きょうのことば 「私の光・いのちの砦」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年5月15日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「私の光・いのちの砦」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇27編 1~14節
ダビデによる
1 主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
2私の肉を食らおうと
悪を行う者が私に襲いかかったとき
崩れ落ちたのは
私に逆らう者 私の敵であった。
3たとえ 私に対して陣営が張られても
私の心は恐れない。
たとえ 私に対して戦いが起こっても
それにも私は動じない。
4 一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。
5 それは 主が
苦しみの日に私を隠れ場に隠し
その幕屋のひそかな所に私をかくまい
岩の上に私を上げてくださるからだ。
6 今 私頭は
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ
主に歌い、主に、ほめ歌を歌おう。
7 聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。
私をあわれみ 私に答えてください。
8 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。
主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。
9 どうか 御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを
怒って 押しのけないでください。
あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神よ。
10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは
主が私を取り上げてくださいます。
11 主よ あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから
私を平らな道に導いてください。
12 私を敵の意のままにさせないでください。
偽りの証人どもが私に向かい立ち
暴言を吐いているのです。
13 もしも 私が
生ける者の地で主のいつくしみを見ると
信じていなかったなら—。
14 待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。
《メッセージ》
今日は「私の光・いのちの砦」という説教題で恵みをともにさせていただきたく願っております。
いつものように前回のことを画面を見ながら思いだしていただければ幸いです。
光、ほんとうの闇がどんなものであったか。交わりこそいのちそのものなのだということ。そして、この光の中におられる神様と、畏れ多いことに私たちの心が一つとなって、神様との交わりの豊かさがある。これを心に留めたことでございます。
そして、この何回かに亘りまして、地球ゴマを例話に使わせていただきました。
ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
この聖書の中の聖書と呼ばれているヨハネ3:16、これがきちっと回る。信仰によってピタッとそれが定まっている。それは聖なる永久運動である。
そしてこの地球ゴマというのが、どういうものであるのか。
あまりに私が地球ゴマの例話を多く使いましたものですから、子どもが地球ゴマを送ってくれました。
今、止まっています。さっき、ぐるぐると回しましたところ、そのままピタッと止まったように回転し、それがまったくぶれることなく回転を続け、そのままずっと止まったように回転しています。それはまた後でご紹介できるだろうと思います。
さて、きょうの本題の方に入っていきます。
「私の光・いのちの砦」。聖書の中で神様が自分にとってこのようなお方であるということは、ある意味すんなりと受け留められる。皆さんはそれに違和感はお持ちにならないだろうと思います。違和感がないだろうということを思いながら、ふと、信仰を持った当時のことを思い起しました。
何回も証しをさせていただくんですけれども、私は聖書の背景のないところから信仰に導かれました。雪が谷大塚駅近くにあるインマヌエルの雪谷伝道所に導かれて、祈祷会、そして日曜日には丸の内における礼拝、それが終わると夜は雪谷の伝導会に集い、そこで乾ききった砂が水を吸い込むよう、ああ、そうか、聖書ってそうなんだ、人間ってこういうことなんだ、救いってこういうことなんだと、恵みのうちに本当に分かってきた喜びがあったのです。それで私、雪谷伝導所で数か月経った頃だったと思うのですが、その喜びをお伝えしたいと思って、「これから先生が何を話そうと思っているか、だいたい予測がつくようになりました。こういう話しの後はこういうことになるんでしょ。そして神様の恵みというところで話しが締め括られるんですよね」と言いました。自分とすればまったく皮肉でもなんでもなく、これから先生が話そうとすることがだいたい分かるようになり嬉しいですと言うつもりで言ったんですが、先生の「まあ!」という表情に、そうか、取りようによっては毎度変わらない話しなので、もうその次は分かるようになったと言っているようでもあるな。そんなつもりではなかったのですが、喜びのあまりにそう言ってしまったのでした。もう何十年も経ってからその「まあ!」と先生が仰った場面が思い起されるのです。
教会のお話しというのは、変わらない、変わってはいけない。変わらない真理をずっと、どの集会においてものべ続けている。それが分かっているものですから、喜びのあまりだったんですけれども、この次はだいたいこうで、こういって、こういう結論になるのでしょうと。それが、分かるようになったことは大きな恵みでした。
私たちの教会は、同じことを同じように語っている。そして同じことを語りながらそれに共鳴するものを私たちは持っている。心の中に持っている音叉。今画面の中には音叉が出ていますけれども、教会の恵みってこれだと思うのです。代表的にヨハネ3:16というおことばがあります。
これは有名なジョークなんでしょうけれども。アメリカの教会には多くの教会の政治形態があります。牧師を、インマヌエルのように監督政治ということで、任命されるということもあれば、大衆政治といって、会衆、教会員が、この先生、どうも合わないな、どうもあっちの先生の方が私たちの教会には合いそうだから、こんどあの先生を招聘しようと、教会員の方々がそのように話し合いをして牧師を招聘するという形態もあります。いい悪いの問題ではなく、そういう制度、政治形態には、私たちはあまりなじんでいないのですけれども、そういうことがあるわけです。
ある教会で、先生、私たちは会員の総意として、先生をこれまでとさせていただいて、違う先生を招聘することに決めました。その理由は、先生が、いつもいつも集会ごとに、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」だけを語っていて私たちはもう飽きました。違う話しを聞きたいんですと先生に申し出たのです。先生は、「わかりました。それでは今度の集会がお別れの集会です」と仰った。会衆は、最後はどんなお話しをしてくださるかと思ったところが先生は依然としてヨハネ3:16をお話しされたという、ジョークといえばジョークなのですけれども。
しかし、私はそれを思うのです。ヨハネ3:16、福音の真理、神の愛というものを講壇で語り続けるとき、盛岡教会の皆さん方の心の中に、このヨハネ3:16、福音というものが語られたときに、心の中に共鳴するものがあって、そして礼拝ごとに集会ごとに福音が語られるときに、自分の心の中に在る音叉がヒューと共鳴する。
この聖書の中に、私の光が、いのちの砦がある。ある意味変わらない話しをさせていただきますけれども、これをそうだ、ほんとうにそうだと皆さん方の心の中に持っておられる音叉がウワンウワンと麗しく鳴り響く礼拝であらせていただきたいと心から願っているのです。
信仰は弱い者が頼る逃げ道だという人がいます。私はこれにまったく同意いたします。私たちの弱さ、私たちが暗闇の真っただ中を歩くときに、本当に主が光であってくださる。何という尊いことでありましょう。私たちはそれを知っています。しかもそれを体験的に知っています。
「主は私のいのちの砦」。その通りです。砦に駆けこんだり逃げることは、弱い者がすることだと言うなら、どうぞそう言ってください。本当に私たちは自分を豊かに囲ってくれるいのちの砦というものが、どんなに尊いものであるのか。この尊さが分かれば分かるほど、弱い者が頼る逃げ道だ、本当にそうです。その中に、私たちは駆け込んでまことの希望の光を、そしていのちの砦に。それをきょうもアーメン、こう受け留めることであります。
そんな思い巡らしの中に、実は水曜日の「牧師の書斎」のズームでの集いのとき、電源が外れてしまうという最も初歩的なミスをしてしまいました。それで話しを端折ってしまったので十分にお伝えできなかったところが、この詩篇の62篇7節です。
7私の救いと栄光は ただ神にある。
私の力の岩と避けどころは 神のうちにある。
神のうちにある」。
河があるとしましょう。河原には大小の石も岩もあるのですけれども、その向こうには大きな山のような岩盤がそそり立っている、それを今日の例話の一つとして用いさせていただくのですけれども、私たちがこの岩の中にかくまわれる。私たちの救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避けどころは、この神様の内側にある。しっかりとガードされ、ミサイルを撃ち込まれようが何をしようが絶対に揺るがない。そして、これを思い巡らしましたときに、
詩篇62篇2節
神こそはわが磐(いわ)わがすくひなれ またわが高き櫓(やぐら)にしあれば我いたくは動かされじ
こうあります。おもしろいのは、「我いたくは動かされじ」と文語訳の法ではこう訳されている。そうか、動かれることがあっていいんだ。だけど、「いたくは動かされじ」。
62篇6節
神こそはわが磐わがすくひなれ 又わがたかき櫓にしあれば我はうごかされじ
こんどは、「いたくは」ではなく、それが取り除かれて、「我はうごかされじ」。単なる訳の違いと言われればそれまでですけれども、味わい深いですよね。「いたくは動かされじ」。「我はうごかされじ」。
このことに心が向きましたのは、この地球ゴマ、回り始めるときには、カタカタカタカタとこう確かにいたくは動かされじ、けっこうおもしろい動きをするのです。しかし安定するとぴたっと止まっていく。
動かされることはあります。回っていても人の言葉とか、或いは、何かの出来事にぐらっと来る。でもおもしろいことに、あの地球ゴマ、まだ十分に慣れていないもんですから、コマが落ちてしまって、ああ、しまった、せっかく回ったのにと思って落ちたコマを拾い上げましたところが、ちゃんとそのさ中でも回っているんです。そうか、今あったところから落ちてしまって、床の上に落ちてしまってもそれでも回り続ける、おもしろいな。そしてぴたっと止まる。
そして91篇の1、2節
1 いと高き方の隠れ場に住む者
その人は 全能者の陰に宿る。
2 私は主に申し上げよう。
「私の避け所 私の砦
私が信頼する私の神」と。
どうかこれが皆さん方の日々の歩みの中で共感するもの、そうだ、その通りだ。あのような激しい試練に遭ったとしても、はっと気がつくとまだ、わー、まだ回り続けている。
そしてそれを見ました時、私はへブル人への手紙4章10節
文語訳 4:10
既に神の休(やすみ)に入りたる者は、神のその業(わざ)を休み給ひしごとく、己が業を休めり。
ぴたっと止まる。「いたくは動かされじ」。動くこともある。だけど、ぴたっとそこに神様の休み、懐の中に入る時、神様がご自身のわざを休まれたように、自分のわざを、ああ頑張らなくちゃ、ああこれしなくちゃ、あれしなくちゃというそれから解放されて、神の中に憩うということは、自分のわざを休むということです。今ふと思い起しました。あの教団の創設者蔦田二雄先生は、中田重治監督の秘書のような働きをしていた時代がありました。その時、中田重治監督が、蔦田先生に向かって「ねえ、蔦田君、もっと憩おうよ」と仰ったんだそうです。何事にも真面目できちきちとやっていかれる蔦田先生のことは想像できますので、真面目な、ほんとうにそれが真面目であればあるほどそれはいいことなんですけれども、しかし、神の懐の中に憩うという大切な要素がある。そのことをふと思わせられました。どうか全能者の懐の中に憩いつつ歩んでいこうではありませんか。
※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰6時18分更新
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