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きょうのことば 「ペンテコステの力」



インマヌエル盛岡キリスト教会2022年65()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「ペンテコステの力―ペンテコステ講壇」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 使徒の働き1311
3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 

《メッセージ》
この朝は「ペンテコステの力」と題しまして、今年のペンテコステの恵みをともにさせていただきたく導かれております。

8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
 
使徒の働きの1章と2章は、おそらく 世界中のキリスト教会で、きょう一番開かれているはずです。そして私たちの教会もこの朝は、このおことばに心を向けたく思っております。

 いくつかのポイントを示させていただきます。「聖霊があなたがたの上に臨むとき」、これがはじめです。
次に「あなたがたは力を受けます
そして三つ目に「わたしの証人となります
この三つを、今日は柱として語らせていただきます。 

 先ず「聖霊があなたがたの上に臨むとき」。これはいったい何を意味しているのでありましょうか。それは、使徒の働きの2章にも記してありますように、目に見える一つの歴史的な事実がありました。そして目に見えるそのような事実が、目には見えない部分において、それが確かになされている。これはただ単なることばではなく、ほんとうに聖霊というお方が私たちの上に臨むという事実、体験的な事実を意味しております。 

1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 これは使徒の働きの2章のはじめの部分であります。聖霊が「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に止まった」とございます。

こういう場面を想像するのもなかなかおもしろい。「お、なんだ君の頭に」「あなたの頭の上にもあるよ」「そお?」などと。こんな光景もあったかもしれない。「おい、あの人を見ろよ、まだ来てないよ」「あ、来た来た」などなど楽しい想像は尽きません。
 それはともかく、聖霊が私たち一人ひとりの上に止まった。どうか全員このみことばの恵みの中に、会堂の方々もズームの方々も、例外なしに、私の上にも聖霊が臨むのだ、このことをしっかりと心に留めさせていただきましょう。

この聖霊降臨が何を意味するのか。これは約束が成就したということです。その約束がルカ244649節に記されております。
46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48あなた方は、これらのことの証人となります。
49見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなた方に送ります。あなた方は、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 聖霊降臨は、父なる神様、イエス様の約束の成就であったということです。
すこし補足的にいうのならば、これでルカの福音書は一つ区切られるわけなんですけれども、ルカの福音書はルカが書いたのですけれども、使徒の働きもルカが書いてる。ですから、ルカの福音書の続きが、使徒の働きの11節「テオフィロ様」です。このように呼びかけているルカ。ですから、このルカの最後の24章と、使徒の働きの1、2章というのは非常につながりのあるものなのだということをまず理解しておきましょう。

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使徒の働き11214
12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
13
彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
(ペンテコステは 復活祭(イースター)から50日目の日曜日。 復活祭後の第7日曜日で、イエス・キリスト昇天の10日後の日曜日になります。)
 私はこの2章のペンテコステ、五旬節となって、「天から突然激しい風が吹いて来たような響きが」という大きな聖霊降臨の備えは、実にここにあるのだということを申し上げたいのです。彼らは切に一つとなって共に祈っていたのです。どうか軽く読み流さずに想像してみてください。彼らがこのイエス様が天に上げられて、そして、聖霊降臨までの10日間、彼らは町に入ると、泊っている屋上の部屋に上がった。そこにこの人たちが皆集まっていたのです。私たちはこの後こうなると分かって聖書を読んでいますけれども、知ってますけれども、彼らは「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」というときに、本当に一つとなって集まったとき、どうかご想像ください。ペテロ、個性的な、いつも自分が一番でなければおさまらない性質を持っている男。ヨハネ、別名雷の子と呼ばれているんですけれども、非常に気性が激しい。だけども、ヨハネは内向的な部分を持っていた。内向的なんですけれども、よく火山は煙が残っている方が圧力が解放されているから大噴火にならないんだけれども、しかし、いつも出るはずの煙が止まっていると、これは安心じゃなくてむしろ圧力が、という話しを聞いたことがありますけれども。ヨハネは雷の子とイエス様があだ名をつけられたほど彼の本質を見抜いていた。タイプがいろいろ違う。ピリポ、トマスと、私はいろいろな性格の、しかも彼らがみんな挫折感とそしてだからこそ待ち望みをしている。そのときに、彼らはどんな待ち望み方をしたのだろうか。ヨハネは言ったかもしれない、「ペテロさんごめんなさい。わたしはいつもあなたがしゃしゃり出て頼まれもしないのに気を利かしていろんなことをやって失敗して、あれ見るとイライラしてたんだ。ごめんなさい」。ペテロは言ったかもしれない。「僕はイエス様の懐に、ヨハネ君、あなたがいつも最後の晩餐のときだってそうだった。いちばんイエス様の懐の近くにあって胸に抱かれていたのはあなただった、それがなぜ俺じゃないんだと妬ましかった」など、これは創造であっても、想像にすぎないのではない。いろんな人たちがこの10日間、もう一度言います。10日間と決まっているわけではないのですが。神様の約束を待っているときに、本当の意味の悔い改めがそこで為されていた。そして、一様に自分たちの無力を思い知っている。イエス様の十字架の時に、みんな逃げ出したのは俺たち男だった。女の人の方が強い、変わらないと言ったかどうかはわかりませんけれども、しかし、女の人たちだってそうです。マグダラのマリアが「私が一番最初にイエス様の復活のイエス様を見た」と証しするごとに、ベタニアのマリアは「ああ、私じゃなかったのね」という思いがあったかもしれない。想像ですからどうかお許しください。だけれども、この間一つ所に集まって、「共に」と書いてあるところに意味があるのです。それぞれがいろんな違い、いろんな異なる要素、それを持っている。失敗や弱さがいっぱいある者たちが共にいて、そして心を一つにして祈る。このことが結果的にできたのが10日後になったのでしょう。神様は弟子たちが一つとなるその時が来るのをきっと待っておられたのに違いありません。彼らはそこでこれまでの自分の信仰生活、これは弟子たちだけではない、ペンテコステの恵みを待ち望む私たちです。私たち一人ひとりが本当に真実に主の前にへりくだり、自らの足りなさを、失敗を悔い改めて、そして、イエス様、あなたのお約束の通り、もう一人の、もう一つの私をあたえてくださると、あの最後の晩餐のときに、ほかに助け主を与えてくださるとおっしゃっいましたね。どうかそのお方なしにはやっていけません。もうあなたの満たしがなければやっていけません、というそのところまで真実に待ち望み悔い改めてゆく。これがペンテコステの備えです。「聖霊があなた方の上に臨むとき」というのは、まさに一人ひとりこのことができて初めて「あなた方は力を受けます」。

 これはキリストの証人となるための力の無い渇望、どうぞお願いします。力を与えてくださる。「あなたは力を獲得する」と書いてない。「力を受ける」と書いてある。獲得するんじゃない、あなた方は力を受けるのです。力が賦与されるのです。

 前の時にもお話しさせていただきましたけれども、私はこの力への渇望ということを体験的にお話しさせて例話としてお話しするのですけれども、もう何か月も前になるんでしょう。私はほんとうに、この鞍掛山の時に神様の恵みを頂戴しているものです。ですから、そこはちょっとオーバーな表現をすれば、私の庭歩きのようなものなんです。ところがもう秋ごろだったですか、いつものように歩いて行って、さあこれから急な坂のところに登るという、歩いて登り口から20分ぐらい行ったときに、力がないんです。どうもきょうはおかしいぞ。そこを登るとあとは平らなしばらく道が続くというその急な路。登れるかなあ。こんなこと思たこともない。だけど、そのときはほんとにどうかしちゃったんじゃないかと思うほど力が無かった。で、それ考えてみたら笑われそうですけども、登山用語でシャリバテということがある。まさに前日夕刻6時ごろから何も食べてなかった。朝に到るまで。それで歩いて行って、ほんとうに歩けなくなるってことがあるんだな、そのことを経験しました。食べるものを食べてない。こういうことを言うと、お説教じみた響きになるとこまるんですけれども、クリスチャンとして聖書のみ言葉を読んでなかったり、それを真剣に捕らえていない人たちは、慢性的にシャリバテになってしまっているんです。でも、みことばのめぐみということが、ああこういうことかという7、一つのきっかけが与えられると、これが神様からの力なんだ。おそらく10日間の間弟子たちはシャリバテ状態だったんじゃないか。そのときほんとうに力が欲しい、どうぞ、お願いします。わたしはそれなりに、それこそこれからのポイントは鞍掛の途を歩きながら、これはこのメッセージを、あ、今度の聖日メッセージをというときに、力。私たちが力を欲しいと言うときに、ということで、今度はそれこそ分岐点まですいすい歩きながら、そして坂道も、この坂道があるから楽しいんだよなあと思いながら登ったんですけれども、でもその時に神様は語り掛けてくださるんです。そう力、それは人を赦す力、そして人を受け入れる力、あのペンテコステ前の弟子たちの姿を想像しながら、そうだなあ、此れなんだよな。そして神様の導きに従う力、また御心を知る力、こう思い巡らすともう幾つも出てくるんです。そうだ、それなんだ。そしてほんとうに  もう一つのポイント、仰ぎ臨む力。これはちょうどあの分岐点から急登をいくときに、坂道に、そうだ、仰ぎ望むということにも力が要るよな。うつむくときには力はいらないんです。頭が自然に下がりますから。だけど、そんな中に、主よこの問題、この課題、そうだ、主よといって汝ら我を仰ぎ臨めさらばスクワレン。我は神にしてというイザヤのおことばを思いながら、我を仰ぎ臨め、そうだ、仰ぎ臨む力が必要だ。なのでここに書いてある力はみんなこれはどこかの辞書に書いてあるものではないんです。一人の信仰者が、力をほんとうに欲しいというときに、これらのことを主の前に申し出て、その時に神様は、あなたは力を受ける、力を受けるんだよ。受けるんならば、授けて下さるんだ、有難うございますと受け取れば院でしょう。だって神様は与えたいとねがってらしゃるんですから。そうするのならば、私の証人となる。

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 この私の証人というときに、ちょうど1年ほど前になりましょうか、ナサニエル・ホーソンという人が書いた「大いなる岩の顔」という物語があります。小学校の教科書で学んだのですが、とても印象深く覚えているんです。ネットで調べてみると、昭和36年、1961年に使用された小学校6年生の国語の教科書()の中にこの「いわおの顔」がある。ちょうど私の使っていた教科書に間違いない、このようになります。やがてこの村に威厳のあるあの岩の顔のような素晴らしい人が現れると一途に待ち望んでいる少年が、やがて青年となり、やがて老年になっていく。ずっと彼は威厳のある岩の顔を見続けておりましたところ、いつの間にか彼自身がその人の顔になっていた。村の人たちはあなたこそあの大いなる岩の顔の人ではないですか。
 私の証人となりますというとき、「地の果てにまで」というある意味遠大な言葉がありますけれども、むしろまず自分自身が失望や落胆、自己卑下、自己憐憫というようなところから解放され、まっすぐ仰ぎ望む力を持って仰ぎ望む時、あなた方は力を与えられる。何の力? それはキリストの証人となる力です。どうかこのペンテコステが一人一人の心の中に聖霊が臨み、私たちが力を与えられる、その恵みの時であらせていただきたいと願うことです。

※データは教会からお借りしています。
聖画はネットからです。
文責:中ぶんな
⏰6時半更新

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