きょうのことば 『主は私の力』
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年5月22日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 「主は私の力」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 使徒の働き1章3~11節
3イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現われ、神の国のことを語られた。 4使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。:5ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
6そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」7イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 9こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。 10イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。 11そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
《メッセージ》
きょうは 「主は私の力」。「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」(文語訳)という使徒の働き1章8節のおことばを中心に恵みの時をともに持たせていただきたく願っております。
「聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます」(新改訳2017)。この「聖霊があなた方の上に臨む」をどのように理解をしているでしょうか。これは毎年、ペンテコステの時に心に留めております、最初のペンテコステのできごと、あのイエス様のよみがえりに触れながらも尚、ローマの迫害を怖れていたお弟子さんたちが、何と人々の前に姿を明確に現わすばかりか、その時、聖霊が臨んでまさしくこの1章8節のおことばの通りになっていったあの場面を思い起こすことは、これは正解であります。
そして、それとともに、今日私たちがこれをどのように受け留めるべきなのか。敢えて簡単に触れますけれども、聖霊に満たされるということの一つの現象として、異言を語るいうことが聖霊が臨むしるしであるという主張をする方々もいらっしゃいます。それを私たちは知りながら、聖霊が臨むということは即ち異言を語るということであるのかと問われるなら、私たちはそれに対して「いいえ」と首を横に振るものであります。なぜでしょう。それは、「聖霊が私たちに臨む」という本当の意味は、聖霊が私たちの心の中に主権をお取りくださる。聖霊様が私たちの心の一番の中心部分に場を締めて下さる、これが、「聖霊が臨む」ということの生命的な、最も根本的なことです。
聖霊というお方は、父・御子・聖霊という三位一体の神様であられて、それぞれご人格を持っておられる。こう言いながら、もっと適切な言葉はないのかと思うのですけれども、神様が人格をお持ちだというのです。けれども人格は人を表すことばですから、これ以外にうまいことばがありません。私が私であるという人格を皆さん方が持っておられるように、聖霊というお方が一つの風のような、或いは、そういう一つの現象のようなものであると、つまり人格と切り離して考えてしまうならば、それは聖書がいっている聖霊ではありません。
人格を持っておられる方が、私たちの上に臨むということは、人格を持っている私が、聖霊なる神様に、「主よ、ありがとうございます。どうか私の心をくまなくご支配ください。あなたにおゆだねいたします」と自らを空けわたすことです。これは強制的でもなく、信頼をしきっているからこそ、「あなたを主とし、お委ねいたします。どうぞ、私の心の真ん中においで下さい」。これが「聖霊があなた方の上に臨むとき」という中心的な意味合いであるということを押さえておくべきだろうと思います。「そのときあなた方は力を受けます」。
私がこのおことばに導かれた時のことを思いだします。大好きな鞍掛山の道を歩きながらおりますとき、使徒の働きの1章8節、ペンテコステのおことばを思いながら、「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」、どうして「能力(ちから)をうけん」と仰ったのかなあ。クリスチャンらしい品性が与えられる、キリストらしさというものに変えられるというのなら、これは望んでいることがらです。ほんとうに聖霊が臨んでくださるときに、キリストらしさというものが内に満ちてくる。本当にそうありたいなと思いながら。でも神様はそう仰らない。「あなた方は力を受ける」と仰った。
また例話になりますけれども、私はこの時期、今はよい対処をしているのでそういうことはありませんが、盛岡に来て50年近くになるのです。まだ盛岡の冬も経験していなかったときに、ちょうど今時期、鼻水がたらたらと流れて、くしゃみが出てきてしまう。ひろ子先生と「なんだろうね、まだ冬も経験してないのに今から風邪をひいていたらどうなるんだろうか」と、そんなことを思いながらおりました。しかも開拓第一年目のことですから、これから夏に向かっていろいろな準備をしていかねばならない、7月には神学生たちが応援にきてくれるというようなことも含めて、そんな忙しさの中にありました。ですから、自分の鼻水、くしゃみ、頭痛のことさえも忘れてしまう1年目でした。言えることは、真夏になればすっかり症状が消える。2年目になって同じように同じことが始まったのです。「また風邪ひいちゃったよ」。当時はまだ花粉症ということばが認知されていなかった。3年目も同様です。しかも今度は酷いのです。今年もこの時期倦怠感に襲われました。何があっても日常のご奉仕はこなしていたのですが、今年ばかりは「きょうちょっと疲れているから」と、いつも私がやる仕事をちょっとひろ子先生に代わってもらった。ダメだなこんなことじゃと思っても、力が無いんです。力が無くなるってこういうことなんだろうな。倦怠感。だるさ。そうか、今までうまく薬を使いながら対処していた花粉症が始まって、薬のおかげで意識せずに来たけれども、時期的に今がいちばん酷いところを通っているんだ。原因が分かって、それでさっそく薬で対処したんです。この時は、力が無くなるってこういうことなのだろうなあ、そう思ったとき、ほんとうに私たちには力が必要なんだ。そしていよいよキリストらしくあらせていただきたい。そう思いました。現実の日々の中で、私たちは力が欲しいのです。神様は仰る、「あなた方は力を受けます」。
今から10年ばかり前に青森教会にそれまで労しておられた大滝先生が引退をされて、中尾先生が青森教会に着任されました。大滝先生とは、雪谷の先輩の先生ですから近しく、大滝先生の引っ越しを、高速を使って3回お手伝いに行ったことがあった、その時に大滝先生が、「先生、私電動自転車を持ってるんです。これ私はもう持っていけないから、先生持ってってくれる?」。私は喜んでもらって来たんです。
電動機付き自転車、乗ってみるとなかなか快適なものです。忘れられないのは、盛岡の方はよくご存じですけれども、舘坂橋から天昌寺に向かう46号線、ずっと上り坂になっています。電動自転車で買い物をしてスイスイとのぼっておりますと、ちょうど高校生たちの帰る時間だったんですね。若い高校生がハアハアと息を切らしながら坂道をのぼってきます。私はスイ―と。高校生が私をちらっと見ました。こんどは必死になって自転車をこいで私を追い越していきました。その姿を思い起すのですが、内側に力があるということは本当に大きいことです。私たちが日々の生活をしていくときに、この聖霊様が私たちを人格的に整えてくださる。素晴らしいことです。何回でも言います。「あなた方は力を受けます」、これをしっかりと受け留めたいと思うのです。
最近私は地球ゴマの例話を繰り返しております。このコマがくるくる回る、それをジャイロ効果というのだそうです。ちょっと調べましたらば、ジャイロ効果とは、「一般的には、物体が自転運動をすると自転が高速なほどその姿勢を乱されにくくなる現象を指す」。
こども科学館で、子どもたちと一緒に楽しんだことがあります。今でもあるのかどうか。自転車の一輪、それが置いてありました。手で車輪をぐんぐん回して、車軸になっている部分をそこから離す。車輪がぐんぐん回っている限り、車輪がかしぐことはありません。車輪がぐるぐる回り続けているときに、それを外してかしげようと思ってもうまくいかない。それがこのジャイロ効果。姿勢を一つにぴたりと保とうとする力が働いて、速ければ速いほどそれがある。このことを知りました。
「主が私の力」。ここに持ち出した地球ゴマは小さな小さなものです。地球ゴマを回転していくとき、くるくる回っているときに、なるほどこれがジャイロ効果なんだなと体験できる。
私はそこに、このようにイエス様の十字架という事実、このくるくる回るこの部分、いちばん中心のところに、十字架と復活という事実、ヨハネの福音書3章16節、これがキリスト教の真中心、ここにある。これをこの上のネジと下のネジ、このネジでくっとこう支えている。これを私は信仰と申し上げたいのです。
この私たちキリスト教信仰、クリスチャン信仰の確かさというものは何かというと、十字架と復活ということがまぎれもない事実であるからです。もしこのことがフィクションであったのならば、福音というものは一から成り立つものではない。しかし、聖書の預言の通りにキリストが十字架に架かり、聖書のいっている通りにイエス様は復活をされたという、そしてあの臆病であった弟子たちがキリストの証人となるというあのペンテコステのできごとを見ても、この十字架と復活というまぎれもない事実を信仰でしっかりと押さえていくとき、これがくるくるくるくると力強く回るとき、ほんとうに私たちは力を受ける。これは回ってみるとわかります。他の世の中の力が激しくあったとしても、私たちのこれが回り続けているのならば、大丈夫です。
ここにコリント人への手紙第二4章8節に、
「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず、」(文語訳)
「 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(新改訳2017)
ある牧師のブログにありました。
北海道に転任してまもなく、これはもうやっていけないというような問題に直面したそうです。さて、どうしたものか。その方は、父親も牧師。しかしどうも父親には相談したくなかった。やはり牧師である父親の兄である伯父に相談するのです。すると「そりゃ大変だ、どうしようもない」。伯父さんががどうしようもないと言ってる。それでやっとこんどは父親に相談してみます。「そうか、そりゃどうしようもないな。神様がどうしてくださるか、楽しみに待っていたらいいよ」。
「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」。まさに「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」。
これがしっかりと回り続けているときに、本当の意味の力が与えられます。
地球ゴマ、その接点にちょっと油を注しますと、回転がよりスムーズになり安定してくる。「聖霊が私たちの上に臨むときに」、聖霊はまさしく油を注いでくださって、そして力を与えてくださる。私たちは何もできない小さな者です。だけれども、「聖霊様が力を与えて下さる」というときには、永久運動のように回り続けることができる。これが、「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」。倒れそうで倒れない。「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」。
以前こういう話しを聞いたことがあります。ボクシングでノックダウンされるけれども、ノックアウトされない。たしかリビングバイブルでしょうか。うまい表現があるなあと思いました。ノックダウンされるかもしれないけど、ノックアウトされないよ。
どうか、聖霊様が私たちの心の真っ中心に座を占めてくださって、このお方に信頼しましょう。このお方が回し続けてくださる。私たちはそれを信仰をもってイエス様の十字架と復活、福音をしっかり受け留めていくときに、大丈夫、
「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(ネヘミヤ8章10節)。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(新改訳2017)
神様を心一杯喜んで、神様の力を体験する者であらせていただきたいと存じます。
※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰6時43分更新
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