きょうのことば 「仰ぎ見る十字架」
2022・4・17
イースターおめでとうございます!
きょうは全世界で主の復活をお祝いする日です。
このブログは1週間遅れで掲載しておりますので、イースターメッセージは次週になります。
☆ ☆ ☆
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年4月10日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『仰ぎ見る十字架』(國光勝美 牧師)
引証聖句 ルカの福音書23章32~49節
32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38「これはダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりは、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽が光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
47 百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。
49しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。
<メッセージ>
いよいよ受難週に入ります。「仰ぎ見る十字架」というテーマでともに恵みをいただきたく願っております。
この1週間、日曜日から次の日曜日、イースターまで、一言でこのようにこのようにというように理解をしておくとらくでしょう。
きょうは棕櫚の聖日です。パーム・サンデーと呼ばれているのですけれども。イエス様は、イエス様の命令で弟子たちが引いてきたロバの子に乗ってエルサレムに入城なさいました。群衆は自分の上着や棕櫚の葉のついた枝を敷いて、この棕櫚はなつめやしだといわれておりますけれども、こうしてイエス様を迎え、「ホサナ(ヘブライ語で「救い給え」の意味)。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫びました。
イエス様がエルサレムに入るときに、民衆が自分の服ややしの葉っぱをその道に敷いてイエス様を歓待したところから棕櫚の聖日という呼び名がついております。今でいうと凱旋パレードというような類のものでしょう。まさにイエス様は平和を象徴するロバに乗って、しかも、ロバの子、子ロバに乗っての入城です。世の中の多くは、戦車を対立させて凱旋するすがたを私たちは知っていますけれども、しかしイエス様は王の王、主の主としておいでになるとき、平和の象徴のようにロバの、しかも子どものロバに乗って凱旋されたということは、この時代、多くの考えさせられる恵みを私たちに与えてくれます。
月曜日は宮きよめの日です。イエス様は、神殿というこの神聖な場所が、両替商や捧げもの専門の祭司たちと結託して利権を貪る商人たちによって強盗の巣のようになっていることを悲しみ嘆かれました。イエス様は宮に入り、売り買いをしている者たちを追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。
そしてそのようなイエス様を見かけた人々は、イエス様に対して論争を挑んできた。しかし、イエス様は、宗教学者たちが繰り出してくる様々な問題に対して、一つ一つそれを反論していかれた。火曜日は論争の火曜日と私たちは呼んでおります。水曜日は特には聖書にはこれこれをなさったという記述は見当たりませんので、きっと主イエス様の静かな祈りのときだったでしょう。聖書はそれに対して、沈黙をしているということから、沈黙の水曜日と呼ばれております。そして、木曜日が有名な最後の晩餐のできごとです。そしてお弟子さんたちに対する様々な申し聞かせ、お別れの時。木曜日は最後の晩餐の時であります。ゲッセマネの祈りを終えられ、そして、イスカリオテのユダに導かれたローマ兵たちによって主イエス様は捕らえられ、サンヒドリンという偽りの形だけの裁きを受け、当時の支配者であるローマ帝国、その代表者である総督ピラト、彼のところに、この男を十字架につけ殺すようにと引き立てます。
ピラトはユダヤ人たちの間の複雑なできごとに関わりたくなかった。しかし、この男は自分が王だと言っている。ピラト総督、あなたがもしこの男を赦せば、あなたはローマ皇帝以外の者を王と認めることになると詰め寄られました。ピラトはここで騒動を起こされてしまっては厄介なので、イエス様を鞭打たせたあと、お前たちに委ねるとイエスから手を引きます。ここでユダヤ人たちはローマ帝国のお墨付きをいただいて、いよいよイエス様を死刑に処すことになりました。それが金曜日でした。9時に執行され、そして10時ごろにあたりは暗くなり、そして午後の3時ごろ、イエス様はとうとう「我が霊をあなたの御手にお委ねします」といって息絶えられたのでございます。イエス様は使命を全うされました。
ユダヤの人たちから見るのならば、木の上に架けられたもの、これは呪われた者ということですから、これを日の没するまで木にさらしておくようなことはやってはならない。これはユダヤの人たちの堅い意識でありました。あのニコデモが申し出て、イエス様は木からおろされ葬られたわけであります。そして、いよいよ日曜の朝、主の復活という大きな大きな出来事がございました。これが受難週の歩みとして週報にも書いておきましたけれども、どうぞ心にとめさせていただきたいと思います。
私は今日は「仰ぎ見る十字架」と題しました。最初に「強盗の仰いだ十字架」。二つ目は「百人隊長の仰いだ十字架」、最後に「クレネのシモンの仰いだ十字架」。そして敢えて結論のように「私の仰いだ十字架」がきょうのメッセージの結論ということなります。
イエス様の十字架を真ん中にして、右と左に二人の強盗が十字架に架けられました。イエス様も十字架の苦しみを余すところなく味わわれましたが、この二人の強盗も苦しみの中にありました。この二人の右と左のどちらの強盗が信仰告白をしたかは私も興味はあるのですけれども、それは書かれておりません。ふたりの強盗のうちの一人は、「お前はキリストではないか、自分とおれたちを救え」と言いました。二人の強盗は誰よりも一番近くに主イエス様を見つめておりました。このお方をほんとうに見つめるとき、私は、その人の本当の自分の姿が映し出されるように思うのです。一人は、「おれを救え」。自己中心です。最後まで「おれ」、自己中心。そういう思いを持ち続けておりました。しかし、もう一人の強盗の方は、「お前は神を畏れないのか、お前も同じ刑罰を受けているではないか。俺たちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は悪いことを何もしていない」と言いました。イエス様の十字架を直視するとき、強盗たちは自分たちの今まで歩んできた人生の醜悪さ、それをほんとうに知ることができました。そのうちの一人は、「おれを救え」。しかしもう一人は、イエス様が「父よ彼らをゆるしてください」ということばを一番近くで聞いた時に、彼はほんとうにイエス様を仰ぎ見ることができました。
そしてもう一つ、「100人隊長の仰いだ十字架」、これを見ていきたいと思います。百人隊長というこの人は、ローマの軍隊の、いちばんの現場の指揮官です。こういう処刑の現場に立ちあうということは、それほど位が高いローマの兵隊ではないと思います。しかし、彼は戦闘の最前線に入っている人です。人間の死というものをイヤというほど日常的に見ていた人でしょう。そして、おそらくこれは想像ですけれども、正しく生きている人間に釘を打つという、当時の最も残忍な十字架刑を直視している。この100人隊長はたくさんのそういう人の最期を見ていたでしょう。釘を打たれる者が、瞬間人が思わず叫ぶ言葉や人間の本当のすがた、この修羅場を一番よく知っているのは100人隊長だと思います。そのローマ兵が、イエス様を「ほんとうにこの方は正しいひとであった」と言ったのです。
私はちょっと関心がありまして、この「正しい人」という意味は何なんだろうかと思い確かめてみたところ、このローマ兵の言っているこれは、「神様を意識した正しいということばの意味。神の目から見て正しいという理解」で、これが「正しい人」の語源の意味である。彼が知っている神様というものは、勿論ローマの神様でしょう。ローマの神話に出てくるような神様でしょう。だけども、それらのことを超えて、人間にはほんとうに神を畏れるという思いが誰しもあるのです。どこの文化のどこの人であろうとも。そこにイエス様の十字架の死というものを、100人隊長は、「この人はほんとうに正しい人だ。神の前に正しい人だ」ということを思わず告白をした。
これは想像ですけれども、100人隊長、この人、クリスチャンになったと思いますか。私はぜったいになったと思います。一番現場にいたわけですから。イエス様の最期を一番目の当たりにしていた男です。
イエス様が葬られたとき、墓の入り口を塞ぐ石にはローマの封印がしてありました。誰もローマの許可なくこの石を取り除けてはならない。それをローマの兵隊たちが命を賭けて番をしていた。しかし、その石が転ばし去られているのを、ローマの兵隊たちは見ているのです。
このローマの百人隊長、イエス様の死とそしてイエス様の復活ということを、いちばん近くで知った人が、「ああこの人は正しい人だ」。彼はきっとその後いろいろなところに転任していくであろうところに、イエス・キリストのことを証ししていったに違いない。私はそう確信します。この場所にいて、イエス様を信じないはずはない。このお方は、ほんとうに正しいひとであった。
もう一つ、私はクレネ人シモン、この人物に注目していきたいと思うのです。今世界中に、ウクライナの戦争の映像が配信されています。そのウクライナよりさらに南下、地中海の西、アフリカ大陸の上の方、イタリアの対岸あたりにクレネがあります。
クレネ人シモンはこの遠いクレネからエルサレムにやってきていた。そしてイエス様が十字架を負わされてゴルゴダへの道を歩んでいるところに、群衆の一人としてたまたまそこで見物していた。そこにローマ兵から、力尽きたイエス様に代わって十字架を負うようにと命じられ引き出された人物でした。
イエス様の十字架の場面にクレネのシモンが出会いました。これも皆さんご想像ください。イエス様、きっとクレネのシモンに申し訳ないな、有難う。何回も何回もクレネのシモンと目と目が合ったに違いありません。イエス様の苦しい息、そのイエス様と目と目が合って、このイエス様と一緒に十字架を担いでいったとき、クレネのシモンはイエス様の十字架をほんとうに仰いだ人になったはずです。皆さんきっと皆さんも私の想像に賛同してくださると思います。死刑場に着きました。クレネのシモンはこれで解放されると言ってそのまま帰ってしまったと思いますか。ぜったい私はそんなことはないと思う。クレネのシモンが、あの愛のまなざしをもって自分を何回も振り返ってくださったお方が架けられた十字架を最後まで見上げていたはずです。イエス様の発せられた一言一言、このクレネのシモンはイエス様の十字架を仰いだ人物であります。
マルコの福音書15章21節
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロルとルフォスの父で、田舎から来ていた。
「アレクサンドロルとルフォスの父」といったのでしょうか。この時すでに、アレクサンドロルとルフォスがクリスチャンになっていたに違いない。だから、マルコは、ほらみんなが知っているアレクサンドロルとルフォスの父、彼が、あのお父さんがイエス様の十字架を背負ったんだよ。そして、
使徒の働きの13章1節、さてアンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。
とあります。
ほんとうにイエス様の十字架を仰ぎ見た人。十字架の強盗。そして、ほんとうにこの人は神の子だったと言った100人隊長。そして、クレネのシモン。イエス様の十字架を仰いだ人たちがどれほど大きな祝福をもたらしていったのか。
結論として、それは私にとって、イエス様の十字架はどんな意味があるのか。
イザヤ45章22節に「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」
この十字架は敗北ではなくして三日後に墓からよみがえってきてくださった、このたしかな希望、この栄光、これがイエス様の十字架であります。私たちは生涯イエス様の十字架を仰ぎ見続け、そしてたしかな希望、復活の栄光がある、それを心の中にしっかりと捕らえた歩みをさせていただき
たいと思います。
※データは教会からお借りしています。
礼拝では、このほか地図二枚も使われましたが省略してございます。
⏰8時55分更新
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