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きょうのことば『独楽運動と信仰』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年58()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「独楽(こま)運動と信仰」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネへの手紙 第一11~10
1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。 2――このいのちが現われました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―― 3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

5私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。8もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 10もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

《メッセージ》
今回は「独楽運動と信仰」というテーマでお話しをさせていただきたいと思っております。

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 前回お話しさせていただいたように、クリスチャンとしての信仰生活が、この地球ゴマのそれと考えれば考えるほどピタリと真理を教えているなあと気付いてから、地球ゴマ、或いは独楽の運動に思いを巡らしております。
個人的に、では私の地球ゴマが回り始めたのはいつだったのか、それは間違いなく1968年の1116日、イエス様を信じますと挙手をし、祈りをしたあの御茶の水キリスト教会館での時です。あの時がいわば私にとって地球ゴマが回り始めた時だと思います。回り始めた時はきっと回転数は弱く少ないものに違いないのです。けれどもキリスト教会館で、そして雪ケ谷伝道所で、それから丸の内教会でも導きと養いとお交わりをいただきました。今日に至るまでのことを考えます。謙遜でも何でもなく弱い器、足りない器であります。けれども、ここまで走り続けることができた、ただ一つ秘訣があるとすれば、回り続けていたというこの一事に尽きるように思います。

 独楽は回転が止まると倒れてしまいます。しかし、弱くあっても、いや、そうだからこそ、きっと神様は弱い者を一層励ますように交わり、さまざまな恵みを与えてくださる。回り続けているからこそです。
私に深い理科的知識はありませんが、こうしてみると回転というのは意味のあることだなあと思います。地球が自転して、そしてこの何もない宇宙の中にぴちっと地球が保ち続けられている。公転というのもそうだろうし、太陽系も、そう、みんな太陽を中心に回っている。また銀河系も回っている。
 点数のつかないところでこういうこと考えるのが好きなんです。点数がつくとぜんぜんダメなんですけれども。いったいどうなってるのかと思うと俄然興味が湧いてくる。すると回転、みんな回転してますね。じゃ極小のところを考えてみますと、原子とか或いは素粒子とかいうものも回転しているに違いない。回転というのは何かすごく大きな意味のあることだと思わせられます。そんな中で、神様、そして私たちが信仰を持って回転するということは、私たちが思う以上に大きな意味のあることなのではないか、このように思ったことであります。


 先週の簡単な復習のようになりますが。

 神様は私たちと感動を共にしたく願っておられる。その神様ご自身が、この創造者なるお方が、「光あれ」。最初に神様は光を創造され、そして「神これを善(よし)と観()たまへり」、新改訳2017のほうには「神はそれを良しと見られた」とございます。神様がこれを「善()い」、「良し」と思われた感覚、それをもっと深く思い巡らすと、これは三位一体の神様ご自身の「良かったね」、「うんそうだね」というような三位一体の神の交わりというものがそこにあって、良かったという感動の共有であり、神様は感動を共有したく願っておられる。これが創世記の第一章ではないのか。それほどまでにこの交わりというもの、良かったね、いいですねという感動を共有したいと願われているときに、神様はご自身に似せて作られた私たちとのこの交わりを、神様が切望しておられる。こう断言してはばからないと思うのです。神様は何にもまさって私たちとの交わりを切望しておられる。

 そんな角度から、きょうテキストにさせていただいたこの第一ヨハネ1章を見てみました。

7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 私なりに、神が光の中におられる、光の中におられる、神はじめに「光あれ」と仰せられた。光というものは何なのだろうかと真剣に考えました。やはり「光」というものを把握して、そして神様の光の中の交わりに自分も恵まれたいし、主にある兄弟姉妹方と共有したいと思うときに、私自身が光というものをどういうように把握したら理解できたと言えるのか。
 ストレートに「光」ということはこうですとうまく説明ができないのならば、反対である「闇」というものから「光」を浮き上がらせることはできないだろうか。このようにしばし思いを巡らしました。
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 そして、このチャートにあることがらを共有していただければ、今日のメッセージとしてお伝えできるという気がいたしました。
光、その反対である闇というものはどういうものなのだろうか。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であります。このマタイ27章の46節のおことば。十字架の場面です。イエス様が十字架にお架かりになりました。そして昼の「十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」とあります。私はこれをおそらく字義どおりに読んでいいと思います。「全地が闇におおわれた」というのは、そのまま素直に受け取っていい。それ以上深読みすることはかえってよくないのかもしれません。
 今日のメッセージの思い巡らしの中で、この「全地が闇におおわれった」というのは、意味のあることだと思うのです。つまり、それまで御子イエス様は三位一体の父・子・御霊のうるわしい光の中にあられた。それが、初めて父なる神様の交わりを絶たれる。この交わりを絶たれたということが暗闇なのです。おそらくイエス様が初めて神様との親しい交わりを絶たれたお方です。まさに地獄の底からの真っ暗な中からの「「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というこれが闇である。交わりが絶たれること。御子として豊かな愛と命の交わりの中にあったイエス様が、私たちの罪を救ってくださるために、つまり闇の中に生きていた罪びとである私のために本来ならば私自身の闇を、イエス様が自ら背負って、私たちの身代わりに罰を受けてくださった。これがイエス様のご使命でした。
きょうたまたま詩篇の40篇に「わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」とございました。ちょうど今日順番で40篇を読んだところです。ああ、これだよなあと思いました。「みこころを行うことを喜びとします」。父なる神様、あなたがひとり子をお与えになるほどに世を愛してくださるそのあなたのご愛を知っています。そのためには罪のないものが、あなたのみこころを成し遂げるために身代わりとなる神の子羊となることを願っておられる。「喜んでさせていただきます」と御子なるイエス様が私たちのために降って来てくださった。そして闇というものをまさに経験なさった。私たちはこうして考えてみると、罪ということのもたらす結果が、ややもすれば頭の中だけの問題としてある。自分自身がそういうプロセスを通っていたということを思うのですけれども。このイエス様の「「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というお心を、そのおことばを発せざるをえないほどの罪というものを私が持っている。この罪というものを本当に解決していただけるのは御子イエス様の血以外にない。神様が備えてくださった御子イエス様の尊い血潮以外、この闇を光に変えてくださるものは何もない。そしてそれは、信仰によってのみいただくことができる。

そして「7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。これが文語訳ですと、
7
もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む。
ここに、「我ら互に交際(まじわり)を得」とあります。これはやはり、神様と私たちとの交わりです。それと、我らというのは、三位一体の神様の交わりが大前提になっているわけで、、「我ら互に交際(まじわり)を得」ということは、この三つにて一つにおられるあの光の中におられる交わりと「我ら互に交際(まじわり)を得」ということであります。神様とその三つにいて一つなる神様の聖なるお交わりの中にかたじけなくも、私が交わりをいただく、これはものすごいことじゃありませんか。
 光の中に現れる交わりの中に、かつては罪の中に在ったものたちが、「主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を」(詩篇40篇3節)と変えられる。新しき詩を、この詩を歌う。神様へのほめ詩を心の底から歌う交わりの中にいれられる。
こうしてみると、イエス様は「わたしが世を去るのはあなた方には益です」と最後の晩餐でお別れのメッセージをなさいました。そして「わたしが去ったならば、あなた方にはほかの助け主が与えられる」と言われた。そのもうひとりのアナザー・ヒムセルフ、もうひとりの主ご自身が、私たちの心の中に入ってくださる。このお方との交わり、「我ら互いに交わりを得、その子イエスの血すべての罪より我らをきよむ」。この交わりの中に私たち入れられているのです。かたじけなくも。
これはヨハネ316節が回転するところを見てもらいたいという意味でいうのではないのですけれども、これは前回させていただいたところのものです。私本当にこの地球ゴマというのは信仰の何か大切な部分を教えてくれるいいオブジェクトレッスンだと思うのです。信仰でしっかりとこれを受け止め、ヨハネ3:16が、そして私は思うのです。私はここにたまたまヨハネ3:16が一般的に分かりやすく受け入れられるおことばだと思うのです。でも考えてみるとこのヨハネ3:16だけではなく、「我はエホバにして汝らを癒すものなればなり」という聖書のおことば、それがこの回転盤の中にぐーっと回り続けるとき、そうか、我はエホバにして、そうか契約を守るお方、「汝らを癒す者なればなり」「我を呼べ、さらば我汝らに応えん。しかして汝の知らざる思わざるところ」エレミやのことばでしたか、「汝に示さん」というように、この回転盤のところに、今必要な私のことばを入れ替えてといったらいいのか、聖書の言葉をそこに持ってきて、「主よ」と回る時、そのことばが生きてくる。そこにそして私はここに聖なる永久運動と前回書かせていただきました。つまずきやすい、ほんとうに誰よりも自分自身の弱さ足りなさを知っている私たち、だからこそ、交わりを求めておられるお方は、さあ、そこに御子イエス様の十字架の贖いの血潮をちょうど、回転が鈍って来る時に、回転する油を注すでしょう。するとまた動きがよくなってくるように。さまざまな世の中で生活をしていく中に、或いは回転ゴマと称しております私たちのこのあり方、存在をポーンと蹴飛ばされてしまうような試練だってあるわけです。その時にふと思うんです。地球ゴマのフレームのような、このフレームがポーンと蹴られてしまってすこしゆがむということがあります。かなり強烈な試練、激しい試練に遭ったときに、ゆがんだときに聖霊さまはちゃんとフレームを直してくださるし、そして油を注して、だってそうしないと私たちはやっぱり弱い者ですから、そのままにしておいたら私たちは回転が止まってしまう。弱くなってしまう。倒れてしまう。そのことを誰よりもよくご存じのお方は、「聖霊汝らの上に臨まれるとき汝ら力を受けん。しかしてユダヤ、エルサレム、および地の果てにまで我が証人とならん」という使徒行伝1章8節のおことばがありますけれども、その、聖霊様が私たちに聖なる永久運動を与えてくださる。どうか、またしても、今日のメッセージは地球ゴマで終わってしまいますがほんとうにこれ思えば思うほど信仰生活のオブジェクトレッスンとして欠かせないものだなあと。これはほんとうに私たちの信仰生活の大切な要素を表していると思います。今日礼拝を共にさせていただいた皆様がたの心の中に、このコマが力強く静かに回転し続けますように、このことを祈りながら今日のメッセージを締めくくらせていただきたいと思います。

 

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰7時28分更新


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