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2022年5月

クラシック倶楽部を聴く、などなど、一気更新

5月31日()
クラシック倶楽部 LEO 箏リサイタル
1998年横浜市出身。9歳の時に箏と出会い、箏曲家のカーティス・パターソンや沢井一恵に師事。14歳で全国小中学生箏曲コンクールでグランプリ16歳で「くまもと全国邦楽コンクール」(若手邦楽演奏家の登竜門)コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞受賞。時代やジャンルを超えて筝の魅力を発信している。東京フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団と共演。【演奏】LEO(今野玲央)【曲目】みだれ(八橋検校)、無伴奏バイオリン・パルティータ第2番からアルマンド(バッハ)ほか【収録】2021年2月25日ハクジュホールー
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LEO(今野玲央)のコメント
Q箏の魅力について
ほんとうに原始的な楽器でして、薪に弦を張って、「柱」と書いて「じ」と読むんですけれども、コマのようなものを立てて、ピッチを取る。ほんとうに原始的な造り、しかも素材も何百年も前から変わっていない。そんな中で弾いているうちに調弦がずれてきたり、ちょっと爪、ピックですね、ずらしただけで音色が悪くなってしまったり、楽器のコンディションも途中ずっと自分で調整しながら弾くんですね。このすべてを操っているということが、この楽器の特徴でもありますし、難しくも面白く感じているところですね。その和楽器と言うのは一つ一つの音のパワーが凄いんですね。一音入魂ということばもありますけれども、この一つ音を鳴らしただけで何かを伝える。古典の音楽なんかは音数が少なくて、音のないところにまでメッセージをこめるような曲が多くて、この音の情報量のおおさというか、その音の力強さでどんなジャンルの音楽にこの楽器がはいっても、ちゃんと意味のある表現ができるんじゃないかなと僕は考えてます。
Q
箏の魅力を多くの人に届けたい
僕の夢としては、一つは、この楽器をより普及させたいなということがやはり一番大きな目標としてありまして、昔、50年程前でしたらお箏の教室が近所にあって、色んな所のお子さんが箏に触れていた時代があったんですけど、いまはやはりそこまでポピュラーではなくなってしまった。やはり今の時代に合わせた音楽と言うのが、この楽器はすこし発展が遅れてしまったのかなと思っておりまして、ピアノとかだったらどんなジャンルにも使われる。この楽器もそれだけの力があると僕は信じている。僕の活動としてはオーケストラをはじめとして、色々な西洋楽器とのコラボだったり、ほんとうにクラシックに止まらず、色んなジャンルの中にこの楽器を持ち出して僕が演奏することで、より広くこの楽器の魅力を知ってもらって、これからのお箏の新しい表現と言うものを追求していきたいなと思っております。

曲目
すばるの七ツ 作品78 (吉松隆)
みだれ  (八橋検校)
無伴奏バイオリン・パルティータ 第2
 ニ短調 BWV1004からアルマンド
  (バッハ)
ドリーム (ジョン・ケージ)
  (沢井忠夫)
さくら替手五段 (半田弘)

🎵「すばるの七ツ」、これは吉松隆の作曲。吉松隆は「1981年に「朱鷺によせる哀歌」でデビュー。以後、現代のクラシック系音楽創作界(いわゆる「現代音楽」)の非音楽的な傾向に異を唱え、調性やメロディを全面的に復活させた独自かつ異端の路線を貫き、作曲活動を展開する。」とホームページにある。これには共感するところがある。型を破ろう、既成を破壊しようとの曲には意外性や、ある時には奇異な独創性、次にはどんなふうにやってくれるかと一種怖いもの見たさに通じる期待感がある。あるときには感心もし、独自性を賞賛する想いにもなることもあるけれども、その後に、ああ、あの曲をもういちど聴いてみたいという思いになることがない。振り向いてみたときに、それはそれで遠い彼方のある一時点に音の輪郭を際立たせて確かな明確な型を持って一つの存在としてある。そういう感じなのだ。しかし、そういう改革が後の作曲に影響力を持ち、なにがしかの普遍的な楽曲をもたらすということはあるのかもしれない。
 「すばるの七ツ」を聴いて、平安のドラマ背景が彷彿とし、しかしちょっと言いかねる、言ってしまってよいものかと戸惑っていたが、吉松が「平清盛」も手がけていると、実際に放映されているときには気づきもしなかったのだが、それを知り、あながち違ってはいないなと。鳥が聴こえると言いかけて、また「鳥か」、自分の想像力が乏しいのではないかと思っていたところが、これまた<鳥のシリーズ>も。自分の思うところを思うがままに言えばよい。そう思わせられた。
「みだれ」の八橋検校、彼の「六段の調べ」には音階、間の取り方をも含めて格調の高さを感じるのだけれども、この「乱」にも。
「アルマンド」、これには落涙。何度かコマを調整しながら弾いていたけれども、この演奏、箏自体がバッハに通じると思わせられた瞬間。
「ドリーム」、「単旋律が白昼夢のよう」と番組の解説にあったが、琴で演奏しているとは思えない東南アジア、或いはインドあたりの楽器だろうかとも思わせる響き。
「楽」、沢井忠夫1988年作曲。1無窮動。湧きに沸く華麗、流麗。解説のように「心の高ぶり」。2変奏曲。さざ波に追懐、にれ食み、追憶。3輪舞。
間合いに品格と美しさを感じる。
「さくら替手」無心に聴くに心に染み、すでに沁みこんでいる。これもまた華麗な音の渦、箏の波間に。

🎧名曲アルバム。ニュージーランド民謡「ポカレカレ・アナ」
(合唱)東京混声合唱団,(管弦楽)スコラティクス管弦楽団,(指揮)篠原敬介
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ニュージーランドの先住民族マオリに伝わる「ペルペル」は戦士の踊り。ワイアウ川を挟んで歌う恋人たちの歌。マオリの指導者アビラナ・トゥルバ・ガタ(18741950)が第一次世界大戦に召集された兵士たちが歌っているのを聴いて採譜する。

 ☆  ☆  ☆

5月30日(月)クラシック倶楽部を聴く ラファエル・アギーレ ギター・リサイタル
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ラファエル・アギーレ
2007年タレガ国際ギターコンクール他世界の13の名だたる国際コンクールに優勝。スペインのギタリスト。
南スペインのマラガ出身。8歳でギターを始め16歳でオーケストラトと共演してデヴューアンドレ・セゴビヤやナルシソ・イエペスの後を継ぐギター奏者として高く評価されている。 

ラファエル・アギーレのコメント
スペインの音楽はスペイン人そのものです。情熱的でメランコリーで気性が激しくドラマチック生き生きとしていて人生を楽しむ気風があります。ギターの魅力とはそのすべてを表現できることだと思います。ピアノには敵いませんが、ベルリオーズがいったようにギターは小さな一つのオーケストラなのです。
このギターは2016年に私の父が故郷のマラガで作ったものです。表板はシダー(米杉)、裏板と側板はインディアンローズウッド。フラメンコとクラシック両方演奏するのに最適です。シダーのしっとりとした響きしかし、一瞬で世界を旅することができる、そこが気に入っています。
演奏するときは、神経質なのでとても緊張します。そんなときは子どものころのことを思いだします。ギターの奏でる音を聴いて恋に落ちた時のことです。その感情がステージにあがる理由を思い出させて完璧を求めずに楽しむこと。演奏会はパーティーですから。音楽の力を分かち合う事で聴衆は私に力を与えてくれます。そして演奏会は大きな力をくれる場になるのです。

どこでであったか、ファエル・アギーレがいっていたが、ギターとういう楽器は演奏技術を知らないと自然な流れを作るのが難しい、ギターは特殊なところがあって響きにくい調性があったり派手に聴こえるアルペジオやコードの組み合わせがありそれを熟知していないといけない、その点スペインのギタリストの作品にはベースとなる深い知識があると。

曲目
スペイン組曲から 「アストゥーリアス」(アルベニス):原曲はスペイン民族主義音楽を確立させたアルベニス(18601909)のピアノ曲。セゴビアが愛奏したことで、ギター曲としても人気の作品となった。
スペイン組曲から「セビリャーナス」(アルベニス):超絶技巧で名を馳せたサビーカス(19121990)とフラメンコにジャズやクラシック・ギターの要素を取り入れたパコ・デ・ルシア(19472014)の作品。ともにフラメンコ奏者による曲だが、それぞれの特徴が出た作品となっている。
オレイ・ミ・カディス(サビーカス)
月に映えて(パコ・デ・ルシア)
はかない人生から「スペイン舞曲 第1番」(ファリャ):民族主義と印象主義を巧みに融合させたファリャ(18761946)の歌劇の中の一曲。結婚式の場面で演奏される音楽で流麗な主部に熱い中間部が挟まれている。
スペイン風セレナーデ(マラッカ):スペインの名ピアニストホアキン・マラッツ(1872)の作品中ほとんど唯一知られた作品。近代ギターの礎を築いたタレガによってギター曲として広まった。
サルスエラ「ルイス・アロンソの結婚式」から間奏曲(ヒメネス)
 ギタリスト山下和仁の見事な編曲によってめくるめく妙技が披露される。
アンコール カヴァティーナ(スタンリー・マイヤーズ)
「私の大好きな小品を演奏します。がらっと雰囲気を変えて」とアギーレが弾いたのがこの曲。心休まる寛げる静かな曲。
アンコール 「アランブラ宮殿の思い出」(タレガ) 

🎵「ギターの場合、たとえば「はかない人生」で民族主義と印象主義との融合と解説があっても即座にそれを聴き分けられなかったり、小曲が並んだ場合、超有名な曲しか印象にのこらず、あとは並列的に聴こえたりなのだが、これも回を重ねるうちには、じわじわと心に落ち込んでくるものかと」と前回書いているが、今回は一曲一曲が独立して立ち上がり心に落ちた。それにしても、間合いの絶妙さ、これは完全に曲を掌握し奏者の感性が融合を果たし、魂そのものとなったときに、聴く者の魂に届いてくるものと思われる。

🎧名曲アルバム。「花かげ」大村主計・作詞/豊田義一・作曲/上柴はじめ・編曲
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大村主計の生家

   ☆  ☆  ☆

528()
この日は音楽無し。新日本紀行もあったが、記録ではどうもニュースからの視聴であったようだ。
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  ☆  ☆  ☆

527()クラシック倶楽部を聴く クァルテット・エクセルシオ ベートーベンを奏でる

1994年結成。常設の弦楽四重奏団として演奏活動を全国で展開。「学生や地域のためのアウトリーチ」「現代曲の紹介」「定期演奏会の開催」の3つを活動の中心に据える。【演奏】クァルテット・エクセルシオ 西野ゆか(第1バイオリン)北見春菜(第2バイオリン)吉田有紀子(ビオラ)大友肇(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 ラズモフスキー第1番 2.弦楽四重奏曲 作品130から (以上、ベートーベン)【収録】2021年1月15日めぐろパーシモン 大ホール
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クァルテット・エクセルシオ
第一バイオリン 西野ゆか
第二バイオリン 北見春菜
ビオラ   吉田有紀子
チェロ   大友 肇

1994年桐朋学園在学中に結成。国内外の数々のコンクールで受賞。日本では数少ない常設の四重奏団として四半世紀を超えて第一線で活躍し続けている。

コメント
西野ゆか
:弦楽四重奏、最初の頃は、こうやって練習してきたものを温めたものをコンサートでみんなに聞いてもらうという意識が強かったと思うんですけど、これだけ何度も弾いてまた今後も弾くチャンスがあることが、自分たちの中にあって、あのときはこんな考えでこんなふうに演奏してきたけど、今はまた違ったり、未来もまた新しいアイデアが生まれると思うし、また違った意味での楽しみが今はできていると思います。
吉田有紀子:もうとにかく作品がすばらしいというところが第一にありますし、ハーモニーの美しさというのが神がかったような感じがあるので、もう特別な存在ですね。
大友 肇:ベートーベンって、たしかにメロディーとかメロディーラインあるんですけれども、役割がメロディーと伴奏というそういう分け方じゃない。ほんとうにもう4人が音楽の主導を持っている。そういう存在が絡み合って何かもう一つの世界を作るという、そういうところが最大の魅力じゃないかなと思います。
北見春菜:「ラズモフスキー」第一番は、初期の作品6曲と比べて、壮大なスケールというか演奏時間も長いですし、技術的にもけっこう演奏するのが難しい作品ではあるんですけれども、特に2楽章とかもすごくリズミックですし、強弱のコントラストもすごくあったり、たぶん聴いていても面白いと思うんですけど、視覚的に見ていてもすごく面白いのでがないかなと思います。4楽章は4楽章ですごく明るくて軽快な雰囲気なんですけれども、今けっこう世の中は暗いニュースが多いんですけれども、この曲を聴いていただいたらみなさんハッピーな気持ちになっていただけるんじゃないかなと思います。

曲目
弦楽四重奏曲 作品59「ラズモフスキー」第一番 ベートーベン
 ベートーベンはウィーン駐在ロシア大使ラズモフスキー伯爵の依頼を受けて3曲の弦楽四重奏曲を作曲した。ベートーベン中期の代表作に数えられ、初期の弦楽四重奏曲とは一線を画する独創性と豊かな楽想を持つ。
弦楽四重奏曲 作品130から 第5楽章      ベートーベン
 1825年に出版されたベートーベン後期の弦楽四重奏曲。全体は6つの楽章からなる。美しい旋律を持つ第5楽章「カヴァティーナ」は、作曲者自身もその出来栄えに満足したといわれる。

🎵今回の曲は暗闇を超えて光にといった根底の苦悩から発しているのではないなと。ラズモフスキー、2楽章で何かドラマがはじまりそうな気配も感じさせるけれどもそこには平明な幸せな気分も感じられる。3楽章は穏やかな空気に穏やかな会話が美しく流れ時としてさざめくような哄笑が聴こえる。このような曲調というのは自らが安定、充実しているときに浮かぶものなのかもしれない。「作品130 第5楽章」、夢うつつに心地よく流れているような。コメントで吉田さんが「神がかったような」と仰っていたが、質問内容を見落としたのだけれども、この第5楽章について仰ったものかと。

🎧名曲アルバム 「フルートとハープのための協奏曲」モーツァルト作曲
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(フルート)吉岡アカリ,(ハープ)田島緑,沼尻竜典&東京フィル
⛳何とか一気更新のきょうははや5月31日。結局5月も聴き通すは聞き通した。忙しかった5月。あすはもう6月。6時56分更新


 

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きょうのことば 『主は私の力』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年522()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「主は私の力」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 使徒の働き1章3~11
3イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現われ、神の国のことを語られた。 4使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。:5ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

6そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」7イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 9こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。 10イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。 11そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 

《メッセージ》
 きょうは 「主は私の力」。「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」(文語訳)という使徒の働き1章8節のおことばを中心に恵みの時をともに持たせていただきたく願っております。
 「聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます」(新改訳2017)。この「聖霊があなた方の上に臨む」をどのように理解をしているでしょうか。これは毎年、ペンテコステの時に心に留めております、最初のペンテコステのできごと、あのイエス様のよみがえりに触れながらも尚、ローマの迫害を怖れていたお弟子さんたちが、何と人々の前に姿を明確に現わすばかりか、その時、聖霊が臨んでまさしくこの1章8節のおことばの通りになっていったあの場面を思い起こすことは、これは正解であります。

 そして、それとともに、今日私たちがこれをどのように受け留めるべきなのか。敢えて簡単に触れますけれども、聖霊に満たされるということの一つの現象として、異言を語るいうことが聖霊が臨むしるしであるという主張をする方々もいらっしゃいます。それを私たちは知りながら、聖霊が臨むということは即ち異言を語るということであるのかと問われるなら、私たちはそれに対して「いいえ」と首を横に振るものであります。なぜでしょう。それは、「聖霊が私たちに臨む」という本当の意味は、聖霊が私たちの心の中に主権をお取りくださる。聖霊様が私たちの心の一番の中心部分に場を締めて下さる、これが、「聖霊が臨む」ということの生命的な、最も根本的なことです。

 聖霊というお方は、父・御子・聖霊という三位一体の神様であられて、それぞれご人格を持っておられる。こう言いながら、もっと適切な言葉はないのかと思うのですけれども、神様が人格をお持ちだというのです。けれども人格は人を表すことばですから、これ以外にうまいことばがありません。私が私であるという人格を皆さん方が持っておられるように、聖霊というお方が一つの風のような、或いは、そういう一つの現象のようなものであると、つまり人格と切り離して考えてしまうならば、それは聖書がいっている聖霊ではありません。

 人格を持っておられる方が、私たちの上に臨むということは、人格を持っている私が、聖霊なる神様に、「主よ、ありがとうございます。どうか私の心をくまなくご支配ください。あなたにおゆだねいたします」と自らを空けわたすことです。これは強制的でもなく、信頼をしきっているからこそ、「あなたを主とし、お委ねいたします。どうぞ、私の心の真ん中においで下さい」。これが「聖霊があなた方の上に臨むとき」という中心的な意味合いであるということを押さえておくべきだろうと思います。「そのときあなた方は力を受けます」。

 私がこのおことばに導かれた時のことを思いだします。大好きな鞍掛山の道を歩きながらおりますとき、使徒の働きの1章8節、ペンテコステのおことばを思いながら、「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」、どうして「能力(ちから)をうけん」と仰ったのかなあ。クリスチャンらしい品性が与えられる、キリストらしさというものに変えられるというのなら、これは望んでいることがらです。ほんとうに聖霊が臨んでくださるときに、キリストらしさというものが内に満ちてくる。本当にそうありたいなと思いながら。でも神様はそう仰らない。「あなた方は力を受ける」と仰った。


 また例話になりますけれども、私はこの時期、今はよい対処をしているのでそういうことはありませんが、盛岡に来て50年近くになるのです。まだ盛岡の冬も経験していなかったときに、ちょうど今時期、鼻水がたらたらと流れて、くしゃみが出てきてしまう。ひろ子先生と「なんだろうね、まだ冬も経験してないのに今から風邪をひいていたらどうなるんだろうか」と、そんなことを思いながらおりました。しかも開拓第一年目のことですから、これから夏に向かっていろいろな準備をしていかねばならない、7月には神学生たちが応援にきてくれるというようなことも含めて、そんな忙しさの中にありました。ですから、自分の鼻水、くしゃみ、頭痛のことさえも忘れてしまう1年目でした。言えることは、真夏になればすっかり症状が消える。2年目になって同じように同じことが始まったのです。「また風邪ひいちゃったよ」。当時はまだ花粉症ということばが認知されていなかった。3年目も同様です。しかも今度は酷いのです。今年もこの時期倦怠感に襲われました。何があっても日常のご奉仕はこなしていたのですが、今年ばかりは「きょうちょっと疲れているから」と、いつも私がやる仕事をちょっとひろ子先生に代わってもらった。ダメだなこんなことじゃと思っても、力が無いんです。力が無くなるってこういうことなんだろうな。倦怠感。だるさ。そうか、今までうまく薬を使いながら対処していた花粉症が始まって、薬のおかげで意識せずに来たけれども、時期的に今がいちばん酷いところを通っているんだ。原因が分かって、それでさっそく薬で対処したんです。この時は、力が無くなるってこういうことなのだろうなあ、そう思ったとき、ほんとうに私たちには力が必要なんだ。そしていよいよキリストらしくあらせていただきたい。そう思いました。現実の日々の中で、私たちは力が欲しいのです。神様は仰る、「あなた方は力を受けます」。

 今から10年ばかり前に青森教会にそれまで労しておられた大滝先生が引退をされて、中尾先生が青森教会に着任されました。大滝先生とは、雪谷の先輩の先生ですから近しく、大滝先生の引っ越しを、高速を使って3回お手伝いに行ったことがあった、その時に大滝先生が、「先生、私電動自転車を持ってるんです。これ私はもう持っていけないから、先生持ってってくれる?」。私は喜んでもらって来たんです。
 電動機付き自転車、乗ってみるとなかなか快適なものです。忘れられないのは、盛岡の方はよくご存じですけれども、舘坂橋から天昌寺に向かう46号線、ずっと上り坂になっています。電動自転車で買い物をしてスイスイとのぼっておりますと、ちょうど高校生たちの帰る時間だったんですね。若い高校生がハアハアと息を切らしながら坂道をのぼってきます。私はスイ―と。高校生が私をちらっと見ました。こんどは必死になって自転車をこいで私を追い越していきました。その姿を思い起すのですが、内側に力があるということは本当に大きいことです。私たちが日々の生活をしていくときに、この聖霊様が私たちを人格的に整えてくださる。素晴らしいことです。何回でも言います。「あなた方は力を受けます」、これをしっかりと受け留めたいと思うのです。
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 最近私は地球ゴマの例話を繰り返しております。このコマがくるくる回る、それをジャイロ効果というのだそうです。ちょっと調べましたらば、ジャイロ効果とは、「一般的には、物体が自転運動をすると自転が高速なほどその姿勢を乱されにくくなる現象を指す」。
 こども科学館で、子どもたちと一緒に楽しんだことがあります。今でもあるのかどうか。自転車の一輪、それが置いてありました。手で車輪をぐんぐん回して、車軸になっている部分をそこから離す。車輪がぐんぐん回っている限り、車輪がかしぐことはありません。車輪がぐるぐる回り続けているときに、それを外してかしげようと思ってもうまくいかない。それがこのジャイロ効果。姿勢を一つにぴたりと保とうとする力が働いて、速ければ速いほどそれがある。このことを知りました。

「主が私の力」。ここに持ち出した地球ゴマは小さな小さなものです。地球ゴマを回転していくとき、くるくる回っているときに、なるほどこれがジャイロ効果なんだなと体験できる。
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 私はそこに、このようにイエス様の十字架という事実、このくるくる回るこの部分、いちばん中心のところに、十字架と復活という事実、ヨハネの福音書3章16節、これがキリスト教の真中心、ここにある。これをこの上のネジと下のネジ、このネジでくっとこう支えている。これを私は信仰と申し上げたいのです。
 この私たちキリスト教信仰、クリスチャン信仰の確かさというものは何かというと、十字架と復活ということがまぎれもない事実であるからです。もしこのことがフィクションであったのならば、福音というものは一から成り立つものではない。しかし、聖書の預言の通りにキリストが十字架に架かり、聖書のいっている通りにイエス様は復活をされたという、そしてあの臆病であった弟子たちがキリストの証人となるというあのペンテコステのできごとを見ても、この十字架と復活というまぎれもない事実を信仰でしっかりと押さえていくとき、これがくるくるくるくると力強く回るとき、ほんとうに私たちは力を受ける。これは回ってみるとわかります。他の世の中の力が激しくあったとしても、私たちのこれが回り続けているのならば、大丈夫です。

 ここにコリント人への手紙第二4章8節に、
「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず、」(文語訳)
「 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(新改訳2017)

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 ある牧師のブログにありました。
北海道に転任してまもなく、これはもうやっていけないというような問題に直面したそうです。さて、どうしたものか。その方は、父親も牧師。しかしどうも父親には相談したくなかった。やはり牧師である父親の兄である伯父に相談するのです。すると「そりゃ大変だ、どうしようもない」。伯父さんががどうしようもないと言ってる。それでやっとこんどは父親に相談してみます。「そうか、そりゃどうしようもないな。神様がどうしてくださるか、楽しみに待っていたらいいよ」。

「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」。まさに「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」。

 これがしっかりと回り続けているときに、本当の意味の力が与えられます。
地球ゴマ、その接点にちょっと油を注しますと、回転がよりスムーズになり安定してくる。「聖霊が私たちの上に臨むときに」、聖霊はまさしく油を注いでくださって、そして力を与えてくださる。私たちは何もできない小さな者です。だけれども、「聖霊様が力を与えて下さる」というときには、永久運動のように回り続けることができる。これが、「聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん」。倒れそうで倒れない。「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」。

 以前こういう話しを聞いたことがあります。ボクシングでノックダウンされるけれども、ノックアウトされない。たしかリビングバイブルでしょうか。うまい表現があるなあと思いました。ノックダウンされるかもしれないけど、ノックアウトされないよ。

 どうか、聖霊様が私たちの心の真っ中心に座を占めてくださって、このお方に信頼しましょう。このお方が回し続けてくださる。私たちはそれを信仰をもってイエス様の十字架と復活、福音をしっかり受け留めていくときに、大丈夫、
「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(ネヘミヤ8章10節)。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(新改訳2017)
 神様を心一杯喜んで、神様の力を体験する者であらせていただきたいと存じます。

 

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰6時43分更新


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220526 クラシック倶楽部を聴く エルデーディ弦楽四重奏団 演奏会

東京芸術大学出身者によって1989年に結成された弦楽四重奏団。ロンドンでアマデウス弦楽四重奏団のメンバーなどに師事。結成30年の円熟の演奏をご紹介します。 2020年に結成30年を迎えたエルデーディ弦楽四重奏団。円熟のアンサンブルをご紹介します。【出演】エルデーディ弦楽四重奏団 蒲生克郷(バイオリン) 花崎淳生(バイオリン) 桐山建志(ビオラ) 花崎薫(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 作品33(ドホナーニ作曲) 2.弦楽四重奏曲 へ短調 作品95「厳粛」
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コメント
蒲生克郷
(がもうかつさと)30年ちょっと前に最初の演奏会をやったのが初めなんですけれども、小さな喫茶店で演奏会をやらせていただいて、その時にハイドンの作品76の4の「日の出」を演奏してきたんですね。それはエルデーディ伯爵に献呈されたという事がありまして、で、そこからエルデーディ弦楽四重奏団と名前をつけるときにいただいたという形ですね。
花崎淳生(はなざきあつみ):以前ハンガリーの作曲家を集めたえんそうかいのときにドホナーニを取り上げたことがあって、その時をたぶんきょうもドホナーニのカルテットを聴いたことがあるという人はいないような感じなんですけど、でも私たちがそのドホナーニに取組んだ手ごたえというのがおもしろくて充実してて、これはもっと人にも聴いてもらいたいなと言う思いはもっていたので。
桐山建志(きりやまたけし):きょうのお客さんも含めてドホナーニがよかったと言ってくださるお客様はすごく多いので、他の演奏会でも、たとえばよく知られた曲と知られてない曲と並べたときに、初めて聴いたけどその曲がよかったと言ってくださる方というのはすごく多いですね。
花崎薫(はなざきかおる):今までもあまり演奏されない曲に取組んだことが幾つかありまして、前回の時はイベールのカルテットをやってます。それも素晴らしい曲で、あとはイタリアのピテッツィの作品もやったことあるんですけども、それもほんとうにすばらしいんですけども長くて、だからあまり聴いたことがなかったんですよね。そういったなかなか演奏される機会がない少ない曲を取り上げていきたいのもあります。

(ベートーベン作曲)【収録】2020年2月2日 東京・第一生命ホールで収録

「弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 Op.33」ドホナーニ
「弦楽四重奏曲 ヘ短調 Op.95「厳粛」」ベートーヴェン

🎵知らない作曲家の知らない曲を取り上げて演奏してくれる四重奏団。まだ観客の反応も分からない曲を演奏するのには思い切った決断も要るものかと思う。敢えてそれに挑戦する気構えを持ち続けての30年。手掛けてきたそういった系列のそれぞれその時々に対する観客の反応がどうであったかも聴いてみたい気がした。それはこの楽団の財産ともなっているのかなと。
 ドホナーニの「第3番」、はじめの旋律を聴かせられて「誰の曲?」と問われたなら、筆者は「ブラームスでしょう」と答えているかも。それがブラームスの作曲技術に学んで1926年に作曲されている。1926、日本では大正15年、昭和元年というとき。49歳での作曲。ドホナーニを「結局新しいものは何も生み出せなかった」と言う方もいるようだけれども、「おもしろくて、充実していて」と花崎さんが仰る通りであるかと。しめやかさを感じさせるところも。第2楽章をおもしろく聴いた。
wikipedia
によれば、「ドホナーニは自作自演よりも、古典的なレパートリー、とりわけモーツァルトベートーヴェンシューマンを得意としたピアニスト。いくつかの録音は現在CDにも復刻されている。ピアニストとしては、正確無比の演奏技巧と、独自の解釈によって知られ、近年イギリスや日本で復刻が行われている。」
「厳粛」、人生のドラマを吟味しながら石橋をたたいて歩を進めていくという感じが。
 これは2020年の収録だけれども、どちらの曲も、今ウクライナ、北朝鮮、そして昨日報道されたテキサス州の銃乱射事件、この銃乱射も、生徒19人大人2人死亡、あるたびに被害者の、当事者の社会の悲鳴を幾たび耳にしても、銃の規制が成らない。銃を規制されては困る輩がいる。銃がなければ安心できない社会背景。殺伐としている。何れあれこれを思いながら、図らずもこのドホナーニ、聴いていると、今の世相を表出してくれているとも思われたのだが。

🎧名曲アルバム。「ホラ・スタカート」 ディニク、ハイフェッツ・作曲/栗山和樹・編曲
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つり橋をわたる羊たち

【バイオリン】篠崎史紀,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】十束尚宏 ~~ルーマニア・シビウ~~
 底抜けに明るい。ディニクはバイオリニスト。伝統的な舞曲「ホラ」をもとに作曲。
子どもが大人のようにシャツの胸をはだけて杖で羊を操っている映像に思わず、一人前だね~。ルーマニアのトランシルヴァニア地方の昔ながらの暮らし、牧畜に肩の力を抜いたひととき。

⛳毎日のようにウクライナを見ているせいか、けさは湿潤に静まっている窓外の街並みや樹木の、山々のたたずまいを見ながら、建物、樹木が少しずつ千切れ千切れて景観ぜんたいが崩されたジグソーパズルのように宙に散乱するさまが浮かんだ。画才があるなら画布にその様を具現できるであろうにと自らの凡を憂える。
6時43分更新

 

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220525クラシック倶楽部を聴く アマリリス四重奏団 演奏会

ドイツを本拠地に活躍するアマリリス四重奏団。今回は2016年にビオラの赤坂智子が新加入してから初の来日公演。磨きのかかった正統派アンサンブルをお楽しみください。 ドイツを本拠地に活躍するアマリリス四重奏団。今回は2016年にビオラの赤坂智子が新加入してから初の来日公演。磨きのかかった正統派アンサンブルをお楽しみください。【出演】アマリリス四重奏団(弦楽四重奏)【曲目】弦楽四重奏曲(ルトスワフスキ作曲)、弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品11から第2、第3、第4楽章(チャイコフスキー作曲)【収録】2019年9月28日 第一生命ホール
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メンバー
グスタフ・フリーリングハウス(ヴァイオリン)
レナ・サンドゥ(ヴァイオリン)
イヴ智子(ヴィオラ)
イヴ・サンドゥ(チェロ)

 コメント
グスタフ:私たちは一つの公演でさまざまな時代の作品を演奏します。弦楽四重奏の幅広いレパートリーを堪能してほしいのです。今回は特にルトスワフスキが楽しみです。独特な作曲法で非常に興味深い作品です。例えば誰がいつ弾き終わるかわかりません。ふつうは4人の音を「そろえる」ことが大切ですが、この作品では「そろえる」部分と「奏者の自由に任せる」部分があります。ずれてはそろえ、また解き放たれる、そういう感じです。
レナ:多様な作品を同じ公演で演奏することで作品に新たな光を当てられると考えています。チャイコフスキーも現代曲とともに聴くことで印象が変わってきます。私たちもいろいろなタイプの曲を演奏する方が面白いですし、その面白さを聴衆の皆さんとも分かち合いたいのです。
グスタフ:アマリリスは美しい形で開花すると4枚の花弁を持つことが多い花です。まるで4人の個性が美しく開花するようなカルテットにぴったりの名前だと思ったんです。
イヴ:このカルテット、自然と4人の音楽が溶け合うその瞬間が最高なんです。練習と経験の積み重ねの末にたどりつく至福のときです。4人の呼吸が合った瞬間「苦労が報われた」と感じるのです。
赤坂:大人のカルテットというか、自分の意見を言うことは大事なんだけれど、ひとの意見を聴くことも大事。そういう意味で非常に私には勉強になります。このカルテットという形は、それこそオーケストラの曲を4人で弾くんですけど指揮者がいない。みんなで決めてこの人がだいじとか、いまこの人を支えなきゃいけない、今私がリーダーやらなきゃいけないというのも、瞬間的にものすごい短い中で感覚で読みあっていくというか、これは言葉で説明しすぎてもダメになってしまうものなんです。だからそれを感覚で、あんまりしゃべらないようになるべく言葉にしないで進んでいくという。ふだんのほかのカルテットではあんまりないなと思いますね。

曲目
「弦楽四重奏曲」ルトスワフスキ:作曲
ルトスワフスキ20世紀に活躍した作曲家。1965年ラサール弦楽四重奏団によって初演。冒頭は「観客が静まり返るまで繰り返す」という指定のもと第一バイオリンが3つの音をおもむろに弾き始める。各パートが独立し、自由なテンポで弾くことを重要視し、当初ルトスワフスキはパート譜のみ作成した。
「弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品11 から 第2楽章、第3楽章、第4楽章」チャイコフスキー:作曲
☆「弦楽四重奏曲 ハ長調 作品33第3「鳥」 から 第4楽章」ハイドン:作曲

🎵ルトスワフスキの弦楽四重奏曲、これが演奏会がはじまっていることを知らずに聴いたなら、チューニングでもやってるのかなと思ってしまいそう。訳の分からない音がする扉を開けてみたところが、そこは音の実験工房であったという感じ。

 

🎧名曲アルバムはヴィラ・ロボス「ブラジル風バッハ 第5番」。天羽明惠&N
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ヴィラ・ロボスは、1887年、リオ生まれ。1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけ、1912年に再びブラジル奥地に出かけ民謡を採譜。1923年にパリへ留学、自分がブラジル人であるというアイデンティを強く意識、「ブラジル風バッハ 第5番」にそれが聴こえる。音楽教育にも尽力、特に合唱指導に力を入れる。「ブラジルの大地こそが私の音楽の教科書」と語る。

⛳ルトスワフスキ、絵画でいえばキュービズムの実験アトリエにでも入れられた気分がするのは、私のこの旧弊さからだろうか。
けさは快晴だった。暑くなりそうと警戒心が。それが今は爽やかな空気が開け放たれた窓から。気象台の丘をくだる斜面にはマーガレット。ここから見ると一面の緑にこれまた一面に白い真綿でもまぶされたように見える。
9時11分更新

 

 

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220524クラシック倶楽部を聴く タカ―チ弦楽四重奏団

5月24日クラシック倶楽部を聴く
カーチ弦楽四重奏団 演奏会

世界屈指の人気カルテット「タカーチ弦楽四重奏団」が登場!ハイドンとベートーベンの傑作を披露!
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団体の名前は結成当時のバイオリン奏者ガーボル・タカチ・ナジに由来している。1995年にタカチ・ナジが指揮者に転向したほか、幾度かのメンバー交代を経て、2018年には日系アメリカ人のハルミ・ローズが第二バイオリン奏者として加わる。ハンガリー伝統の豊かな弦の音色と緊張感あふれる演奏スタイルは結成当初から変わらず世界屈指の人気と実力を誇る。

コメント
エドワード・ドゥシンベル(第一バイオリン):冒険をいとわないこと。探求心とチャレンジ精神をもってつねに進化しようとすること。それが私たちの本質です。
ハルミ・ローズ(第二バイオリン):作曲家は弦楽四重奏曲を書くとき、家族間の会話を想像すると思います。強くて同等の声のものが集まると、無限の可能性が生まれます。だから私はこの楽団に入りました。対話から生まれる音楽を愛しています。
ジェラルディン・ウォルサー(ビオラ):自画自賛を赦してもらえれば、私たちのサウンドは芳醇です。芳醇でいて明瞭さも兼ね備えていると思います。
アンドラーシュ・フェイェール(チェロ):演奏会に行きたいと思ってもらえればうれしいです。
<ベートーベンの「ラズモフスキー」については、>
エドワード・ドゥシンベル:まずオープニングがすごい。例えばチェロはどんどん低くなって、どん底まで落ちていきます。けれどもそこから現れるのは、明るく陽気なベートーベンです。

ハルミ・ローズ:そこで感じる喜びは表面的でも軽いものでもありません。努力して勝ち取った喜びです。すごく共感できますね。
エドワード・ドゥシンベル:賛成ですね。ベートーベンは深い苦しみを経て中期に至り、勇壮な作品群を書いたのですから。努力して勝ち取った喜びです。
アンドラーシュ・フェイェール:この曲には、ほかのベートーベンの曲にはない不思議なところがあります。輝かしい第一楽章のあと、憂鬱で延々と終わらないような第二楽章が続く。何十年も準備をして、これから何かを始めるのかと思ったら、そうではなく古風なメヌエットが始まって、そのままずるずる引きずられていくのかと思うと、突然ビオラが嵐のようなフーガを始め、激しい掛け合いに突入します。
ジェラルディン・ウォルサー:私は大好きですよ。終楽章まで来て、一気に爆発するのは皆も好きなはずです。

曲目
弦楽四重奏曲ハ長調 作品333「鳥」から第124楽章 ハイドン作曲
弦楽四重奏曲作品59 「ラズモフスキー」3番ハ長調 ベートーベン作曲

🎵カルテットの4人のお人柄に共感し、またラズモフスキー、楽譜を持たないごく一般の音楽愛好家としては、奏者が語ってくれるコメントは大きな助け。ラズモフスキー、危機的で深淵な趣に始まり明朗さ明るさ、気分のいいラズモフスキーを聴いた。 

🎧5月24日の名曲アルバムはベートーベンの「田園交響曲」
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🎵ハイリゲンシュタットの遺書は弟あてに書かれているらしいけれども。
ベートーベンのピアノの弦はふつう3本のところ4本でできている。この天才が天才を維持し発揮できるよう、やはり当時の関係者たちは手を尽くしていたのだろう。
  耳が不自由な方とお付き合いしていたことがある。5年余りの付き合いだった。私とは筆談だった。美しい乙女だった。彼女は二人の方にお付き合いを申し込まれていた。一人は耳の聞こえる健常者の方。もう一人はやはり聾唖の方だった。彼女はやはり同じ聾唖の方の方が理解し合えると聾唖の方との結婚を選ばれたのだった。ベートーベンを聴くとき、この方のことを思い出す。そしてベートーベンの健常者との付き合いから生じる様々な感情を類推するのである。

⛳8時11分更新

 

 

 

 

 

 

 

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クラシック倶楽部を聴く など 一気更新

5月23日(月)クラシック倶楽部を聴く
カルテット・アマービレ

2016年にミュンヘン国際音楽コンクール入賞(3)を果たした注目のアンサンブル、カルテット・アマービレ。恩師、堤剛(チェロ)、磯村和英(ビオラ)が参加した公演を放送。
【出演】カルテット:アマービレ 篠原悠那、北田千尋(以上、バイオリン)中恵菜(ビオラ)笹沼樹(チェロ)ゲスト:堤剛(チェロ)磯村和英(ビオラ)
【収録】2020年1月29日ハクジュホール(渋谷)番組紹介よりー
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カルテット・アマービレは当時桐朋に在学中だった4人によって2015年に結成される。
コメント
篠原:私たちが桐朋学園大学に在籍中に今回のゲストでもある磯村和英先生に指導していただいていたんですけれども、2016年のミュンヘン国際音楽コンクールを是非受けてみませんかと先生が勧めてくださったことがきっかけとなり、それが私たちカルテット・アマービレの演奏活動の始まりです。
中恵:アマービレはイタリア語で優しくとか愛らしくという意味があるんですけれども、最初はなじみきれないというか、そんな思いがあったんですけれども、最近はだんだん板について来たというか、カルテット・アマービレという名前にフィットしてきたんじゃないかなと思っております。
北田:コンクールが終わってから有難いことにたくさん演奏会とかすばらしい音楽家たちと共演させていただける機会をいただき貴重な経験ができて感謝しています。

笹沼:僕たち4人はカルテット以外の活動でソロであったりオーケストラであったりとかまだ全員20代ということもあって色々な活動をしておりますので、それを4人がいちばん気持ちいい形で一つの響きに混ぜ合わせていく、それが聞いている方にも伝わったらいいなというのがポイントです。

☆弦楽四重奏のための緩徐楽章」ウェーベルン:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ
☆「弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 作品18」ブラームス:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ、(ビオラ)磯村和英、(チェロ)堤剛


🎵 ウェーベルンは前衛音楽に強い影響を与えた作曲家なようだ。このウェーベルンの曲は1905年に作曲されたにもかかわらず生前には出版されず、ウェーベルンの死後17年経てやっと研究者によって見出され公開され出版され、1962年になってから初演されたという。最後部分夜空の星に染みとおっていくような音の消失が魅力的。
 ブラームスの六重奏の第2楽章、ここにくるともう有無をいわさぬというところ。これがクララ・シューマンの意見を求めつつ書き上げたと解説があった。第2楽章の極めつけの部分にももしやクララの助言がなどと想像。曲にクララのイメージが溶け込んでくるような気がし、はてクララはどんな作曲をしていたのかと興味が。
 アマービレの恩師の磯村、堤と全員20代のアマービレの演奏。音楽を伝えてくれた方々と、伝えられた方々が同じステージで弦を和するという調べ。積年の想いも籠る超有名な2楽章に落涙。

クララ・シューマンのミニ伝記はこちら。クララ・シューマンのホームページはこちら

🎧名曲アルバム。アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」。編曲・上柴はじめ
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深さと広がりを感じさせ、心の内にある忘れかけた何かを震撼させる。これは編曲の妙というものなのだろうか。
写真は採譜者のジェイン・ロス。そしてアイルランドのために戦った多くの兵士の墓。


   ☆  ☆  ☆

5月21日()この日はクラシック倶楽部もなく、昭和53年の新日本紀行を見ていた。
 この時代、自転車でやってくる紙芝居があった。子供たちに飴を売って、それから紙芝居を読んで聞かせるのだ。その場面が出ていた。今思えば、あれは娯楽が少なかった時代に、子供向けの一つの文化の提供であったなと懐かしく見入った。
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紙芝居のほかに朝市なども映っていた。これは東京世田谷区下の谷の三軒茶屋あたり。盛岡の神子田朝市はいつからあったかしらん。

 

  ☆  ☆  ☆

 

5月20日()クラシッククラブを聴く
堀米ゆず子 児玉桃 ベートーベンを奏でる
ベートーベン不朽のバイオリン・ソナタ「春」と「クロイツェル」。出会いから30年、共演を重ねてきた堀米ゆず子と児玉桃。世界的演奏家による円熟の響きをお届けする。 ベートーベン生誕250年の節目に堀米ゆず子と児玉桃が取り組んだバイオリン・ソナタ。新型コロナウイルス感染拡大のため、半年も演奏活動ができなかった二人が久しぶりに音楽で対話する。ベートーベンについて、お互いについて語ったインタビューもご紹介。【曲目】バイオリン・ソナタ「春」から、バイオリン・ソナタ「クロイツェル」(いずれもベートーベン作曲)【収録】2020年10月16日 武蔵野市民文化会館大ホール
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堀米ゆず子1980年エリザベート王妃国際コンクールバイオリン部門で、日本人として初めて優勝。児玉桃1991年ミュンヘン国際音楽コンクールピアノ部門、最年少で最高位獲得。二人はベルリン・フィルと共演するなど世界の舞台で活躍。バイオリン・ソナタ「春」は二人が最初に取り上げた作品。 

TVインタビュー
新型コロナ感染拡大での影響で、この時点まで半年以上演奏活動ができなかったお二人の5年ぶりの共演
堀米ゆず子:とても楽しみにしてましたので。ベートーベン250年ぎりぎりにベートーベンいっぱいなはずだったのが、結局ぜんぜんそういう動きがなくなってしまいましたので。
児玉桃:時期が長かったので、改めて音楽の力とかベートーベンの力というのは250年関係あってもなくてもすばらしいと思いましたね。
堀米ゆず子:やっぱり力を与えてくれるというか元気に、鼓舞してくれるような音楽。生命力、私がベートーベン弾くときにいちばん感じるのは彼の調性によるファンタジーなんですけど、調性を生きるという言い方をするんですけども、C(ツェー)ドラになった、G(ゲー)ドラになった、Es(エス)ドラになった、こういうふうにして、それと一緒に動いていくとそれが自ずから力になるというか、もちろん計算されているんでしょうけれども、私はそれよりはもっとファンタジーというのかな、そういう即興性みたいな転調の感じがしますね。そういうふうにして弾いていくと新鮮な感じがする。嬉しいし、自分も。クラシック音楽というのはやっぱり調性によって表現されるものが多いと思うんですけども、それ、ハーモニーに和声、だから桃ちゃんと弾いてるとやりやすいのは、やっぱりちゃんとベースを弾いてくださるから、それに乗っかっていけば音楽ができていくというところがありますよね。
児玉桃:私は逆にその表現の仕方がスフォルツァンドでもいろんな表現がやってありますので、それをピアノで想像してイメージして、ペダルとか、一つの音で、ディミヌエンドはできても、こう、音が消えていくので、音の中でクレッシェンドというのは難しいんですよね。それをだからこう想像で、それを和にしようとするのがとても表現の広さにつながりますし、自分なりに解釈しようとして、それを取り出すのにやっぱりゆず子さんのバイオリンとか聴いて実演するようにしてますから。努力してます。いつもうまくはいかないんですけれども、それが理想としてます。すばらしいゆず子さんとベートーベンの音楽を届けることができるというのは何と幸せなことだろうと、きょうまたつくづく思いました。

曲目
バイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24“から 第1楽章、第3楽章、第4楽」
バイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 作品47“クロイツェル

🎵「春」にはベートーベンの小難しそうな表情はどこにも見えない。それに何か安堵して、明るさと満ち足りた気分を共有。「クロイツェル」、なかなか分かってくれない相手に自分の述べるところはこうなんですよと言い分を縷々。結論を急かされているといった響きも。これはあくまで曲から感じられることなのだが。なにか頑張んなくちゃという気分にもさせられる一曲。
面識はなくとも、堀米さんは今どうしてらっしゃるかと気になる存在。

🎧名曲アルバムはメンデルスゾーン「交響曲 イタリア」
若きメンデルスゾーンが旅した、憧れの国「イタリア」。海の都ベネチアの「ドゥカーレ宮殿」「サン・マルコ寺院」に残る、美しく圧倒的な芸術とともにお送りする。
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パリよりも往時の芸術家たちを虜にしたベネチアこそを観るべきなのか。
写真はドゥカーレ宮殿。

⛳カメラを構えて、ここぞ、シャッターを切り、それでもその多くは掲載には絶えない代物。それでもその中から拾い集めていつもは何とか載せているのだが、きょうは本日賦与された分の体力はすでに使い切ったようで、今はただ猛烈に眠い。
以上のように昨日は書いたのだが、目覚めてまた力が充電された今朝24日7時40分再更新

 

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きょうのことば 「私の光・いのちの砦」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年515()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「私の光・いのちの砦」  (國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇27編 1~14節
ダビデによる
1 主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
2私の肉を食らおうと
悪を行う者が私に襲いかかったとき
崩れ落ちたのは
私に逆らう者 私の敵であった。
3たとえ 私に対して陣営が張られても
私の心は恐れない。
たとえ 私に対して戦いが起こっても
それにも私は動じない。
4 一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。

5 それは 主が
苦しみの日に私を隠れ場に隠し
その幕屋のひそかな所に私をかくまい
岩の上に私を上げてくださるからだ。
6 今 私頭は
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ
主に歌い、主に、ほめ歌を歌おう。
7 聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。
私をあわれみ 私に答えてください。
8 あなたに代わって 私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。
主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。
9 どうか 御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを
怒って 押しのけないでください。
あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神よ。
10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは 

主が私を取り上げてくださいます。
11 主よ あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから
私を平らな道に導いてください。
12 私を敵の意のままにさせないでください。
偽りの証人どもが私に向かい立ち
暴言を吐いているのです。
13 もしも 私が
生ける者の地で主のいつくしみを見ると
信じていなかったなら—。
14 待ち望め 主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め 主を。

 

《メッセージ》
今日は「私の光・いのちの砦」という説教題で恵みをともにさせていただきたく願っております。

いつものように前回のことを画面を見ながら思いだしていただければ幸いです。
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 光、ほんとうの闇がどんなものであったか。交わりこそいのちそのものなのだということ。そして、この光の中におられる神様と、畏れ多いことに私たちの心が一つとなって、神様との交わりの豊かさがある。これを心に留めたことでございます。
 そして、この何回かに亘りまして、地球ゴマを例話に使わせていただきました。
ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
 この聖書の中の聖書と呼ばれているヨハネ316、これがきちっと回る。信仰によってピタッとそれが定まっている。それは聖なる永久運動である。
 そしてこの地球ゴマというのが、どういうものであるのか。
 あまりに私が地球ゴマの例話を多く使いましたものですから、子どもが地球ゴマを送ってくれました。
 今、止まっています。さっき、ぐるぐると回しましたところ、そのままピタッと止まったように回転し、それがまったくぶれることなく回転を続け、そのままずっと止まったように回転しています。それはまた後でご紹介できるだろうと思います。

 

さて、きょうの本題の方に入っていきます。

「私の光・いのちの砦」。聖書の中で神様が自分にとってこのようなお方であるということは、ある意味すんなりと受け留められる。皆さんはそれに違和感はお持ちにならないだろうと思います。違和感がないだろうということを思いながら、ふと、信仰を持った当時のことを思い起しました。
 何回も証しをさせていただくんですけれども、私は聖書の背景のないところから信仰に導かれました。雪が谷大塚駅近くにあるインマヌエルの雪谷伝道所に導かれて、祈祷会、そして日曜日には丸の内における礼拝、それが終わると夜は雪谷の伝導会に集い、そこで乾ききった砂が水を吸い込むよう、ああ、そうか、聖書ってそうなんだ、人間ってこういうことなんだ、救いってこういうことなんだと、恵みのうちに本当に分かってきた喜びがあったのです。それで私、雪谷伝導所で数か月経った頃だったと思うのですが、その喜びをお伝えしたいと思って、「これから先生が何を話そうと思っているか、だいたい予測がつくようになりました。こういう話しの後はこういうことになるんでしょ。そして神様の恵みというところで話しが締め括られるんですよね」と言いました。自分とすればまったく皮肉でもなんでもなく、これから先生が話そうとすることがだいたい分かるようになり嬉しいですと言うつもりで言ったんですが、先生の「まあ!」という表情に、そうか、取りようによっては毎度変わらない話しなので、もうその次は分かるようになったと言っているようでもあるな。そんなつもりではなかったのですが、喜びのあまりにそう言ってしまったのでした。もう何十年も経ってからその「まあ!」と先生が仰った場面が思い起されるのです。
教会のお話しというのは、変わらない、変わってはいけない。変わらない真理をずっと、どの集会においてものべ続けている。それが分かっているものですから、喜びのあまりだったんですけれども、この次はだいたいこうで、こういって、こういう結論になるのでしょうと。それが、分かるようになったことは大きな恵みでした。
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 私たちの教会は、同じことを同じように語っている。そして同じことを語りながらそれに共鳴するものを私たちは持っている。心の中に持っている音叉。今画面の中には音叉が出ていますけれども、教会の恵みってこれだと思うのです。代表的にヨハネ316というおことばがあります。
 これは有名なジョークなんでしょうけれども。アメリカの教会には多くの教会の政治形態があります。牧師を、インマヌエルのように監督政治ということで、任命されるということもあれば、大衆政治といって、会衆、教会員が、この先生、どうも合わないな、どうもあっちの先生の方が私たちの教会には合いそうだから、こんどあの先生を招聘しようと、教会員の方々がそのように話し合いをして牧師を招聘するという形態もあります。いい悪いの問題ではなく、そういう制度、政治形態には、私たちはあまりなじんでいないのですけれども、そういうことがあるわけです。
 ある教会で、先生、私たちは会員の総意として、先生をこれまでとさせていただいて、違う先生を招聘することに決めました。その理由は、先生が、いつもいつも集会ごとに、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」だけを語っていて私たちはもう飽きました。違う話しを聞きたいんですと先生に申し出たのです。先生は、「わかりました。それでは今度の集会がお別れの集会です」と仰った。会衆は、最後はどんなお話しをしてくださるかと思ったところが先生は依然としてヨハネ3:16をお話しされたという、ジョークといえばジョークなのですけれども。

 しかし、私はそれを思うのです。ヨハネ3:16、福音の真理、神の愛というものを講壇で語り続けるとき、盛岡教会の皆さん方の心の中に、このヨハネ3:16、福音というものが語られたときに、心の中に共鳴するものがあって、そして礼拝ごとに集会ごとに福音が語られるときに、自分の心の中に在る音叉がヒューと共鳴する。
 この聖書の中に、私の光が、いのちの砦がある。ある意味変わらない話しをさせていただきますけれども、これをそうだ、ほんとうにそうだと皆さん方の心の中に持っておられる音叉がウワンウワンと麗しく鳴り響く礼拝であらせていただきたいと心から願っているのです。

 信仰は弱い者が頼る逃げ道だという人がいます。私はこれにまったく同意いたします。私たちの弱さ、私たちが暗闇の真っただ中を歩くときに、本当に主が光であってくださる。何という尊いことでありましょう。私たちはそれを知っています。しかもそれを体験的に知っています。
「主は私のいのちの砦」。その通りです。砦に駆けこんだり逃げることは、弱い者がすることだと言うなら、どうぞそう言ってください。本当に私たちは自分を豊かに囲ってくれるいのちの砦というものが、どんなに尊いものであるのか。この尊さが分かれば分かるほど、弱い者が頼る逃げ道だ、本当にそうです。その中に、私たちは駆け込んでまことの希望の光を、そしていのちの砦に。それをきょうもアーメン、こう受け留めることであります。

 そんな思い巡らしの中に、実は水曜日の「牧師の書斎」のズームでの集いのとき、電源が外れてしまうという最も初歩的なミスをしてしまいました。それで話しを端折ってしまったので十分にお伝えできなかったところが、この詩篇の627節です。

7私の救いと栄光は ただ神にある。
私の力の岩と避けどころは 神のうちにある。
神のうちにある」。

 河があるとしましょう。河原には大小の石も岩もあるのですけれども、その向こうには大きな山のような岩盤がそそり立っている、それを今日の例話の一つとして用いさせていただくのですけれども、私たちがこの岩の中にかくまわれる。私たちの救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避けどころは、この神様の内側にある。しっかりとガードされ、ミサイルを撃ち込まれようが何をしようが絶対に揺るがない。そして、これを思い巡らしましたときに、

詩篇62篇2節
神こそはわが磐(いわ)わがすくひなれ またわが高き櫓(やぐら)にしあれば我いたくは動かされじ
 こうあります。おもしろいのは、「我いたくは動かされじ」と文語訳の法ではこう訳されている。そうか、動かれることがあっていいんだ。だけど、「いたくは動かされじ」。
62篇6節
神こそはわが磐わがすくひなれ 又わがたかき櫓にしあれば我はうごかされじ
 こんどは、「いたくは」ではなく、それが取り除かれて、「我はうごかされじ」。単なる訳の違いと言われればそれまでですけれども、味わい深いですよね。「いたくは動かされじ」。「我はうごかされじ」。
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 このことに心が向きましたのは、この地球ゴマ、回り始めるときには、カタカタカタカタとこう確かにいたくは動かされじ、けっこうおもしろい動きをするのです。しかし安定するとぴたっと止まっていく。
 動かされることはあります。回っていても人の言葉とか、或いは、何かの出来事にぐらっと来る。でもおもしろいことに、あの地球ゴマ、まだ十分に慣れていないもんですから、コマが落ちてしまって、ああ、しまった、せっかく回ったのにと思って落ちたコマを拾い上げましたところが、ちゃんとそのさ中でも回っているんです。そうか、今あったところから落ちてしまって、床の上に落ちてしまってもそれでも回り続ける、おもしろいな。そしてぴたっと止まる。
そして91篇の1、2
1
いと高き方の隠れ場に住む者
その人は 全能者の陰に宿る。
2 私は主に申し上げよう。
「私の避け所 私の砦
私が信頼する私の神」と。

 どうかこれが皆さん方の日々の歩みの中で共感するもの、そうだ、その通りだ。あのような激しい試練に遭ったとしても、はっと気がつくとまだ、わー、まだ回り続けている。
そしてそれを見ました時、私はへブル人への手紙4章10節
文語訳 4:10
既に神の休(やすみ)に入りたる者は、神のその業(わざ)を休み給ひしごとく、己が業を休めり。
 
ぴたっと止まる。「いたくは動かされじ」。動くこともある。だけど、ぴたっとそこに神様の休み、懐の中に入る時、神様がご自身のわざを休まれたように、自分のわざを、ああ頑張らなくちゃ、ああこれしなくちゃ、あれしなくちゃというそれから解放されて、神の中に憩うということは、自分のわざを休むということです。今ふと思い起しました。あの教団の創設者蔦田二雄先生は、中田重治監督の秘書のような働きをしていた時代がありました。その時、中田重治監督が、蔦田先生に向かって「ねえ、蔦田君、もっと憩おうよ」と仰ったんだそうです。何事にも真面目できちきちとやっていかれる蔦田先生のことは想像できますので、真面目な、ほんとうにそれが真面目であればあるほどそれはいいことなんですけれども、しかし、神の懐の中に憩うという大切な要素がある。そのことをふと思わせられました。どうか全能者の懐の中に憩いつつ歩んでいこうではありませんか。

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな

⏰6時18分更新

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クラシック倶楽部を聴く コリヤ・ブラッハー バイオリン・リサイタル

ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを6年間務めた経歴を持つブラッハー。現在、世界各国で独奏者として活躍。ピアノは室内楽でも信頼の厚いオズガー・アイディン。 ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを6年間務めた経歴を持つコリヤ・ブラッハー。現在、世界各国で独奏者として活躍。ピアノは室内楽奏者としても信頼の厚いオズガー・アイディン。【出演】コリヤ・ブラッハー(バイオリン)オズガー・アイディン(ピアノ)
【曲目】
「バイオリン・ソナタ第3番」(ブラームス作曲)
「ヴォカリーズ 作品34第14」(ラフマニノフ作曲)
【収録】2019年6月22日トッパンホール

コリヤ・ブラッハー
 ベルリン生まれ。父は作曲家のボリス・ブラッハー。幼い頃から音楽に触れ、5歳でバイオリンを始める。ベルリンで学んだ後に15歳でニューヨークに渡り、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに師事。1993年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを6年間務めた後、世界各国でソリストとして活躍。バロック音楽から現代曲まで幅広いレパートリーを持つ。
使用楽器は1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」および1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」で、キミコ・パワーズ氏より貸与されたものである。

オズガー・アイディン
コロラド州生まれ。トルコ系アメリカ人ピアニスト。トルコのアンタラ音楽院とロンドン王立音楽院で学び、1997ARDミュンヘン国際ピアノコンクール最高位(1位なし2位)、2001年クリーヴランド国際ピアノ・コンクール入賞など、数々の賞に輝き、国際的なキャリアを築いている。
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ブラッハーのコメント
 1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」は、ピンカス・ズッカーマンが若い頃使っていたのでその名がついています。彼の大ファンだった私には特別な楽器です。ニューヨークに留学していたころに、彼がこの楽器で練習するのを聴いたのでしょう。深みのある甘く温かい響き、素晴らしい楽器です。ガルネリはやや心情的な楽器です。おだやかな音色はブラームスに合います。ガルネリは「心」、ストラディヴァリウスは「知性」の楽器といわれています。ストラディヴァリウスは奏者が覚悟を決めて弾かないと鳴ってくれません。ガルネリの方が自由奔放で奏者に寛容に反応してくれます。ご覧の通り、ストラディヴァリウスはガルネリより幅が広くがっちりしていますね。この楽器は20年以上弾いています。
 1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」は、トリトン将軍の後にギリシャ神話の愛好家が使用しトリトン神にちなみ「トリトン」と名付けました。ガルネリより骨太で存在感のある響き、革命的で力強いベートーベンの音楽に合っています。
 楽器に寄り添う姿勢をいえば、弾き方を要求されます。特にストラディヴァリウスは頑固です。「ストラディヴァリウスは奏者を追従させ、ガルネリは奏者が主導することができるそうです」。それを聞いて大げさだと思いましたが、実際にはその通りでした。一つの楽器を理解するには3~5年かかります。時間をかけて奏者が望む響きを奏でてもらうのです。だから私が長く弾いていた楽器を誰かが弾けばしばらくの間私の音がします。奏者が望む音がするように少しずつ楽器を導くのです。古い楽器を使うのは自分の成長を貴重な機会です。

☆「バイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 作品108」ブラームス:作曲
☆「バイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」から第1、3楽章」ベートーベン:作曲
☆アンコール 「ヴォカリーズ 作品34第14」ラフマニノフ:作曲

 

🎵けさの聴きどころは、2台の名器、ただどんなに録音技術が優れていても、空気感、空気への親和感、ごく繊細な部分は捉えかねるものかとも思うが、しかし、楽しむにそう欠けるところはないと思っている。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 op.108」、これが1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」での演奏。ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ 第9番イ長調 op.47『クロイツェル』」、この番組編成は13楽章。これが1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」での演奏。ブラッハーは2台の名器との相性を探り出し鳴らし続けているわけだ。
 「トリトン」はキミコ・パワーズ氏より貸与されている。「トリトン」とは20年来の付き合い。このキミコ・パワーズ氏に興味がわき、ググってみると、「長野県に生まれ。国際基督教大学卒業後、ブリティッシュ・エアウェイズに入社。客室乗務員として勤めた後、1963年にニューヨークに渡る。夫のジョン・パワーズ氏とともに、日本美術と現代美術のコレクションを始める。特にアメリカン・ポップ・アートにおいては、黎明期の1960年代からパトロン、コレクターとして積極的にかかわり、世界最大級のポップ・アート・コレクションを築く『アーティストたちとの会話 アメリカン・ポップ・アート誕生の熱気』より」とあった。
 それにしてもたとえ貸与であるにしろ、1丁の名器を手にすることも容易ではないところ、コリヤ・ブラッハーは一人で2台も。曲により気分によって使い分けているという、なんという贅沢さ!
 音楽界は音楽世界のみならず、さまざまな人材、或いは産業、業界との連関にあることを実感。
 きょうは、狂おしさが鮮烈な響きにあふれるように描出されていくところにすっかり取り込まれてしまった。説得力ある演奏。

🎧名曲アルバム。ドビュッシー「月の光」。ピアノ岡田奏
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ヴェルレーヌの詩に霊感を受けて書かれたという。

   「月の光」

あなたの心は 並はずれたひとつの風景――
仮面をつけた人々が あでやかに
リュートを奏で ベルガマスクを踊るけれど
おどけた仮装の下には どこか悲しみがただよう。

恋の勝利や 波に乗った人生を
短調の歌で歌いながらも
彼らはみずからの幸福を信じてはいないようだ、
そしてその歌声は 月の光に溶けていく、

木々にとまる鳥たちをも夢見させ
大理石像に囲まれたすらりとした噴水たちをも
恍惚のうちにすすり泣かせる
静かで悲しくて美しい月の光に。

⛳久方ぶりに聴いたという実感が得られた。聴く側にゆとりがないと、聴いても味わいがない一定時間を過ごすというだけのことになる。
いまはもう5時には陽がのぼっているし、朝の光のドラマが周囲の緑に展開されている。1年中で最も美しい。この明るい緑が深い緑に変わる前に、今の景色を心に留めたい。
前のに書き足しで、今はずっとそうだけれども、6時20分更新

 

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4日分一気更新

5月18日(水)クラシック倶楽部を聴く
レオニダス・カヴァコス バイオリン・リサイタル

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1967年アテネ生まれ。17歳でアテネ音楽祭でコンサートデビュー。1985年シベリウス国際コンクール第1位。1988年にはパガニーニ国際コンクール優勝。現代を代表するバイオリニストの一人。ピアノの萩原麻未は2010年ジュネーヴ国際コンクールで優勝。【演奏】レオニダス・カヴァコス(バイオリン)萩原麻未(ピアノ)
【曲目】バイオリンソナタ第1番ト長調作品78(ブラームス)
    バイオリン・ソナタ第3番 第14楽章
    アンコール F.A.E.ソナタから第3楽章スケルツォ
【収録】東京オペラシティコンサートホール(2021年10月20日)

レオニダス・カヴァコスのコメント
ブラームスのソナタについては、ブラームスはジャンルを問わず多作な作曲家の一人です。今回は彼のソナタの夕べです。ほんとうに優れた作品群で、第1番と第3番の対比がとりわけすばらしいです。最後のソナタが大変交響的であるのに対し、非常に交響的な協奏曲の完成直後に作曲された第1番はとても個人的です。第3番はそれほど大きな規模ではありませんが、音楽的多面性を持つという点で、大曲的かつ交響的です。天才ブラームスのバイオリン・ソナタ第1番から第3番に至るまでの変化を知るのはとても興味深いことです。
 バイオリンへの思いについては、文化、言語を問わず世界中で芸術を通してコミュニケーションできることはすばらしいことです。私は音楽の根源的な要素は人生においてもまた根源的な要素だと信じています。できるだけ多くの人たちとこの考えをシェアするのが私の夢です。そうすることによって音楽がなぜ偉大なのか、なぜ繰り返し必要とされるのかが理解されるでしょう。ブラームスのソナタが過去何百万回と演奏されてきたことを思い出してxください。それでも人々はこの種の音楽に渇きや飢えを覚えまた聴きたくなります。もし社会が偉大な交響曲や偉大なオーケストラのようにテーマや意図を持って機能するとしたらどうでしょう。そしてみなが力を尽くしこの意図を支持し一緒に呼吸し同じリズムを共有し同じハーモニーを尊重するとしたら。スコアのなかではまさにそれが起こっているのです。このことを理解し人生に適用すれば、私たちはブラームスやベートーベンの交響曲、ブラームスのソナタのような人生が送れます。

🎵1番はブラームス40歳での作曲。この最中にブラームスが名付け親になったシューマンの息子が亡くなる。その悲しみとクララへの哀悼の思いがこめられているという。2番はブラームスが友人らの死に接するなど、宿命とい人生観が込められているとか。
きょうはF.A.E.ソナタから第3楽章スケルツォが際立って聴こえた。第1、第2の時としてやや重い曲想から解き放たれたこともあると思うけれども。

🎧名曲アルバム。ハイドン「ひばり」。演奏・古楽四重奏団
Dsc01709-2 ハイドンが使ったフォルテピアノ


  ☆  ☆  ☆

5月17日(火)クラシック倶楽部を聴く
松田理奈 バイオリン・リサイタル

ニュルンベルク音楽大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして第一線で活躍。ピアノ三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。 3歳からバイオリンを始める。桐朋学園で学んだ後ドイツのニュルンベルク音楽大学に留学、大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして国内外の有名オーケストラと共演。ピアノの三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。【演奏】松田理奈(バイオリン)三舩優子(ピアノ)【曲目】バイオリン・ソナタ第1番(ブラームス)ほか【収録】2021年6月10日ハクジュホール(東京)

松田理奈はニュルンベルク音楽大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして第一線で活躍。ピアの三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。 3歳からバイオリンを始める。桐朋学園で学んだ後ドイツのニュルンベルク音楽大学に留学、大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして国内外の有名オーケストラと共演。ピアノの三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。【演奏】松田理奈(バイオリン)三舩優子(ピアノ)
【曲目】
バイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78(ブラームス)
バイオリン・ソナタ第3番二短調作品108(ブラームス)

【収録】2021年6月10日ハクジュホール(東京)番組紹介よりー
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コメント
松田理奈:
今まで小品だったりとかいろんな曲を演奏させていただいてきたんですけども、その他の作品というのも初めてなんですけれども、三舩さんのピアノの音自体というのが、ほんとうに意思がはっきりしてらっしゃる。こういうふうにフレージングを考えてらっしゃるんだ、こういうふうに感じてらっしゃるんだという、完全に新しい刺激というものがたくさんありまして、違う角度からの融合というみたいなのが一つ大きな楽しみなのかなと思って弾いています。
三舩優子:
理奈さんは、以前共演させていただいたときに、すごくパッションもあって、もちろん若々しい瑞々しさもあって、ぜひご一緒できららいいなあというふうに思っていたので、ブラームスはかなり重たいというか深い作品ですけれども、ですからこそいろんな解釈や見ているもの感じているものを越えて二人の融合が一つうまく出来上がったらいいなと楽しみにしています。
松田理奈:
3番に関しては、かなり冷静にいられていない、でも冷静でいなきゃいけないというふうな、何か自分を抑えようとしている努力がたくさん詰まっているような感じがして、だからこそ2楽章の美しい温かいメロディーがほんとうにありがとうの気持ちで感謝みたいなのが存分に込められて
三舩優子:ピアノも端から端まで使い切るので体力も気力もとても必要という、ほんとうにチャレンジということばがぴったりの作品だなあと思いますが、感情的には抑制された情熱とか抑制されたノルタルジーとかセンチメンタリズムみたいなものを弾こうというよりは音色の種類をたくさん抱えていないと表現がとても難しい作品だと思います。

🎵1番が完成する前にシューマンの息子フェリックスが亡くなったというけれども、クララが亡き子を呼ばわる悲しみの声も聞こえる。2番たしかに抑制を思わせる旋律があってこそ第2楽章が一層熱く切々と内を貫く。

 🎧名曲アルバム。「月の砂漠」
加藤まさを・作詞佐々木すぐる・作曲有賀啓雄・編曲
歌:藤井フミヤ
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作詞者の加藤まさをが愛した御宿町の美しい景色とともに。
ポップ調の歌唱だけれども透明感と叙情があり心惹かれた。

  ☆  ☆  ☆

 

5月16日(月)クラシック倶楽部を聴く 
アラベラ・美歩・シュタインバッハー バイオリンは歌う

「音楽の役割はエネルギーや安心感 強さを与えてくれること」国際派バイオリニスト、アラベラ・美歩・シュタインバッハーが名曲をバイオリンで歌うピアノ島田彩乃 アラベラ・美歩・シュタインバッハーはドイツ人の父と日本人の母の間にミュンヘンで生まれた。世界の主要オーケストラと共演するほか、ソロや室内楽の分野でも活躍している。【ピアノ】島田彩乃【曲目】ロマンチックな小品から 第1曲(ドボルザーク)、バイオリン・ソナタ(ドビュッシー)、フラトレス(ペルト)バイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100(ブラームス)【収録】2021年6月7日 王子ホール
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アラベラ・美歩・シュタインバッハーのコメント
 新型コロナウィルスの影響を受けて1年以上になります。それでも日本ではコンサートが開かれていて来る前からワクワクしていました。ドイツではほとんど中止になったので、この1年はどうなるかわからなかったので、ショックを受け、怖かったです。私も気分が落ち込みました。この時期を乗り切るうえで娘の存在が救いでした。娘と一緒に過ごす時間が増え感謝しています。生後1年間はとても重要な時期ですから。個人的には小さな娘のおかげで新型コロナウィルスに対処できたと思います。
きょう演奏するドビュッシーのソナタは他とは全く違う作品です。弓が弦に触れるか触れないかで弾く奏法も出てきます。カラフルで自由に様々に奏法を試みることができます。このソナタはドビュッシーの中でも特に即興的で、弾くたびに変化します。ピアノへの呼応の仕方によって変化し、バイオリンが何かを与えるとピアノから別な何かが生まれるのです。まるで即興のようです。
ブラームスのソナタはそれぞれ異なった性格がありますが、3曲のうち第2番が最もロマンチックです。ブラームスは自分と同じ場所にいる感じで、ドイツ的とは言いたくありませんが、ある種の重厚さとリアリティがあります。ブラームスはドイツ音楽そのもので、私は半分は日本人、半分はドイツ人なのでとても親しみを感じます。
 今のような誰もが恐怖におびえ、苦しみ先が見えないときこそ文化や音楽が重要になると思います。音楽は免疫力を高め、私たちを病気から守ってくれると思います。これが音楽の役割で、エネルギーや安心感、強さを与えてくれるのです。

🎵毅然としダイナミックな身の振り、アラベラ・美歩の演奏。コメントを参考にしながら聴き、ブラームスがより身近に。
今回はペルトを集中的に聴いてみる。可視不能な得体のしれない、名状しがたい不安が近づいてくるような、純度の高まりのうちにも、人の底にある恐怖感が聴こえるような。まったくの独りよがりの感想だけれども。そちこちの情報をたぐってみると、あとでもういちど聴いてみる必要はありそう。「フラトレス」、wikipediaによれば、というより番組解説にもあったが、「1977年エストニアの古楽団体ホルトゥス・ムジクスからの委嘱によって作曲された作品で、「ティンティナブリ様式」による書法で生み出された、ペルトの作品の中で最も演奏頻度が高く且つ有名な作品である。なおタイトルの「フラトレス」は「親族、兄弟、同士」といった意味を指す。後にペルト自身によりいくつかの異なる楽器のために編曲されている。独奏ヴァイオリンと弦楽合奏の版や、ヴァイオリニストギドン・クレーメルのために編曲されたヴァイオリンとピアノのための版が現在多く演奏されている」という。また「ティンティナブリ(小さな鐘)様式とは、ペルトが確立した、単純な三和音をまるで一つの鐘のように鳴らす音楽の手法です。 彼が宗教的な概念を音楽に見出し、様々な作曲技法を研究したことによって到達した、極めて純度の高い独自の調性感を生み出す手法であるとも言える」とあった。

🎧名曲アルバムはヴィラ・ローボス作曲「ブラジル風バッハ第5番」
ソプラノ天羽明惠・チェロ合奏N
ブラジル、リオデジャネイロのようすとともに。
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  ☆  ☆  ☆

5月14日(土)
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 この日はクラシック倶楽部なし。
 たしかこれは昭和53年の新日本紀行。この方は白系ロシア人。かつてはロシアから中国ハルビンに、そして日本へと。無国籍だった。無国籍と言えば藤子ヘミングもそうだった。この方がどういう方であるのか、あれこれや忙しくしていて聴き落したけれども、ただこの方が白系ロシア人と聴いて、戦前のハルビン交響楽団が思い出された。ほとんどが白系ロシア人で成っており、朝比奈隆が指揮を務めた時期がある。敗戦の時、取り組んでいた曲は奇しくもベートーベンの「運命」。来日もしており、日本に初めて来日した外国のオーケストラだった。ひとりの白系ロシア人の方を目にし、こんなことを思い出した。

⛳土曜日からの空白を埋めてみた。毎朝決まった時間に起きて、とにかく聴くだけでも聞いておく。


話しは一転、
 ウクライナ、ずたずたに黒く崩れ落ちた町にライラックが美しく咲いていた。ライラックはライラックとして咲いていた。翠は緑として目に沁みるあおさ。そのみどりには戦争の陰は映り込んではいない。
それなのになぜ人はまるでスズメでも撃ち落とすように人を撃てるのか。故国の同胞のもとに帰れば、裁きを免れられるなら、おそらくは善良な市民の一人として暮らすのだ。勇者として崇めたてまつられるかもしれないのだ。

4日分を21時47分更新

 

 

 

 

 


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きょうのことば『独楽運動と信仰』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年58()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「独楽(こま)運動と信仰」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネへの手紙 第一11~10
1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。 2――このいのちが現われました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―― 3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

5私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。8もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 10もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

《メッセージ》
今回は「独楽運動と信仰」というテーマでお話しをさせていただきたいと思っております。

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 前回お話しさせていただいたように、クリスチャンとしての信仰生活が、この地球ゴマのそれと考えれば考えるほどピタリと真理を教えているなあと気付いてから、地球ゴマ、或いは独楽の運動に思いを巡らしております。
個人的に、では私の地球ゴマが回り始めたのはいつだったのか、それは間違いなく1968年の1116日、イエス様を信じますと挙手をし、祈りをしたあの御茶の水キリスト教会館での時です。あの時がいわば私にとって地球ゴマが回り始めた時だと思います。回り始めた時はきっと回転数は弱く少ないものに違いないのです。けれどもキリスト教会館で、そして雪ケ谷伝道所で、それから丸の内教会でも導きと養いとお交わりをいただきました。今日に至るまでのことを考えます。謙遜でも何でもなく弱い器、足りない器であります。けれども、ここまで走り続けることができた、ただ一つ秘訣があるとすれば、回り続けていたというこの一事に尽きるように思います。

 独楽は回転が止まると倒れてしまいます。しかし、弱くあっても、いや、そうだからこそ、きっと神様は弱い者を一層励ますように交わり、さまざまな恵みを与えてくださる。回り続けているからこそです。
私に深い理科的知識はありませんが、こうしてみると回転というのは意味のあることだなあと思います。地球が自転して、そしてこの何もない宇宙の中にぴちっと地球が保ち続けられている。公転というのもそうだろうし、太陽系も、そう、みんな太陽を中心に回っている。また銀河系も回っている。
 点数のつかないところでこういうこと考えるのが好きなんです。点数がつくとぜんぜんダメなんですけれども。いったいどうなってるのかと思うと俄然興味が湧いてくる。すると回転、みんな回転してますね。じゃ極小のところを考えてみますと、原子とか或いは素粒子とかいうものも回転しているに違いない。回転というのは何かすごく大きな意味のあることだと思わせられます。そんな中で、神様、そして私たちが信仰を持って回転するということは、私たちが思う以上に大きな意味のあることなのではないか、このように思ったことであります。


 先週の簡単な復習のようになりますが。

 神様は私たちと感動を共にしたく願っておられる。その神様ご自身が、この創造者なるお方が、「光あれ」。最初に神様は光を創造され、そして「神これを善(よし)と観()たまへり」、新改訳2017のほうには「神はそれを良しと見られた」とございます。神様がこれを「善()い」、「良し」と思われた感覚、それをもっと深く思い巡らすと、これは三位一体の神様ご自身の「良かったね」、「うんそうだね」というような三位一体の神の交わりというものがそこにあって、良かったという感動の共有であり、神様は感動を共有したく願っておられる。これが創世記の第一章ではないのか。それほどまでにこの交わりというもの、良かったね、いいですねという感動を共有したいと願われているときに、神様はご自身に似せて作られた私たちとのこの交わりを、神様が切望しておられる。こう断言してはばからないと思うのです。神様は何にもまさって私たちとの交わりを切望しておられる。

 そんな角度から、きょうテキストにさせていただいたこの第一ヨハネ1章を見てみました。

7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 私なりに、神が光の中におられる、光の中におられる、神はじめに「光あれ」と仰せられた。光というものは何なのだろうかと真剣に考えました。やはり「光」というものを把握して、そして神様の光の中の交わりに自分も恵まれたいし、主にある兄弟姉妹方と共有したいと思うときに、私自身が光というものをどういうように把握したら理解できたと言えるのか。
 ストレートに「光」ということはこうですとうまく説明ができないのならば、反対である「闇」というものから「光」を浮き上がらせることはできないだろうか。このようにしばし思いを巡らしました。
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 そして、このチャートにあることがらを共有していただければ、今日のメッセージとしてお伝えできるという気がいたしました。
光、その反対である闇というものはどういうものなのだろうか。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であります。このマタイ27章の46節のおことば。十字架の場面です。イエス様が十字架にお架かりになりました。そして昼の「十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」とあります。私はこれをおそらく字義どおりに読んでいいと思います。「全地が闇におおわれた」というのは、そのまま素直に受け取っていい。それ以上深読みすることはかえってよくないのかもしれません。
 今日のメッセージの思い巡らしの中で、この「全地が闇におおわれった」というのは、意味のあることだと思うのです。つまり、それまで御子イエス様は三位一体の父・子・御霊のうるわしい光の中にあられた。それが、初めて父なる神様の交わりを絶たれる。この交わりを絶たれたということが暗闇なのです。おそらくイエス様が初めて神様との親しい交わりを絶たれたお方です。まさに地獄の底からの真っ暗な中からの「「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というこれが闇である。交わりが絶たれること。御子として豊かな愛と命の交わりの中にあったイエス様が、私たちの罪を救ってくださるために、つまり闇の中に生きていた罪びとである私のために本来ならば私自身の闇を、イエス様が自ら背負って、私たちの身代わりに罰を受けてくださった。これがイエス様のご使命でした。
きょうたまたま詩篇の40篇に「わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」とございました。ちょうど今日順番で40篇を読んだところです。ああ、これだよなあと思いました。「みこころを行うことを喜びとします」。父なる神様、あなたがひとり子をお与えになるほどに世を愛してくださるそのあなたのご愛を知っています。そのためには罪のないものが、あなたのみこころを成し遂げるために身代わりとなる神の子羊となることを願っておられる。「喜んでさせていただきます」と御子なるイエス様が私たちのために降って来てくださった。そして闇というものをまさに経験なさった。私たちはこうして考えてみると、罪ということのもたらす結果が、ややもすれば頭の中だけの問題としてある。自分自身がそういうプロセスを通っていたということを思うのですけれども。このイエス様の「「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というお心を、そのおことばを発せざるをえないほどの罪というものを私が持っている。この罪というものを本当に解決していただけるのは御子イエス様の血以外にない。神様が備えてくださった御子イエス様の尊い血潮以外、この闇を光に変えてくださるものは何もない。そしてそれは、信仰によってのみいただくことができる。

そして「7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。これが文語訳ですと、
7
もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む。
ここに、「我ら互に交際(まじわり)を得」とあります。これはやはり、神様と私たちとの交わりです。それと、我らというのは、三位一体の神様の交わりが大前提になっているわけで、、「我ら互に交際(まじわり)を得」ということは、この三つにて一つにおられるあの光の中におられる交わりと「我ら互に交際(まじわり)を得」ということであります。神様とその三つにいて一つなる神様の聖なるお交わりの中にかたじけなくも、私が交わりをいただく、これはものすごいことじゃありませんか。
 光の中に現れる交わりの中に、かつては罪の中に在ったものたちが、「主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を」(詩篇40篇3節)と変えられる。新しき詩を、この詩を歌う。神様へのほめ詩を心の底から歌う交わりの中にいれられる。
こうしてみると、イエス様は「わたしが世を去るのはあなた方には益です」と最後の晩餐でお別れのメッセージをなさいました。そして「わたしが去ったならば、あなた方にはほかの助け主が与えられる」と言われた。そのもうひとりのアナザー・ヒムセルフ、もうひとりの主ご自身が、私たちの心の中に入ってくださる。このお方との交わり、「我ら互いに交わりを得、その子イエスの血すべての罪より我らをきよむ」。この交わりの中に私たち入れられているのです。かたじけなくも。
これはヨハネ316節が回転するところを見てもらいたいという意味でいうのではないのですけれども、これは前回させていただいたところのものです。私本当にこの地球ゴマというのは信仰の何か大切な部分を教えてくれるいいオブジェクトレッスンだと思うのです。信仰でしっかりとこれを受け止め、ヨハネ3:16が、そして私は思うのです。私はここにたまたまヨハネ3:16が一般的に分かりやすく受け入れられるおことばだと思うのです。でも考えてみるとこのヨハネ3:16だけではなく、「我はエホバにして汝らを癒すものなればなり」という聖書のおことば、それがこの回転盤の中にぐーっと回り続けるとき、そうか、我はエホバにして、そうか契約を守るお方、「汝らを癒す者なればなり」「我を呼べ、さらば我汝らに応えん。しかして汝の知らざる思わざるところ」エレミやのことばでしたか、「汝に示さん」というように、この回転盤のところに、今必要な私のことばを入れ替えてといったらいいのか、聖書の言葉をそこに持ってきて、「主よ」と回る時、そのことばが生きてくる。そこにそして私はここに聖なる永久運動と前回書かせていただきました。つまずきやすい、ほんとうに誰よりも自分自身の弱さ足りなさを知っている私たち、だからこそ、交わりを求めておられるお方は、さあ、そこに御子イエス様の十字架の贖いの血潮をちょうど、回転が鈍って来る時に、回転する油を注すでしょう。するとまた動きがよくなってくるように。さまざまな世の中で生活をしていく中に、或いは回転ゴマと称しております私たちのこのあり方、存在をポーンと蹴飛ばされてしまうような試練だってあるわけです。その時にふと思うんです。地球ゴマのフレームのような、このフレームがポーンと蹴られてしまってすこしゆがむということがあります。かなり強烈な試練、激しい試練に遭ったときに、ゆがんだときに聖霊さまはちゃんとフレームを直してくださるし、そして油を注して、だってそうしないと私たちはやっぱり弱い者ですから、そのままにしておいたら私たちは回転が止まってしまう。弱くなってしまう。倒れてしまう。そのことを誰よりもよくご存じのお方は、「聖霊汝らの上に臨まれるとき汝ら力を受けん。しかしてユダヤ、エルサレム、および地の果てにまで我が証人とならん」という使徒行伝1章8節のおことばがありますけれども、その、聖霊様が私たちに聖なる永久運動を与えてくださる。どうか、またしても、今日のメッセージは地球ゴマで終わってしまいますがほんとうにこれ思えば思うほど信仰生活のオブジェクトレッスンとして欠かせないものだなあと。これはほんとうに私たちの信仰生活の大切な要素を表していると思います。今日礼拝を共にさせていただいた皆様がたの心の中に、このコマが力強く静かに回転し続けますように、このことを祈りながら今日のメッセージを締めくくらせていただきたいと思います。

 

※データは教会からお借りしています。
文責:中ぶんな
⏰7時28分更新


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220513 クラシック俱楽部を聴く ザルツブルク音楽祭2021 エフゲーニ・キーシン ピアノ・リサイタル

世界的ピアニスト エフゲーニ・キーシンが2021年のザルツブルク音楽祭で亡き恩師に捧げた演奏からお送りする エフゲーニ・キーシン1971年モスクワ生まれ
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【曲目】
ピアノ・ソナタ 作品1(ベルク)
ピアノのための3つの小品 作品5第3「舞曲」(フレンニコフ)
3つの前奏曲(ガーシュウィン)
ノクターン ロ長調 作品62第1
即興曲 第1番 変イ長調 作品29
ポロネーズ 変イ長調「英雄」作品53(ショパン)
アンコール ドデカフォニック・タンゴ(キーシン)
アンコール 「ベルガマスク組曲」から「月の光」(ドビュッシー
)
【演奏エフゲーニ・キーシン(ピアノ)
【収録】2021年8月14日ザルツブルク祝祭大劇場(オーストリア)

🎵キーシンが作曲をしていた! 「ドデカフォニック・タンゴ」、聴いてみると、アルゼンチン、スペインあたりのタンゴとは一味も二味も違っていた。ロシア的、すべてこの一言で済まそうとは思わないけれども、あの暗く長く厳しい冬と暮らしを思わせ、そして野太さもある。最後はほとんどタンゴとは思われない力強いしめくくり。キーシンがどちらかと言えば繊細、優美、流麗さよりも、このような音色に我が意を得るピアニストであることをここでも確認。
始めてステージにキーシンを見てから、もうゆうに10年以上も経っている。そしてこの大舞台。万雷の拍手。スタンディング・オーベーション。演奏家としてのゆるぎない一つの位置に立ったことを思った。

🎧名曲アルバム。「ポカレカレ・アナ」ニュージーランド民謡/篠原敬介・編曲
(合唱)東京混声合唱団,(管弦楽)スコラティクス管弦楽団,(指揮)篠原敬介
採譜者はアビラナ・トゥルバ・ガタ
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「ポカレカレ・アナ」の日本語詞はこちら

⛳10時30分更新

 

 

 

 

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クラシック倶楽部などメモ一挙更新

主婦は大忙しで、滞りに滞った音楽更新。「音楽な日々」がいつの間にかよもやまにかき分けられて端っこの端っこに。これでは何か気分もすっきりしないということで、聴いた分をメモ程度にでも書き置こうと一気に更新をしてみる。

   ☆  ☆  ☆

5月12日()クラシック倶楽部を聴く

ザルツブルク音楽祭2020 アンドラーシュ・シフII 
 
2020年の「ザルツブルク音楽祭」から、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだソロ・コンサートの続編をお送りする。 出演:アンドラーシュ・シフ(ピアノ) 曲目:1905年10月1日(ヤナーチェク作曲)、ピアノ・ソナタ ハ長調 D.840(シューベルト作曲)、4つの即興曲 D.899から第3番 変ト長調(シューベルト作曲)、楽興の時 D.780から第3番 ヘ短調(シューベルト作曲)、「草が茂る小道を通って」から おやすみ(ヤナーチェク作曲) 〈2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉ー番組紹介からー
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🎵今日は特に4つの即興曲第3番が良かった。耳慣れているということもあるけれども、絶品という感じが。ヤナーチェクの独特な味わいもやっと定着。
5月12日()🎧名曲アルバム。「愛の喜び」マルティーニ作曲/フロリアン作詞/挟間美帆・編曲
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 プレスリーの名曲「好きにならずにいられない」の原曲でもある古典歌曲の名作。18世紀末にフランスで生まれた歴史背景を紹介していく。「愛の喜びは一瞬、そして愛の苦しみは永遠に続く」と歌う。マルティーニはオペラ・コミックを次つぎに作曲し有名になったらしい。

  ☆  ☆  ☆

5月11日()クラシック倶楽部を聴く

イゴール・レヴィットのベートーベン
 ザルツブルク音楽祭2020 イゴール・レヴィットのベートーベン生誕250年にピアノ・ソナタ第31番、第32番を注目のピアニスト レヴィットが熱演 ザルツブルク音楽祭2020 イゴール・レヴィットのベートーベン生誕250年を記念して行われた、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会の最終公演【曲目】ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110(ベートーベン)、ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111(ベートーベン)【収録】2020年8月21日 ザルツブルク祝祭大劇場大ホールー番組紹介からー
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 イゴール・レヴィット1987年、ニジニーノヴゴロド生まれ。8歳のときに家族と共にドイツ移住。2009年ハノーファー音楽演劇メディア大学において、理論・演奏の両方で大学史上最高の成績でピアノの学業を修める。これまでにカール=ハインツ・ケマーリング、マッティ・ラエカッリオ、ベルント・ゲーツェ、ラヨス・ロヴァトカイ、ハンス・ライグラフに師事。2005年、テルアヴィヴのアルトゥール・ルービンシュタイン・コンクールに最年少で参加し、銀メダル及び最優秀室内楽演奏賞、観客賞、最優秀現代音楽演奏賞を獲得した。
 居住地のベルリンでは、サドラーズウェルズ・インディペンデント・オペラ管財人団の厚意により与えられた、スタインウェイDグランド・ピアノを使用している。
🎵それにしてもイゴール・レヴィットの確信に満ちた力強い打鍵には狭量な思惑、思索などはみな吹き飛んでしまう。一音一音に次の音はどんなふうに? と次の驚きを期待し待つ心境にさせられるのだ。すったりと凪いだ湖に穏やかに細かに細かに明滅する光、陰影を連想させるところでさえ、一音一音の微妙な音の間合いでも心が次の予感に震える。イゴール・レヴィットの演奏はそびえたつ岩壁。みあげている人がいかにも小さく点となっていくような心境となる。コロナがなければブラボーの嵐は極致に達したはず。
5月11日(水)🎧名曲アルバム。「ホラ・スタカート」 ディニク、ハイフェッツ・作曲/栗山和樹・編曲
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【バイオリン】篠崎史紀,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】十束尚宏 ~~ルーマニア・シビウ~
ルーマニアの昔通りの牧畜風景が身近に。
ホラという民俗舞踊が基に。

 ☆  ☆  ☆

5月10日(火)クラシック倶楽部を聴く
藤田真央の2回目
 スイス・アルプスの山間の街で開催されたヴェルビエ音楽祭2021。特に注目を集めた藤田真央のモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会から抜粋をお送りする。
曲目:ピアノ・ソナタ イ長調「トルコ行進曲付き」K.331、ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.280、ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.533(以上、モーツァルト)収録:2021年7月23日 スイス ヴェルビエ教会 ー番組紹介よりー
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🎵清新さ。爽やかな葛藤や拘泥のない心地よい進捗感。
🎧5月10日(火)名曲アルバム。モーツァルト「フルートとハープのための協奏曲」
吉岡アカリ,(ハープ)田島緑,(指揮)沼尻竜典,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団 ~フランス・パリ
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  ☆  ☆  ☆

5月9日(月) クラシック倶楽部を聴く
藤田真央 第1回目
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藤田真央のコメント
こんにちは! 藤田真央です。2021年のスイスで行われたヴェルビエ音楽祭、私はモーツァルトのピアノ・ソナタ全18曲をすべて演奏してきました。きょうはその中から第3回の模様をお届けいたします。モーツァルトの場合は特に一音一音に細かいアーティキュレーションが書かれているので、それをどう対処するかというのと、あとは強弱をものすごく書かれてないんですよ。ベートーベンのように細かく細かく書いているわけではなくて、当時のフォルテピアノ用に書かれたんですけれども、今のこのピアノでどのように響きを出せるかなというふうに考えた結果、すこし強弱を付け足してここでちょっとポイントを置いて、間をおいて見たりとかは考えて飽きさせないようにしないといけないので。それではどうぞご覧ください。
🎵極端に言えばベートーベンの楽譜は真っ黒。汚れてる。推敲に推敲を重ねているらしい。ところがモーツァルトの楽譜は真っ白。拘泥することなくよどみなく出てくるということか。モーツァルトの天才性。フォルテピアノ用に書かれた強弱を藤田真央が現代ピアノの性質を考慮し藤田真央の解釈で強弱を加味。個人的には、ここがおもしろい聴きどころとなった。ちょっと引きずってこちらの情感をゆらすかと思う瀬戸際で恬淡と快活に転がすところも何とも心地よい。おもしろい。音が駆けるところなどは、モーツアルトが、どうだ、 いいだろう、いいだろう、と言いながら笑い転げているような気すらしてくる。5月9日(月)
5月9日(月)🎧名曲アルバム「花かげ」
「花かげ」大村主計・作詞/豊田義一・作曲/上柴はじめ・編曲
「十五夜お月さま ひとりぼち」。この歌は詩人・大村主計の代表作で、仲良しだった姉が結婚した日の寂しさを歌っている。ふるさと山梨に咲く桜の情景とともにお届けする。ー番組紹介よりー
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主計は童謡を多く手掛けた詩人。「花かげ」は代表作。姉が嫁いでいく寂しさ。
桜の映像が見事。

  ☆  ☆  ☆

5月7日(土)、この日はいつもの時間帯に音楽は無し、ただ新日本紀行で藍染が紹介されていたのが記憶に。
竹内晃子さんの藍染。
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  ☆  ☆  ☆
5月6日()クラシック倶楽部を聴く
荘村 清志 ギター・リサイタル
 
武満徹没後20年となる2016年の命日に開催されたギター・リサイタルタケミツの愛の歌荘村清志のギターとともに小林沙羅が「死んだ男の残したものは」ほかを歌う 【出演】荘村清志(ギター),小林沙羅(ソプラノ)【曲目】「フォリオス」「島へ」「の歌」「小さな空」「エキノクス」「森のなかで」「翼」「死んだ男の残したものは」(武満徹) 【収録】2016年2月20日 東京文化会館小ホールー番組紹介よりー
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 ソプラノで聴く「死んだ男の残したものは」、格別。
🎧5月6日(金)名曲アルバム。ベートーベン「田園」
大友直人&東京フィル
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ハイリゲンシュタットの遺書

   ☆  ☆  ☆
このほかで、この期間に印象深かったのは、辻井伸行&琉球交響楽団による「琉球の風」初演。始めの方は「それでも生きていく」のような温みを感じさせ、そして風が、琉球の風が明るく希望を感じさせてくれた。
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 せっかくの辻井さんの演奏に、北朝鮮の弾道ミサイルの報が。こういう地球、こういう人間世界がまざまざと。



⛳駆け足、駆け足の音楽拾い足。スタスタスタと駆けてはみたけれど、今になって、ああ、クラシック倶楽部じゃないけれど、指揮者なしの第九、思い切ったSNS演奏もあったけ、その後が宝塚だった。塚ガールのベートーベン、ちょっとカッコよすぎたかな~

 

⛳14時3分更新



 

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きょうのことば 「交わりの中に」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年5月1日()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 「交わりの中に」 (國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネへの手紙 第一11~10
1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。 2――このいのちが現われました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―― 3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

5私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。8もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 10もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

《メッセージ》
 この朝は第一ヨハネ、これは比較的、特に私たちの群れでは信仰の大きな恵みのきっかけとなるおことばでありまして、特に
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節もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
 ここに「交わり」ということばが1節からキーワードとなっていることに気がつかれるだろうと思います。今日はこの「交わりの中に」というテーマでメッセージをと思っております。


 その前に簡単に、前回の復習をたどってみます。
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 私たちは復活、イースターをついこの前通ったところでありますが、どうかここに記しております内容を、そうだったなと思い起していただければ感謝です。
 「大いなる逆説」という、死の象徴であるお墓が実はほんとうに大きな大きな逆転の基盤となっているのだということを、心に留めさせていただきました。かつては神様の物差し、律法には到底足りない、神様のおきてには到底適わない者でありましたけれども、それであればあるほど一層、神様の恵みは大きなものとなる。以前の私はほんとうに足りない者でしたけれども、イエス様の十字架を仰いだとき、今の私になりました。そのようにして、前回「大いなる逆説」ということでお話しをさせていただきました。

 

 今日は、この第一ヨハネの1章のところから、「交わりの中に」ということで、メッセージを導かれております。
 私は音楽が好きなものですから、よくFMの音楽番組を聴くことがあります。たしか3月だったでしょうか、「音楽リクエスト特集」がありまして、その日のテーマは「涙が出てくるクラシック」でした。NHK元アナウンサーの工藤三郎さん、オリンピック実況や大リーグの解説にも携わった方ですがクラシック音楽が大好き。特集のときにはずっとパーソナリティをやっています。「涙が出てくるクラシック」のゲストは脳科学者の茂木健一郎さんでした。茂木さんが仰ったんです。「今こうやってクラシックリクエストという番組をやっているんですけれども、どうしてクラシックを好きな人がわざわざリクエストをするんでしょうね。ほんとうにクラシックを聴きたいという人ならば、オーディオに凝っている人もたくさんいらっしゃいますよね」。
 話しが脱線してしまうんですけれども、数年前だったでしょうか、盛岡で元N響の首席ホルン奏者だった宮田先生をお招きしたことがありました。それぐらいの方ですから、音響へのこだわりも並々ならぬものがありました。そのとき、ここにある電子ピアノをご覧になって、「これが伴奏楽器ですか、う~ん」と首を傾げられたんです。けれども優れたピアニストの伴奏で演奏くださった後では、「この電子ピアノ、なかなかいいですよ」と仰ったので、私が、「どれぐらいいいんですか?」と聞きましたら、「お相撲でいうなら前頭筆頭ぐらいまでいくかな」。前頭筆頭ならば、いいだろうというふうに思いました。やはり本当に音楽する人は、それがグランドピアノなどであればだ納得なさるんでしょうけれども。
 音響のことを私よくわからないものですから情報を集めました。今は移転するかでありませんが、大通りにあった楽器、レコードも扱っている電気店におられた方が、音響に凝っており、退職後にスタジオを持たれたという話しを聞きました。探し当てて恐る恐るそこに入っていったんです。なるほど凝るっていうことはこういうことかなあと思いました。家の造りから、スピーカー、アンプ、CDも勿論あるのでしょうけれども、レコードプレヤー。どうしてこのことを思い出したかといいますと、本当に音楽が好きな人だったのならば、その音響に凝っている方ではありませんが、オーディオルームでも造って、そこで納得のいくように楽しめばそれでいいわけです。わざわざFMの放送を聴く必要はないはずなんですけれども、しかし人はこの音楽を誰かと一緒に聴きたい。それはどんな立派な音響設備が整っているところで、ひとりでうーんと恵まれて聴いているということに勝って、自分のその好きな音楽が電波に乗って日本中のこの音楽の好きな人たちと共感するという、この共感することが、人間の本来的な欲求である。感動を共有したい。茂木さんはそのことを言うのです。人間はなぜこういうリクエスト番組というところを好むのか、これは感動を共有したいからなんだ。そのことがずっと心の中に残っていました。

 実はきょうのみ言葉のベースにもなるのですけれども、聖書の始めの創世記、そのいちばん最初の部分に「光、あれ」と神様が仰った。そして、神様は「それを良しと見られた」ということばが幾つか出てまいります。光だけではなく、植物、種のできるもの、それらのものを生えさせ、世界に造られたとき、神様はそれをご覧になって、「良しと見られた」。神様は、海の巨獣と水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。「神はそれを良しと見られた」。

 私はこれを一応何回も何回も読んでいる、ある意味読み慣れている場所なのですけれども、今回、その茂木さんが仰ったことがそのきっかけになった。神様がこれを「良しと見られた」って、いったいどういうことなんだろうか。神様がお造りになる世界が良いものであるのは当たり前のこと。あたりまえのことなんだけれども、神様はそれをご覧になって、良しとされた。ああ、いいなあ。一つ一つ、造られた神様は、ああ、これはいいなあ。と「良しと見られた」。うん? と気が付いたのです。待てよ。神様は聖書でいっている通り三位一体の神様です。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、この三位一体の神様が、神様が世界をお造りになったときに、いいねえ、そう思わないか、いいだろう、と人格をお持ちの三位一体の神様がうーん、いいですねー。これは神様ご自身が感動を共有しておられるというように見ることができるのではないでしょうか。神様は、感動を共有したく願っておられる。そして、その神様は今私たちとの交わりを切望しておられる。

皆さんどうか、ヨハネの第一の手紙ご覧ください。
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私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ち溢れるためです。4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。神様はお救いに導いてくださった私たちと交わりを持ちたいと切に切に願っておられます。

 

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 皆さん方、これを、ある方は懐かしいと思っておられるでしょうし、何これ、とご覧になられる方もあるでしょう。私たちの年代は、懐かしい。子どものころ、特に小学校のころ、地球ゴマという商標で売り出されたものなのだろうと思います。昨日からメッセージを準備していて、これを思いついた時に、この上ない説明の手段をもったとおもいました。
 もしよかったら皆さんに聖書に絵を描いてもらったらいいかなと思うのです。聖書を汚すのは悪いことだ、神様のおことばに絵を勝手に描いちゃいけないという感覚をお持ちの方はそれもよくわかります。しかしまた神様が語り掛けてくださった聖書の言葉に自分でいただいた恵みを書き込んで行く。あるいは赤鉛筆青鉛筆で印をつけていくというように、聖書に自分の、跡をつけていくというのは、そういう読み方をされる方はおられる。

 これは、地球ゴマというコマです。これを地球と見ていただくと、北極と南極に、ちょうど赤道にあたるところに、ぐるぐる回るコマがあるわけです。このところが、けっこう重みがあって、くるくるとコマのように回る。そして北極と南極が、地軸がきちっとぐるぐる回る。ほんとうに不思議ですよね、このコマをそのまま傾いた状態で置くのならば、傾いた状態のまま回り続けるんです。たとえばこれを細い糸の上に置きますと、その上をすーっと動いていったり、とにかく中の回転するのがぐるぐる回るというこのコマの原理で軸が定まる。ちょうど地球が北極と南極を軸にして回っていても、地軸の方向というのは変わらない。それは回っているから変わらない。一定の方向を向いているということになるわけです。それを応用した科学的なおもちゃといったらいいのでしょうか、これが地球ゴマ。昨日からメッセージの準備の中で、これを分かっていただけるかなと思ったのです。

「神は愛です」というこれがちょうど真ん中に地軸に。「神は愛です」。ぴたっと軸がおさまる。そしてこの回るところには、ヨハネ316「神は、実に、そのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。

 この地軸に、「信仰」と赤い字が出ております。おわかりでしょうか。この「神は愛です」という一番中核をなすところを、北極と南極で「信仰」というもので押さえているわけです。そしてコマで遊んだことがある方にはお分かりだと思うのですけれども、あまり強く押しすぎると止まってしまう。緩いと回転しているコマがそこから飛び出して行ってしまう。飛び出しもせず、くるくると回り続ける「信仰」というねじの調整が必要です。これをうまくやって回しますと、ほんとうに不思議なおもしろい現象を見ることができます。これは「聖なる永久運動」であると私は申し上げたい。

「神は愛です」、これがくるくるくるくる、ずっと回り続ける、これは聖霊なる神様が、そうだよ、そうだよ、ほんとうにそうなんだよと私たちに教えてくださる。教えてくださるだけでなく、私たちの回転が衰えてしまいそうなとき、やっぱりいろいろな抵抗がありますから、永久運動というのはできないわけでしょう。だんだんスピードが落ちていくのですけれども、その時に聖霊様がふっと回転を加えるように私たちに力づけを与えてまたくるくると勢いよく回り続ける。すると軸がぴちっとさだまって、ちょっと試練があったり、辛いことがあったりして、よろよろとなりそうなときに、聖霊様が「神は愛なり」、そしてヨハネ316のあのぐるぐる回るところに、一層聖霊様が励ましを与えてこれに回転を与えてくださると、しっかりとこれが立つ。

 このヨハネ第一の1章、まさにこの地球ゴマの原理をここで言っているような気がするのです。私たちがもし心ならずも罪を犯してしまった、誘惑に負けてしまったというときに、ご聖霊様がすぐに力を与えてくださって、「7御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し」、ありがとうございます。「私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。そうです。こういってこの7節を見ると、「7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち」、この交わりというのは父なる神様、イエス様、ご聖霊様がもっておられるような交わりと同じ交わりのことですが、互いにこの交わりをもって、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」。アーメン。

 もし盛岡教会の人たちで、よい意味で聖書を汚したいと思う人がいるならば、この地球ゴマを参考にして、或いは今は地球ゴマと検索すれば出てくるでしょう。自分なりにきれいな地球ゴマを第一ヨハネの1章に書いてもらいたいのです。すると聖書を開くごとにまさか聖書の中に落書き、しかも漫画的なそういう絵を描くなんて考えたこともなかったでしょう。私もこんなことを礼拝に言っていいのかなと悩まないわけではないんですけれども、皆さん、この第一ヨハネ1章のこのところで、地球ゴマを見た時に、ああそうだ、聖霊様がヨハネ316を勢いよく回してくださる。そして信仰のネジが緩んでいるときには、それが飛び出してしまったり、或いはきつすぎると、律法、律法、律法という形でギューッと強く締めすぎると回転がなくなってしまう。しかしそれを程よく聖霊様が調整してくださって、飛び出すこともない、そっとそこに嵌って回り続ける。

 世の中を歩んでいるときに、ご聖霊様が励ましを与えて、そう、だいじょうぶだよ、そうだよ。あるときはおことばをもって祈りをもって止まりそうになるそれを、がーっと回してくださると再び地軸がきちっと定まって回り続ける。第一ヨハネ1章のところに、もし地球ゴマのイラストを描いてある人がいたならば、間違いなくそれは盛岡教会の会員だと言いたい。今日のメッセージ、是非この聖霊なる神様の「神は愛なり」という軸がぶれないで、信仰によってしっかり嵌められて、そこを回るのはヨハネ316、勢いよくこれが回り続ける。それは神様の交わりを表す。そしてそのようにあることを神様は願っておられる。どうかこの地球ゴマを勢いよく生涯回転させ続けようではありませんか。

 

※データは教会からお借りしています。
文責は中ぶんな、ずっと書き落しておりましたが、中ぶんなです。
⏰5時20分更新



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220505 クラシック倶楽部を聴く 無言館・祈りII〜戦後75年 戦没画学生慰霊美術館から

戦没画学生の作品を集めた無言館で奏でる平和への祈り
メシアンが収容所で作曲した「世の終わりのための四重奏曲」
 ヨハネの黙示録10章に基づいて作曲されている。
▽アルトマン、白井圭、横坂源、岡本麻子

長野県上田市 戦後75年を前に、戦没画学生の作品を集めた無言館で奏でる、平和への祈り
捕虜収容所でメシアンが作曲した名作「世の終わりのための四重奏曲」
ディルク・アルトマン(クラリネット)白井圭(バイオリン)横坂源(チェロ)岡本麻子(ピアノ)
出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる
2019年9月長野県上田市での4K収録
          ―番組紹介よりー
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オリヴィエ・メシアン(19081992フランス)
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世紀を代表する現代音楽作曲家。音と色彩に特別な感性を持ち、神学者、鳥類学者としても活動していた。親日家として知られ、1985年京都賞受賞の際にも妻イヴォンヌ・ロリオとともに来日。「世の終わりのための四重奏曲」は、第二次世界大戦中に作曲された。招集されフランス軍兵士となったメシアンは戦地で会った音楽家のために作曲。その後ドイツ軍捕虜となり19411月ゲルリッツの第8A捕虜収容所で初演された。

🎧名曲アルバムはアイルランド民謡「ダニーボーイ」/編曲・上柴はじめ
世界中で愛されているアイルランド民謡「ダニー・ボーイ」。大切な人を失った悲しみに寄り添う歌詞と柔らかな響きの旋律を北アイルランドの風景とともにお送りする。ー番組紹介よりー
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もともとこの曲は、北アイルランドのロンドンデリー州リマヴァディに住むジェイン・ロス(1810~1879)が1851年に採譜したもので、タイトルも歌詞もない器楽曲でした。 後にロンドンデリーで採譜されたということで「ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)」として知られるようになったようです。
「世界の民謡・童謡」 ダニーボーイについてはこちら


⛳5月5日(木)分を更新
どんどん月日が逃げ去り、このごろは、「おーい、待ってくれ!せめて並足で頼む!」の冗談も出ない。同じどんどん行くならオネゲルの蒸気機関のように力強くと思うも、何やら、脚力が追い付かない。逆らうも疲れ、ここは神を見上げて自然体で。
10時57分更新
いま火災注意を促すクルマが傍らを通過中。空気乾燥。
火災か事故か、けたたましくサイレンを鳴らし、緊急車も通過中。


追加 ヨハネ黙示録10章

1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
3 獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。
5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
8 それから、前にも私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」



 

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220504 クラシック俱楽部を聴く 無言館・祈りI〜戦後75年 戦没画学生慰霊美術館から

戦没画学生の作品を集めた無言館で奏でる平和への祈り戦争に触発されて作曲されたクラムの「ブラック・エンジェルズ」、バーバー弦楽四重奏曲他長野県上田市で収録 戦没画学生の作品を集めた無言館での平和への祈り
戦争に触発されて作曲されたクラム作曲「ブラック・エンジェルズ」、ビーバー作曲「パッサカリア」、バーバー作曲 弦楽四重奏曲▽川又明日香、瀧村依里(バイオリン)正田響子(ビオラ)髙木慶太(チェロ)白井圭(バイオリン)
出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる長野県上田市
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🎵絵筆を握っていたい、一生描き続けられるはずだった若者たちに赤紙。その無念さ。出征直前に画布にとどめたかった想いに涙。


 

🎧名曲アルバム。メンデルスゾーン「交響曲イタリア」。
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若きメンデルスゾーンが旅した、憧れの国「イタリア」。海の都ベネチアの「ドゥカーレ宮殿」「サン・マルコ寺院」に残る、美しく圧倒的な芸術とともにお送りする。ー番組紹介よりー

⛳5月4日分を今日5月5日更新。10時47分





 

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220503 クラシック倶楽部を聴く ディファレント・トレインズ〜ストリング・クヮルテット・アルコ

アメリカの作曲家スティーヴ・ライヒによる1988年の話題作「ディファレント・トレインズ」ホロコーストを生き延びた人々の肉声と音楽を融合した傑作をお送りする。
【演奏】ストリング・クヮルテット・アルコ 伊藤亮太郎(バイオリン)双紙正哉(バイオリン)柳瀬省太(ビオラ)古川展生(チェロ
【曲目】
弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41第3(シューマン)
ディファレント・トレインズ(スティーヴ・ライヒ)

【収録】2008年2月25日 NHKスタジオ
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以下はwikipediaから
「ディファレント・トレインズ」の演奏形態
あらかじめ録音された、弦楽四重奏の演奏、話し言葉の断片、電気的に加工された汽車の音、サイレンの音のテープを流しながら、弦楽四重奏が生演奏を行う。
「ディファレント・トレインズ」に録音された音声
ライヒは初期の『イッツ・ゴナ・レイン』(1965年)、『カム・アウト』(1966年)で録音された人間の声を音楽の素材として使ったが、『ディファレント・トレインズ』はこれらの作品をルーツとしている。作曲するにあたり、ライヒは録音された声の中から、音高が聞き取れる部分を抜き出し、これに弦楽器の音程を当てはめ、楽譜に記した。『ドラミング』(1971年)以降、声に楽器の音を模倣させる手法が使用されていたが、ここではその逆が行われている。
以下の5人の声が使用されている。
・ライヒの家庭教師だった女性ヴァージニア(Virginia)。録音当時70歳。ライヒが幼少の頃の汽車の旅に同行した頃の思い出を語る。
・かつて客車のポーターを務めていたローレンス・デイヴィス(Rawlence Davis)。録音当時80歳。ニューヨークとロサンゼルスを結ぶ列車で働いていた頃の彼自身の思い出を語る。
・ホロコーストを生き延び、アメリカに移住した人々の証言を記録したテープから、Rachella Paul Rachel 3人が当時の体験を語ったもの。エール大学の図書館などから入手した。

録音テープには、声と弦楽四重奏の演奏以外に、以下のものが使用されている。
193040年代のアメリカとヨーロッパの汽車の音を録音したもの。
・サイレンとベルはエレクトラ・サウンド・エフェクツのものを許可を得て使用。
※録音の加工には、カシオのサンプラー(FZ-1FZ-10M)が使用された。

🎵14年前のスタジオ録音。このころはまだクラシック倶楽部を聴く習慣はなかった。こういった異色の手法による作曲をはじめて聴いた。 こんなことを思いつく音楽脳がどうなっているのか。作品の中には楽器での語りに言葉の抑揚、アクセント、その場の雰囲気が捕らえられている。オネゲルの蒸気機関への思い入れとは違った時間の旅に同乗し、駅から駅へ、ドラマからドラマへ、歴史から歴史へ。ユダヤ人の収容所におけるはく奪と殲滅までを、戦争の終わり、少女の歌を好むドイツ人、作曲者の人生の断片を、1953年を、再びアメリカでの列車の旅。駅の案内が入り、共に旅し人生を共有することとなった。

🎧名曲アルバム。ドビュッシ―「月の光」
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⛳5月3日分を今日5日に更新9時10分

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220502クラシック俱楽部を聴く モノオペラ「アンネの日記」   

 クラシック倶楽部、孫の誕生や、家族の出入りがあり、更新しかねていたが、できるだけ書いておかないと、せっかく聞いたものがすべてこぼれ落ち、時間の流れに埋没しそうな無念さから、また書き残しているのだけれども。
 5月2日からは、過去に放送された戦争に関わる内容の作品が取り上げられている。きょうはウクライナに平和への足掛かりはないか、きょうこそ平和への秘策はないのか。いつになったら経済制裁でなく、圧力でなく、武器供与ではない解決への道が開かれるのか。直接は火の粉が降りかからない遠隔の地で人はコロナを警戒しながら普通に社会生活をし、TVを、野球観戦を、今なら出不精の私とは違い大いに旅を楽しんでいる方々もあるだろう。その同じ時間帯に戦車で踏みしだかれ泥にまみれ、打ち込まれるミサイルにおののき、隠れ場に恐怖に飢えに寒さに震え、深刻な病やけがに痛みに耐えている大勢の方々が実際に今この瞬間に存在している。戦争に関する音楽は明日木曜日まであるようだ。
 

5月2日 クラシック倶楽部を聴く モノオペラ「アンネの日記」
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ナチスから逃れ隠れ家で書かれた名作「アンネの日記」をもとにロシアの作曲家フリドが1969年に作曲したモノオペラ。NHKスタジオ収録、放送による日本初演を再放送。
モノオペラ「アンネの日記」グリゴリ・フリド作曲▽天羽明恵
(ソプラノ)下野竜也(指揮)東京フィルハーモニー交響楽団
ロシアの作曲家グリゴリ・フリド(1915-2012)が1969年に作曲したソプラノ歌手一人によるモノオペラ原作は第2次世界大戦中にナチスから逃れドイツからオランダに亡命、家族とともに隠れ家生活を余儀なくされた少女アンネ・フランクの日記2010年2月18日 NHKスタジオ収録ー番組紹介からー
字幕は伊藤未花

🎵これがロシアの作曲家グリゴリ・フリドの作曲なのだ。日本初演。1942年からのアンネの隠れ家での閉塞感、不安、恐れ、そのような状況下にあっても憧れ、天への希望を天羽明恵が丹念に情感こめてたどってくれた。アンネが誕生日に両親から日記帳をプレゼントされるところから始まっている。2年間隠れ家で過ごしたアンネは、1945年にベルゲン・ベルゼンの収容所で15歳の生涯を閉じている。「アンネの日記」は、2009年にユネスコ世界記憶遺産に登録されたという。
 何が記念館におさめられ、何が世界遺産に登録されようとも、戦争が止まない。人間の暗部の深さをおもう。

🎧名曲アルバム。ハイドン「弦楽四重奏曲 ひばり」
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ハイドンのパトロンはエステルハージー卿。30年近く卿に仕える。

⛳5月4日19時58分更新に一旦更新
そして続きは、
この2日5時には曇ってはいても景観ははっきりとしていた。それが「アンネの日記」を聴きながらふと外に視線を移すと一面に深い霧がたちこめていた。TV画面時刻は5時が26分。僅か30分の間に。そているうち深い霧の奥から朝日が輪郭を現わしはじめた。久方ぶりに見る幻想的な世界。カメラを向けたもののその素晴らしさが映り切れてはいないのだけれども。その雰囲気だけでも。
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5月4日20時54分再更新

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220430 クラシック倶楽部を聴く 山宮るり子 ハープ・リサイタル

コメント(途中から)
 演奏については、作品によって、その作品に合った音を出したいなというのもありますし。ちゃんと自分の音を作っていきたいなと思います。あとは、ハープのために書かれたオリジナル曲を弾く場合、たいていお客様にとっては、その曲を初めて聴くことが多いんですね。でも初めて聴いた方でも、その曲の魅力が伝わるようにということは心掛けています。あとはアレンジものだったりしたら、オリジナルを超すような気持ちで弾くようにしています。
 「映像 第4集」、この曲はハープのために書かれた曲なんですけれども、そういった曲は自身もハーピストだったという作曲家が多いんですね。トゥルニエ自身もハープを弾く方で、そういった作曲家の中ではとても個人的にトゥルニエが大好きです。で、この曲はタイトルの通り、映像や情景が目の前に広がるようなすごく豊かな曲で、私自身弾いていても世界に入り込んでしまうような曲で、とても好きです。

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曲目
幻想曲 ハ短調 作品35(シュポーア)
「セビリアの理髪師」から「静かに静かに」によるロンド(ボクサ)
ノクターン(グリンカ)
「わが祖国」から交響詩「モルダウ」(スメタナ作曲・トルネチェク編曲)
(ドビュッシー)
「ベルガマスク組曲」から「月の光」(ドビュッシー)
映像 第4集 作品39  
(トゥルニエ)
 

🎵淡彩の絵筆が動き、透明感を損なわずに弱く強く細く太く、緻密に繊細に描写されていくような。

🎧名曲アルバム。オネゲル「パシフィック231」
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この機関車を曲にしたオネゲル。

⛳書いておかねば気が済まないということでの更新。そろそろ力なくなってきているなと覚えつつ、一言でも音楽を書いているとすっきりと。



ついでに翌日4月30日土曜日、これは音楽番組はなく、昭和50年放送の新日本紀行。阿蘇だった。野焼きが壮観で、子供のころ、家の近くを通っていた線路向こうの枯草色の土手が、いつの間にか真っ黒に様変わり。野焼きの跡だった。その黒い一帯を魔法にでもかかったような思いで眺めまわしたものだった。春にでてくる蕨、黒い炭の上に生え出る蕨がおもしろかったことが思い出された。
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また阿蘇に伝わる「てまり唄」がある。
⛳4月29、30分も一応、書きおく。 22時26分更新


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きょうのことば「大いなる逆説」

 インマヌエル盛岡キリスト教会2022年424()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『大いなる逆説』  (國光勝美 牧師)
引証聖句 コリント人への手紙 第一151220
12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

<メッセージ>
 20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
今日は、「大いなる逆説」、パラドックスと申しましょうか、これに私たちの心をしばし向けたく願っております。

 

 いつものように、前回の簡単なおさらいをさせていただきましょう。
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 前回は「私の主、私の神よ」というトマスの信仰告白について心を止め、聖餐のテーブルに与ったことです。この「私の主、私の神よ」ということば、まさにこれは、神の御名をみだりに口にするということは絶対にユダヤの人たちにとっては、これほど畏れ多いことはない、これはあり得ないことでありました。それを敢えてトマスは、「私の主、私の神よ」と。これは単なる感嘆の言葉ではなく、むしろ、これを主イエス様は禁じなさらずして、むしろよく言ったと真正面から受け止められました。「私の主、私の神よ」、この信仰告白を思いますとき、私はペテロの信仰告白のことを心に止めたく願いました。「あなたは生ける神の子キリストです」。これは皆さんご存じのマタイ1616節にでてくるあの変貌山直前のピリポ・カイザリヤ地方におけるペテロの信仰告白であり、これを、弟子たちの口から受けたイエス様は、これに励まされるようにして、十字架の道に歩んで行かれたことを御前に覚えます。まさにこれこそ、「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイ1617)とイエス様は仰られたように、聖霊様が働いてくださるときに、ほんとうの意味で、「私の主、私の神」と私たちは告白することができるのであります。そしてこのトマスの告白が私の告白となる。ここにたしかな希望、たしかな栄光、これを見ることであります。このように前回は恵みをいただいたことであります。
 そしてこの後、私たちは、いつものように墓前燭火のときを穴口公葬地、そして教会のお墓がある松園墓地の方へ、そして関係者のいらっしゃる新庄墓園のほうへと行ったことであります。そのとき私の心の中に、まさに、これこそ大いなるパラドックス、この思いがずっと強く迫ってまいりました。賛美を流しますので、きょうの主題を思いながらどうぞお聴きください。

 

 

♪いかなるめぐみぞ
   (インマヌエル讃美歌257、教会福音讃美歌304)

1、いかなる恵みぞかかる身をも
妙なる救いに入れたもうとは


2、この身もかつては世の闇路に
さまよい出でたる者なりけり


3 、救いにあずかり日々保たれ
かくあることさえくすしきかな


4、御国にいたらばいよよせちに
恵みのみ神をたたえまつらん


 

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「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25)

 このお墓を教会のものとして、皆様方とアイデアを出し合い、デザインをし、そしてここに刻むおことばを祈り求めたときに、「我は復活なり、生命なり」というこのヨハネ1125節のおことばでした。讃美歌もリクエストいただいて、「いかなるめぐみぞ」の讃美歌の一部を刻んでいただきました。ほんとうにすばらしい恵みの教会墓地を作っていただいたと思います。

 お墓というものは、私たちにとって避けられない死という情け容赦のない現実が勝ち誇ったしるしとしてあるという表現をできるかもしれません。しかし、このみことば、「生きてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことがありません」これほど大いなるパラドックスはありません。イエス様は、「あなたはこのことを信じますか」と福音書の中に記しております。お墓ほど大いなるパラドックスはありません。人間にとって敗北のしるしとさえ考えられる死というものは、見事に永遠の希望と確信をもって、よみがえられたお方と結びつく、こんなにすばらしい大いなるパラドックスはありません。

 この大いなる逆説ということを改めて思います時に、聖書の中には、逆説が満ち満ちている、このように言わざるを得ません。
第二コリント129節にこんなことばがあります。
「『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」
 ここに逆説が満ちていますね。私の力は弱さのうちに完全に現れる。弱さのうちに完全に現れるのがわたしの力だ。こう聖書はいっています。 

 復活の主。このお墓を前に、またこれを思い巡らしますとき、ほんとうにそうだ。私たちの弱さのうちにこそ、完全な神様の力が現れるのだ。こう心底アーメンと告白をしたことでございます。
 ここにその根拠があります。なぜなら、それはキリストの恵みなのです。「わたしの恵みはあなたに十分である」。神様は恵み。不十分ですから、わたしの恵みはあなたに十分だ。そうです。弱いとき、辛いとき、悲しいときに、神様はいつでも、わたしの恵みはあなたに十分だよと仰る。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。弱さは恥ずかしいもの、そのような価値観の中で世の中は動いています。しかし、福音は違うのです。弱さのうちにこそ神様の恵みが十分に現れるから、キリストの大いなる力が私をおおうために、自分の弱さをほんとうに誇ろうじゃないかと。


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 新約聖書のローマ人への手紙というところにあります。パウロは、この724節で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、わたしを救い出してくれるのでしょうか」
 このように嘆いています。
 しかし、ローマ8章1節に、その嘆いていたパウロは言います。
「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
 律法に苦しんでも、到底私は神様の物差しに適うことはできません。こんな弱い者、どうしようもない者です。しかしそこにキリストの十字架が働くとき、そこに信仰が働くとき、心は凱歌ををあげているのです。ハレルヤ。
「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪の定めらるることなし」(ロマ81)
 そしてこのことを、以前の私そして今の私というように考えてみましょう。
第一コリント1510節にパウロは
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」
 こう言っています。同じです。「神の恵みによって今の私になる」。このパラドックス、お分かりいただけるでしょうか。世の中の価値観は、弱い者はダメ、強くなければダメ。そういう価値観の中に世の中は動いていますけれども、しかし、弱さの中にほんとうに神様の力が現れます。
 イザヤは嘆きました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ64)
ああ、もうダメだ、私は滅んでしまう。イザヤがあの神様の栄光輝く前に「私は汚れた民のうちにあって、汚れた者であるのに、栄光の主を見てしまった」。そのときに、イザヤがほんとうに「災いなるかな。我滅びなん」と自分の足りなさを自覚したときに、セラフィムが祭壇から取った燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせて罪をきよめました。
 また、ダビデは詩篇51篇の中で、バテ・シェバと通じた後に悔い改めています。
「私はあなたの目に悪であることを行いました」(514)「私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました」(515)と告白をするほど、ダビデが罪を犯し汚れた自分自身を自覚し、ああもう私はダメだといったときに、自分の弱さをほんとうに自覚し認めたときに、キリストの恵みが、勝利がやって来ました。中途半端に頑張ってしまうからダメなんです。自分自身の弱さを神様の前にほんとうに主よ助けてくださいと出るとき、神様は、そうだよ、ようやくわかったね。そう。わたしの恵みは弱きうちに現れるんだよと仰る。むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ることができるのです。
 ここに先ほどの第一コリント15章のことばを書いておきました。
「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みが無駄にはならず、私はこのすべての人たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです」
 自分の弱さにほんとに気づくときに、キリストの力が、恵みが現わされる。ほんとうに弱さに徹したとき、生きることができる。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」とガラテヤ書220節にございます。このような神様の恵みを、私たちはほんとうにアーメンと、自らの弱さを誇るというこのパラドックスを、聖霊によって経験させていただきたいと思うのです。そのパラドックスを可能にしてくださるのはキリストの十字架と復活です。ほんとうに弱く十字架で死んでくださったからこそ、生きるのです。このことを心に止めながら、今日もう一度、この第一コリント151220節を読んでみましょう。

19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

※データは教会からお借りしています。
⏰5時47分更新



 

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