その当時のことを思いますと、御茶ノ水の会館で分かりやすいお話しを伺っているときに、ある先生は「キリストはあなたの罪のために十字架に架けられました」。またある先生は「十字架はキリストの愛のあらわれです」。「あなたの罪がキリストを十字架につけたのです」。まだ私はそのところが十分に整理されていないような、まだまだそういう未熟な段階だったんですけれども、そうだ、ほんとうにこのお方が神の御子キリストなんだ。アーメン。この講壇に仕えながら、はっきりとわかりました。そして、今でもそのジェスチャーまで覚えているんですけれども、「ペテロというのは、原語で岩という意味を持っている。そしてある方々は、このペテロを教会の基礎として、教会の基礎をペテロだというようなことを言う人たちもいる」。これは大きく言うとローマ・カトリック等をいうわけですけれども。「イエス様がおっしゃったのはそんな意味ではない。滑ったり転んだりするようなペテロの上に教会を建てるというのではなくして、「汝はキリスト。生ける神の子なり。」とこの確かな告白の上にキリストの教会は建てられているんだ」。ほんとうにこれをアーメンと納得することができました。
わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。
この50年を振り返りますとき、この教会というのは見える教会と見えない教会、このように分けて考えることもできます。見える教会というのはご存じの通り皆さん方がイメージされる教会です。しかし、見えない教会というものがある。これを別な表現で言うのならば、信仰告白によって救われているクリスチャンたちがいるけれども、それが見える形となる時に、キリストの体として教会がある。
つまりイエス・キリストというお方が、人という肉体、体を持たれたと同じように、私たちはキリストの体なる教会というものをしっかりと理解しなければならない。しかしまたそれとともに、キリストの体なる教会は、また見えない教会でもある。その教会のかしらがイエス様なのです。ですからこれを一つにまとめてみますと、教会というものは、
このようであるかと思うのです。
「この岩の上に」、つまり教会は、「汝はキリスト。生ける神の子なり。」そう告白をしていた者たちの不完全な者たちの集合体である。
私たちはみな不完全な者たちです。聖書をご覧ください。みんな失敗をしています。それぞれの個性が違います。それぞれの性格が違います。みんな違っている。そして、その者たちが集まっている。
突然、石垣の話しになりますが、盛岡城址の石垣のことです。あれはどうも石垣を研究している方々が言うに、なかなかの傑作なんだそうです。盛岡のお城の石垣はなかなかのものであるという。専門的なことはわかりません。不揃いな石が、嵌るべき箇所にうまく嵌って、お互いがきちっと組み合わされ、しかもそのまっすぐにしたいところはきれいに線が、エッジができているといったらいいのでしょうか。そういうことを聞きながら思うに、ブロック塀というのは比較的弱い。それはみんな均一のブロックで組まれているからです。だけれども、違う形のものが組み合わされるときには強固になる。
私たち、ほんとうに様々な個性の人たちが集まっている。不完全な者たちが集まっている。しかし、よき石工であられる方に、その出っ張っているところをとんとんと痛いけれども、金鎚なり鑿なりで砕いていただくのです。教わっただろう、そちこちをとんとん叩きながら扱われることは痛いことですけれども、そして苦しいことであるかもしれません。だけれども、いろいろな人たちとのまじわりを通して、私たちそれぞれ違った個性の者たちが組み合わせられて教会を成している。不完全な完全です。
きょうのメッセージで、いちばん申し上げたいことは、この「不完全な完全」。「不完全な完全」なんてあるんだろうか。ここでつまずくのは信仰的にほんとうに幼い人たちである、私はほんとうにこう思います。信仰的に幼いころは、不完全なんて完全じゃないと思う。しかし聖書を見てください。不完全な者たちばかりじゃありませんか。しかしその不完全な者たちが全き愛を説いてるじゃありませんか。
そうなんです。いろんな不完全なところがある。けれども、その出っ張っているところを、鑿で或いは金槌でたたかれているときに、主よ有難うございますと、それに喜んで身を差し出すことができていることが私たちじゃないでしょうか。そのときに、もし救いが本物でなかったならば、もうとっくの昔に教会から離れてしまっているでしょう。だけれども、不完全な、そんな者なんですけれども、主に扱っていただくことができる。これほど幸いなことはありません。
このように告白をして、十字架に示されたイエス様の愛、復活に示されたキリストの力を心に留めるなら、私たちは、ほんとうに教会のかしらなるキリストに向かって不完全な者たちが完全な者になるのです。嬉しい! そう心から思います。そして
「わたしがわたしの教会を建てます。」
私は教会の建て上げのほんのお手伝いをさせていただいた者でしかありませんし、或いは、妨げばかりをしてしまった者である。もしそうだとしたら、ほんとうに主の前に申し訳なく思うのですけれども、そんな者をも主はお赦しくださり、受け入れて下さり、「わたしがわたしの教会を建てます」とイエス様は仰ってくださいます。
教会をお建てになるお方はイエス様です。イエス様であります。あのお方を心から見上げ信じ、おゆだねしていきたいと、このように思っております。
※データは教会からお借りしています。但し、今回お借りしたのは最後の教会の画像1枚のみ。あとは礼拝中に私がPCから撮ったものです。
⏰6時23分更新
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