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きょうのことば 「父なる神・アバ父」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年529()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 「父なる神・アバ父」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 ローマ人への手紙81117
11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 

《メッセージ》
きょうは「父なる神・アバ父」という説教題でお話しさせていただきたいと願っております。

この「アバ父」の「アバ」という言葉ですけれども、これはアラム語で「父」という意味です。子どもがその父に呼びかけるとき、或いは宗教的な指導者、ラビと呼ばれる人たちに敬意をもって呼びかけるときにも「アバ」というそうです。ここで私たちが今日心に留めたいと思っておりますのは、新約聖書の中には「アバ父」ということばが3回出てまいります。最初にそれをご紹介いたしましょう。

まずマルコの福音書14章36節
36そしてこう言われた。「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
これは、イエス様が十字架に架かられるのを目前にしておられるゲッセマネの園における祈りです。血の汗を流しながらイエス様が「アバ、父よ」と呼びかけられた非常に印象的な場面です。「アバ、父よ」とイエス様がこのように祈られたのです。十字架を前にした最も大切な祈りの時に「アバ、父よ」と父なる神様に呼びかけられました。
それからは、もう一つ

ローマ人への手紙8章15
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは「アバ、父」と叫びます。
神様の子どもとされた神の子どもとして本当の意味で、「ああ、お父さん」、「アバ、父よ」と呼ぶことができるのです。奴隷ならば主人にそうは呼びかけません。子どもだからお父さんに対して「アバ」と呼ぶのです。

そして、新約聖書にもう一つだけ「アバ、父」と。ガラテヤ人への手紙4章6節
6そして、あなた方が子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
新約聖書の中でこの三つ、マルコの福音書にあるゲッセマネの園の祈り、またローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、みな神の子どもとして呼ぶ「アバ、父」。
この朝の礼拝のご用を思い巡らす時、私は皆さん方が「アバ、父」と心から呼ぶ、叫ぶ、祈る、そういうお一人おひとりになってくださったのならば、もう大勝利です。天のお父様にこのように呼びかける。きょうはこのおことばを心に留めてください。

この一つの鎖を皆さん方の心にアバ父。どんなときにもイエス様もアバ父と呼ばれたあの祈り。そしてどんな苦しい時にも、アバ父、こう呼びかける。これさえできたのならば、私たちの信仰生活がもう力から力へと進むことに間違いありません。

 

 さて、その「アバ、父」が、いわゆる幼児語として「お父ちゃん」というような、そんな呼びかけでもあると知りまして、さて、赤ちゃんが初めて意味のわかることば、単語を発するのはどんな言葉なのかなと興味がわきました。

 最近おもしろいことを聞きました。あのシジュウカラが言葉を話すということをご存じでしょうか。鳥が単語も文法も操ることを科学的に証明した学者がいるのです。動物行動学者の鈴木俊貴さん。
NHK
番組で話しておられましたが、子育てをするときの親のシジュウカラの鳴き声があるというのです。これが冗談じゃない。ラジオで本人が言ってるんですから間違いないんですけれども。シジュウカラが子育てをするときに、子どもがしゃべるように「パパ」「ママ」と幼児語で赤ちゃんの言葉をまねて一緒に子育てをするんだそうです。思わずほんとうかなあと思いました。
 山カフェの
石丸謙二郎さんの番組でも、「シジュウカラも子育てするときに、『ママ、一緒に子育てしようね』なんて言って幼児語で話すんだそうです」と聞きました。ウッソーと思いましたけれども、嘘じゃないようですよ。
最初からこんな話しをしてしまいましたけれども。
 

 赤ちゃんの言葉、喃語にも様々な調査があるようです。
生まれてから8か月ぐらいで始めて、単語でもいい、意味のある言葉を発した月数と回数を棒グラフにしたものですが。8か月、9か月、10か月とありまして、10か月ぐらいで多くの赤ちゃんが意味のある言葉を発するそうですけれども、やがて1歳、1歳8か月までといったおもしろいランキングがありました。

 なぜこんな話しをするのか。
私たちは神様の子どもとして生まれたわけです。神の霊が心の中に宿っている。幼児がお話しをするようにお祈りをします。そのとき、いつまで経ってもお祈りができないと、これは心配しますよね、親は。私たちが神の子どもの霊を受けて新しく生まれ変わったときに、いちばん最初に天のお父様と呼び掛ける。

 で、またこれも意味のある脱線と思ってください。
私が初めて御茶の水の会館で救われ、そして、丸の内教会に導かれて、丸の内教会の礼拝に出席をさせていただきました。礼拝では週ごとにお祈りを捧げる信徒が割り当てられています。
蔦田先生の薫陶を受けた渡辺倉蔵という模範的なクリスチャン青年がその日にお祈りしました。後年に盛岡教会でもお招きしたことのある方です。
 渡辺倉蔵勧士は、蔦田先生が戦争中に日本橋の近くの留置所に入っていた時も、中にいる蔦田先生に聞こえるように、「先生だいじょうぶですよ、私たち頑張ってますよ」と伝えようと太鼓をたたいて路傍伝道をしたというそういう方です。渡辺倉蔵さん、当時は青年だったんですが、私が信仰に導かれたときには、もうお爺さんになっておられました。またこの先生の祈りの決まっていることといったら。駆け出しのクリスチャンのような喃語じゃないのです。真似したくとも、もうはなから構えが違う。「それでは渡辺倉蔵勧士、お祈りをお願いします」と講壇から声が掛かりますとマイクが回ってくる。「在天の父よ。」この最初のひと言で会衆が粛然となる。とてもまねするなどでき ません。ひと言ひと言がぴちぴちと決まっていく。しかもそれが嫌味じゃない、見せびらかすということでもない。心の底からアーメンと同感できる。渡辺倉蔵勧士のような祈りを皆がするのは難しいと思います。

 私たち、はじめは幼子のような祈りでもいい。はじめはそれでいいのです。しかしそれを重ねていくうちに、まことの神との対話、その言葉が発せられます。要はアバ父と祈ることを始めていただきたい。これが、聖霊が私たちに与えられているしるしです。

 さて、おもしろい調査があります。100人を対象に、最初に子どもが発した意味のある言葉はどんな言葉でしょうかという質問に対して、「ママ」が33票。それから「マンマ」が23票。「パパ」が11票。とにかく100人のランキングにいちばん輝いたのが「ママ」。それを聞いたお母さんは「ヤッター」。

 私たちが神の幼子として、神の子どもとして初めて発する神様が期待しておられることば、それは「アバ、父」。決して揺るぐことがありません。愛情と信頼の言葉です。「アバ、父」。この言葉が私たちの心の底から迸り出ることを、神様はとても期待をしておられる。マタイの福音書6章に、ポイントとなるところをちょっと抽出してみました。

26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
 
「アバ、父」という心からのこの一言が心から出てきたのならば、それは勝利です。なぜでしょう。もし赤ちゃんが、この親で大丈夫かな、心配だな、と考えたのならば、おっぱいも飲むことができない、眠ることもできない。けれども、そんな赤ちゃんはいません。赤ちゃんが休んでいるのはほんとうに愛と信頼を持って天のお父様を知っているからなのです。天のお父様はその私たちの必要なことをぜんぶご存じである。私たちはその天のお父様を知っている。呼びかけるとき、もうそれは勝利です。これは決してことばだけのお話しではありません。ほんとうに私たちが大きな課題に直面し、現実問題に悩むとき、神様の前に、アバ父、あなたはぜんぶご存じですよね。このお方を愛し、このお方に信頼する。この信仰の心の営みができたなら、幼子の言葉から、あの「在天の父よ」」というような渡辺勧士ではありませんが、さまざまな大きな課題を通りながら、本当に神様に呼びかける者になってくるでしょう。

 そして先ほどのゲッセマネの時に、イエス様は「アバ父」と呼びかけられました。「あなたは、何でもおできになります。どうかこの杯、十字架に架かる苦しみを私から取り去ってください。しかしわたしの望むことではなくあなたがお望みになることが行われますように」と祈られた。これがイエス様のアバ父の祈りです。「どうかあなたがお望みになることがこの身になりますように」。アバ父。私たちもイエス様のこのような祈りに倣わせていただきたいと心から願うものです。
そして、「アバ父」ということを思い巡らしますときに、もう一つ、へブル人への手紙125

5「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。6主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」

またへブル127

7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

 ほんとうに愛する子供だからこそ、神は私たちに訓練をなさる。その意味で試練を与えられる。さあ、この時、どういうようにあなたはこの問題を解決しますか。その時、神様の前に真実に悔い改め、決して言い訳はしない。自分のありのままを主の前に告白をし、イエス様のように「アバ父よ、どうかあなたのみ思いがこの身になりますように」。こう言って主の前に出て行ってみてごらんなさいませ。主が愛するご自分の子によくしてくださらないはずがないでしょう。絶対にそんなことはありません。そのように寄りすがっているこどもを抱きしめない親がいるでしょうか。受け入れない親がいるでしょうか。もう一度いいます。私たちが、「アバ父よ」とほんとうに心から主の前に駆け寄っていくときに、主は必ず受け入れてくださるし、そしてその時にけむれるあまを消すことなく、あしを折ることなくねんごろに主は私たちを扱ってくださいます。
20220529-170014  

「アバ、父よ」。このことばで私たちは生まれたのです。クリスチャンとして。アバ父よと。真の子供だからこそ神様をアバ父と呼ぶ神の子どもとされたのです。私たちはこのことばで生まれました。そして私たちはこのアバ父よ、という言葉でこの地上生涯を歩者です。どうか、四面さまざまなところはあるでしょうけれども、そのときに、アバ父と呼びながらこの言葉で歩もうじゃありませんか。そして私たちはアバ父よといってこのことばでふるさとに帰るのです。帰るべきところは天のお父さまなんです。そこにアバ父よ、あなただったんですね。御子をこのようにわたしのために遣わしてくださった、ああ懐かしい。わたしたちはこのアバ父で生まれ、アバ父で歩み、アバ父で天に帰ってゆく。これが私たちの信仰生涯そのものです。

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰6時40分更新

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