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きょうのことば 「大いなる光景を見るーリバイバルの幻―」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年619()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「大いなる光景を見る」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇12616
都上りの歌

1
主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。
2 そのとき 私たちの口は笑いで満たされ
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき 諸国の人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなった。」
3 主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ。
4 主よ ネゲブの流れのように
私たちを元どおりにしてください。
5 涙とともに種を蒔く者は
喜び叫びながら刈り取る。
6 種入れをかかえ 泣きながら出て行く者は
束をかかえ 喜び叫びながら帰って来る。

《メッセージ》
  この朝は「大いなる光景を見るーリバイバルの幻―」このテーマでご用を果たさせていただきたいと願っております。
 教会の玄関のところに、きょうの説教題を、前日のうちに記しているのですけれども、週報には「大いなる光景を見る」と。工藤先生がこんどの東北聖会でお語りになる3回のメッセージのテーマとしておつけくださった表題は「大いなる栄光を見る」。実はそれをずっと思い巡らしながら今日の準備に当たっておりました。筆を持って書いております時に、「大いなる栄光を見る」と書きまして、書き終わった後よく付き合わせてみましたらば、週報には「大いなる光景を見る」。筆で書きました方を間違えてしまった。すぐに書き直そうかと思いました。しかし、「大いなる栄光を見る」、いいじゃないかと思いまして、玄関には「大いなる栄光を見る」と記したままにしておきました。 

 リバイバル。教会に行きます前からこの言葉は知っておりました。一般にもよく使われております。昔流行っていた歌謡曲などが再び吹き込まれて再ヒットしたときなども「リバイバルです」と。クリスチャンになってから、私は教会でしばしば「主よリバイバルを」という祈りの言葉を耳にしました。今まで私が何となく理解していたリバイバルとは趣が違うなということに気が付きました。
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 今日の「リバイバルの幻」と副題のように付けました時、これをしっかりと理解しておかねばと思いまして、手元にあるキリスト教用語大辞典で、「リバイバル」を引きました。「信仰復興という言葉と同意義」とあります。そして「リバイバル」と引いたところ、「信仰復興の項を見よ」と。これをまとめてみますと、リバイバルとは「神の恵みと力が特に著しく現れてクリスチャンたちを鼓舞、激励し、そして不信仰な人々が信仰に導き入れられ、回心の経験が与えられること。そして、また、信仰から離れていた者を再び信仰に立ち返らされるような状態に対して用いられる言葉」。ほんとうによくまとめられています。確かに教会ではそういうように使われていると改めて思いました。
「神の恵みと力とが特に著しく現れて、クリスチャンたちを鼓舞激励し、不信仰な人々が信仰に導き入れられ、回心の経験を与えられること。そして、また、信仰から離れていたものを再び信仰に立ち返らされるような状態に対して用いられる言葉」。
ガッテンしました。

 そのリバイバルのできごとが記されている聖書の箇所が「使徒の働き」。「使徒の働き」にはまさにこのリバイバルが記録されてあるといってよろしいのです。そしてまた幾つかの有名なリバイバルがありました。例外なしに言われているのは、18世紀のイギリスにおいて現わされたジョン・ウェスレ―のメソジスト運動、このリバイバルをぬかして記してある記述は皆無と言ってよろしいかと思います。このメソジスト運動の流れを引いております私たちは、今一度、リバイバルを本気になって捕らえたいとこのように思います。 

 きょうは言及するだけになりますけれども、たとえば、私はリバイバルをまだ知りません。字面で或いは、直接それを経験した人から聞いたことはあってもそれを知らない。しかし、それを実際に経験した人をよく存じ上げています。中田重治監督の下にあった時代の蔦田二雄先生です。蔦田先生は日本ホーリネスの日本橋教会を牧会しておられました。教派を超えて多くの方々が恵みを慕って集まってきたその場所が日本橋の蔦田先生の教会だったのです。蔦田先生はとても理性的な方でした。当時を知る方々は、カミソリ蔦田と呼ばれていたと聞きました。その先生がインマヌエルを創設され、また私自身その丸の内教会に導かれ、そこで経験したことです。

 ある先生が、丸の内教会に講師として招かれました。そして讃美歌を歌うときには、恵まれたときには手拍子をしたり手をあげたりして歌うように指導されたのです。そのとき蔦田先生は講壇の後ろの椅子に腰かけられ静かに目を閉じておられました。そしてその集会から1週間ほど経ったころにお話しされたことは、「私たちの礼拝では手拍子をしたり手をあげての祈りは、それは敢えてしない」と言い置かれました。釘を刺されたという表現は的確ではないかもしれませんが、いったい何を危惧してそう仰ったのか。

 日本橋教会の蔦田先生の右腕とも思われる活躍をしていた渡辺倉蔵勧士、この方は日本橋教会のリバイバルを経験された方ですが、こう仰ったことがある。「あの時はすごかったよ。和服を着ている上品なご婦人が、主よ、といって教会の柱にしがみついて登り始める」。それを蔦田先生は知っておられた。先生は、聖霊の働きがどのようなものであるかをよくご存じですので、一連の感情にまつわることに対しては非常に慎重でした。そして根っから非常に理性的であり、カミソリ蔦田と言われるほどの人ですから、そういうことだったのです。

 ただこのようなこともありました。日本橋教会にリバイバルが起きた時、勿論その日の説教者は蔦田先生であり、先生はメッセージを準備して講壇におられました。説教の前に信者による「お証し」が語られます。そのときに、今はもう天に帰られましたけれども、大阪の朝比奈先生の奥様でらっしゃる朝比奈先生が、ほんとうに神様の前に悔い改めて扱われた救いの証しをなさったのです。或いは「きよめの証し」ともいえるものでした。このことは大橋武雄先生も出版物に残しておられますが。証しをされた朝比奈先生は音楽の賜物がおありの方で、それから賛美をしようと思ったところができなくなってしまった。会衆席にある方々がもうみんな圧倒的な聖霊の臨在に触れまして、あちらでもこちらでも悔い改めの祈りが起こってきたのです。司会者の先生は何とか進行せねばと次を説教者の蔦田先生に譲ろうとしました。しかしその様子を見ていた蔦田先生が、みんなその場で悔い改めている。メッセージを語ることはできないし、語る必要がないと判断なさいました。聖霊様が降っておられる。
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 これがリバイバルをまだ経験したことがない私が、実際に経験した方から直付けに聴いたリバイバルです。「大いなる光景を見る」。これは、神様のリバイバルの幻、それを神様が私たちにお約束をしてくださっておられる。そして、私の切なる願いは、「どうかこの時にリバイバルを起こしてください!」。それはまず個人的なお一人おひとりが、信仰のリバイバルを経験するということです。リバイバルによって、聖書に記されてあるような信仰生活を、そのようなあり方を実現できます。これはリバイバルの一つの証しといえるでしょう。
 神の恵みと力の傾注についてはゼカリヤ書1210節をご覧ください。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
 ゼカリヤ書のこのところだけを、今日は敢えて詳しい背景無しに取り上げました。
神様は「恵みと哀願の霊」を私たちに注いでくださいます。「彼ら」というのは、イエス様を十字架につけた人々、「十字架につけろ」と叫んだあのキリストを拒絶したユダヤ人たちです。まさにユダヤ人の王としていらしたはず、また救い主としていらしたはずのお方をユダヤの人たちイスラエルの人たちが拒絶してしまったその拒絶したイスラエルの人たちに、神様は「わたしは恵みと哀願の霊を注ぐ」。
 「彼らは、自分たちが突き刺した者」、これはイエス様の十字架を預言しています。ゼカリヤ書は旧約聖書にはいっていますから、これが記された時点でイエス様の十字架は将来のことですけれども、ゼカリヤは預言しているのです。「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く」。イエス様を拒絶した私を赦してください。これがリバイバルなのです。「イエス様の十字架の救いに与っていた私、なのに、あり方に於いて生き方に於いていつの間にかかけ離れてしまっていた。主よ、どうか私にリバイバルを与えてください」。悔い改め祈りましょう。 

ゼカリヤ書13章1節には
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
 エゼキエルの神殿からのあの一滴一滴の水のことがこんどの東北聖会で語られるでしょう。私たち、クリスチャンたちのために、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める十字架の血潮が注がれる。格別な神の恵みと力が傾注されるのがリバイバルなのです。「夏になりました」「東北聖会です」「ああそうですね」じゃないんです。ほんとうに神様がこのところに恵みと力を格別な意味合いに於いて注いでくださって、先ず私たちが個人的に信仰復興、悔い改めて、文字通り今の在り方を主の前に告白し、日本橋がそうであったといいましたけれども、もう語ることは何もない。みんながそこかしこで罪を悔い改め、不信仰を悔い改め、そのところに圧倒的な聖霊が降されている。それがリバイバルリーグの始まりでした。神の恵みと力の傾注、これは多くの人たちが回心をしていく、そして信仰の回復、信仰の復帰が起こされます。

きょうの詩篇の126篇1節
1 主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。

 「主がシオンを復興してくださったとき」、リバイバルしてくださったとき、「シオン」というのはエルサレムの別名です。エルサレム、神の都です。それが廃れている。しかしその時、主はシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった。 

 時が回りました。これから本番に入るつもりでした。しかし、先生の薫陶をいただいた者として、「大いなる光景を見る」と主が約束してくださった、「主の栄光を見る」と言うとき、私は駆け足ではなく、詩篇126篇の1節2節、3節と次回の礼拝の時、もう一度私も居住まいを正して神様が私たちに何を願っておられるのか、そしてどうかリバイバルを起こしてください。それをまた語らせていただきたいと思います。

 私は前回秋田の方々との合同礼拝の時に祈りました。立派な先生の講壇から、或いは、大きな素晴らしい教会からリバイバルが起きるというのも勿論願うところです。でも聖書の言っているリバイバルってどこから起きているんだろう。きらびやかなバチカンにリバイバルが起きているんでしょうか。ほんとうのリバイバルは無学なガリラヤの漁師たちに起こりました。イエス様を十字架につけて、つけられてしまって、今度は弟子である自分たちに迫害が振りかかってくる。どうしよう。弟子たちは恐れおののいて、そして主の前に、どうしようかと思ったときに、イエス様が、「大丈夫だ。聖霊があなた方の上に臨むときあなた方は力を受ける。そして、エルサレムそしてユダヤ全土及び地の果てにまで私の証人となる」と仰ったのです。
 そうです。まさかこんなところから、ここからというところからリバイバルが起きるのは神様に相応しいことではないでしょうか。決して卑屈で言ってるのでもない。ひがんで言ってるのでもない。そうではなく、ほんとうに主よ、神様の栄光を拝させてください。「大いなる光景を見る」。「大いなる栄光を見る」。そういう働きのこのところから主がリバイバルを始めてくださいますように、心から願うことです。

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰6時33分更新

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